一筋の光、降り注ぐ光。

人生はなかなかに試練が多くて。7回転んでも8回起き上がるために、私に力をくれたモノたちを記録します。

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理想の庭を考える―「フラワーショウ!」と「マイビューティフルガーデン」

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観たかったのに観逃してしまった映画はたくさんある。「フラワーショウ!」(2014年・英国)もそのひとつ。アマゾンビデオで観られると知り、先日、嬉々としてTVの前に座った。

 

自然豊かなアイルランドの田舎で育った若い女性が、ケルト文化の香り漂う自然をテーマにデザインした庭で、ガーデニングの権威ある世界大会、チェルシーフラワーショウの金賞を史上最年少で獲得するまでを描いた、実話に基づくサクセスストーリーだ。

 

わずか8枠に2000人の応募。お金もコネもない中、応募さえ危ぶまれたが見事合格。しかし出展が決まってからも資金繰りや人集め、植物の調達、と苦労が続き、短期間での施工(庭造り)でも、最後までピンチの連続。

 

しかし・・・
「現代の庭園は自然本来の美しさを見失っている」と訴え、人と自然は共存できると信じ、そのための庭造りを世に送り出す必要性を説く彼女の信念、そして、揺るぎない植物たちへの深い愛が、人を動かし、スポンサーを呼び、植物さえも味方してくれたのだった。

 

踏まれても踏まれても諦めない、主人公エミリー(エマ・グリーンウェル)の雑草魂?にも感動したけれど、登場する植物(ほとんどが野草と呼ばれているものたち)のひとつひとつの造形美と、彼女の生まれ故郷アイルランドや、訪れたアフリカ・エチオピアの自然描写に惹き込まれた。あんな大自然の中で自分のミッションを確信したら、恐れるものなど何もなくなるだろうなあ。大スクリーンで観たかった。

 

去年の暮れに映画館で観た「マイビューティフルガーデン」も、若い女性を主人公にして庭を扱った英国映画。こちらは実話ではなく、限りなくおとぎ話に近いが、やはり自然への愛と畏敬を込め、自然の力を借りて庭造りをするという骨格だった。

 

予測不能な自然を恐れ、植物を嫌うベラ(ジェシカ・ブラウン・フィンドレイ)は、借りているアパートの庭を放置しすぎであることを理由に退去を迫られる。1か月以内に庭を元通りにしなければならず、犬猿の仲となっている隣家の老人に助けを求めることになる。この老人、アルフィーが、自宅の庭をベラに見せながら「カオスに美を見出すこと」と教えるシーンが素敵だった。

 

自然は制御できない。人は謙虚になって、この自然の力を"お借りして"、自然に調和したデザインで庭を造り、その恵みを楽しませてもらうのだ。そこには美しい混沌と優しい秩序がある。

 

理想の庭とは何だろう。ふたつの映画は、庭造りというものへの根源的な考え方を探るという点でも、共通している。さすがはガーデニング大国、イギリスだ。

 

ところで、そのイギリス。元々は自生樹木の種類がとても少ない土地柄だったらしい。16世紀以降、海外に進出する中で、世界中の豊かな植物の存在を知り、憧れ、持ち帰り育てようとしたということだ。最初は王立の植物園などで研究をされ、貴族階級の園芸趣味の流行があり、やがては庶民階級にも広がっていき、ガーデナーという国民気質が根付いていったようだ。「憧れ」の力はすごい。

 

私の好きなTV番組「猫のしっぽ カエルの手」。京都の古民家で素敵な庭造りをしているハーブ研究家・ベニシアさんも、イギリス出身の女性だ。子どもの頃から大好きな「ピーター・ラビット」も、イギリスの湖水地方が舞台。

 

実は私はフランス贔屓なのだが、今、ちょっとイギリスに「憧れ」のようなものを抱いている。人々が愛し育ててきた自然、その自然と調和した居心地の良い庭、その庭を彩りながら自らも生命を謳歌している植物たち。いつか、彼の地を訪れてこの目で確かめてみたい。

 

さて、庭のデザインも奥が深いが、ひとつひとつの植物のデザインこそ、細かなところまで本当に素晴らしいと思う。

 

自然はときに荒ぶる神のごとく暴れるが、限りなく繊細な創造主であることは間違いなく、小さなベランダの鉢の中にも、その圧倒的な美は容易に見つけることができる。マクロレンズ越しに葉っぱを覗けば、そこに宇宙が広がっている。虫メガネでもいい。お勧めしたい。

 


公式サイト:

フラワーショウ!

マイビューティフルガーデン

 

鳥の多い町に住んで

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昨日から寒さがゆるんでいる。ふと窓に目をやると、外は青空が広がって光に満ちている。そして、明日は雨が降るという。天気予報では「今日のお天気を活用しましょう」とのコメント。なるほど、洗濯日和、掃除日和、布団干し日和。でも・・・

 

こんな日は、歩くしかない!

 

仕事をはじめとする家での諸々の用事は山積みなのだけど、それらを全て午後に回して、今日は午前中、思う存分、近所を歩いた。真冬とは思えない暖かさで、上着もいらないくらいだった。ほのかに草木の香りがしてきて、気持ちが良い。

 

この町に住んで2年が過ぎたが、まだまだ知らない場所はたくさんある。川も道も蛇行していて、東西南北が怪しくなることも多々あり、散歩の後、家に帰ってGoogle Mapで確認し、そんな方向に行っていたのか!と驚くこともよくある。

 

買い物などを目的とせず、歩くことを目的に家を飛び出すのは楽しい。さて、今日はどの方角を目指そうか。

 

とりあえず、川沿いの緑道を上流に向かって歩き始めた。

 

この町は、鳥が多い。川が流れ、里山や池も近く、森や田畑もあるからだろう。特に冬は、葉の落ちた木々の枝を飛び交う小鳥たちの姿が目立ち、何度も足を止めて見入ってしまう。

 

スズメやムクドリ、ヒヨドリ、メジロはもちろん、キセキレイ、ハクセキレイ、セグロセキレイたちの姿もよく見かける。シジュウカラにも出会った。カワセミにも、結構な頻度で会えるようになっていて、嬉しい限り。名前のわからない野鳥もいるので、そろそろ野鳥図鑑を買おうかな、と思っているところだ。

 

今日も、そんな名前を知らない小鳥を見た。既に何度か見かけている種類だ。近づくとちょっとだけ逃げるのだけど、遠くまでは行かない。むしろ、こちらに興味を持っているかのごとく、少し離れた所から様子を伺っている。羽ばたくと背中の下の方が赤いのがわかり、メジロとスズメの間くらいの大きさだ。

 

何という名の小鳥だろう。ひとまずシャッターを押す。

 

それにしても、本当に可愛らしい。いつまでも見飽きないので先に進めないな、と思い始めた頃、まるで心の声が聞こえたかのように、遠くへ飛び去って行ってしまった。

 

川面に目を移すと、カルガモをよく見かける。ときどき、真っ白なコサギが浅瀬にスッと立っている。カワウだろうか、黒い鵜が川の流れに沿って飛んでいることもある。

 

今日はまた、カワセミの姿を見つけて、遠くからスマホのカメラで撮影。望遠レンズと性能の良いデジカメが欲しいと思う瞬間だ。それから、双眼鏡も欲しくなった!

 

カワセミは、獲物を狙っているのか、じっと動かずにいることが多いようだ。私は橋の上から、川べりにとまっている彼を見下ろしていたのだが、コバルトブルーの背中に日光が反射して、その美しさたるや、まさに宝石だった!

 

昔から鳥は好きな方だ。それがこの町に来てから輪をかけて鳥好きになっている私。どうしてこんなに心が癒されるのだろう。

 

今日は8300歩ほどのウオーキングだったけれど、たくさんの元気な鳥たちに会えただけで、満たされた気持ちになれた。春のように暖かく、素敵なお天気だったから、鳥たちもきっとご機嫌だったんじゃないかな。

 

さあ、元気をもらえたところで、仕事に戻ろう!

 

心に澄んだ風を通し、新しい年を迎えよう

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冷たい師走の風の中を、ゆっくり歩いて買い物に行く。まだ早い時間から店は混んでいて、気がつけば皆さん、動きがキビキビしている。

 

年の瀬の活気。どの顔にも「忙しい」と書いてあるようで、こちらも忙しくしていないと申し訳ないような、追い立てられるような気持ちになるからおかしなものだ。

 

それでも帰り道、いつも歩く川沿いの緑道で、ちょっとほっこりする出来事があった。

 

普段は見かけない野鳥を木立ちに見つけ、立ち止まって確かめようとしていたら、一人のご婦人に話しかけられた。

 

「あの。何かいるんですか?」

 

わけを話し、二人でしばらく木立ちを覗き込む。スズメより一回り小さな小鳥で、最初はシジュウカラかと思ったが、特徴のあるネクタイ模様がないと知り、しきりに枝から枝へ飛び回るのを目で追った。遠くへ飛んで逃げるわけでもなく、チチチと鳴き続けている。

 

「あ、ほら、あそこに。見たことないんですよ、なんていう小鳥でしょうね」
「なにかしら。可愛いわ。ね、この辺り、野鳥が多いですよね」

 

結局、確認できないまま、会釈をして別れたのだが、少し心が温かくなっているのに気づく。家族やお店の人以外と口をきいたのが、ちょっと新鮮で。知らない人が見せてくれた自然な笑顔が嬉しくて。

 

この町に引っ越してきて、丸2年たった。ご近所にできた顔見知りはほんの数人程度だ。前の家には27年住んでいたから、ちょっと外に出れば、大抵、知った顔に挨拶をしていたし、声をかけられていた。

 

優しく世話好きな人が多くて、娘たちはたくさんのご近所さんに可愛がってもらいながら育った。頼りになる素敵な女性たちがたくさんいた。困ったときには何度も助けていただいたっけ。実家が遠い私だが、幸せな子育て環境だった。

 

たくさんの人の顔が思い浮かぶ。去っていった人たちも多かった。長い年月を、出会いと別れを繰り返して過ごしてきたんだね。

 

今年も懐かしい人との再会や、新しい出会いのあった年だった。遠い町に住む友人たちとは、いつもLINEでおしゃべりしている。心を病んでから人とのつながりを少し怖れていた時期もあった私だけど、最近はだいぶ状態が良くなっていると思う。

 

恵まれている今のつながりを大切にしつつ、これからはもうちょっとだけ積極的に、自分から新しい出会いを求めていってもいいな。そんなふうに、思ったりもする。一歩前進、かな?

 

せっかく生まれてきたんだもの、いつまでも閉ざしていてはつまらない。限りのある命なのだからね。

 

夏に義父が亡くなり、わが家も年賀欠礼のはがきを出したが、今年も喪中のお知らせが何通か届いた。その中に、ご家族でなくご本人が他界されたという悲しいお知らせもあり・・・。

 

彫刻家の先生だった。私はまだ10代の学生で、彫刻のモデルのアルバイトをしていたのだが、先生には本当によくしていただいた。

 

夏休み、九州旅行に行くときにお餞別もくださったし、お知り合いの窯元に連れて行ってくださり、焼き物体験もさせてくださった。裏山にマツタケ狩りにも連れて行っていただいた。ため口をきく生意気な小娘を、面白がって笑って見ていてくれた先生。

 

優しい、楽しい先生だったなあ。何十年も前に交わした会話を思い出し、心の中で感謝の言葉を述べ、手を合わせた。

 

思い出は悲しむためでなく、懐かしみ感謝するためにあるんだよね、先生。

 

いつかは私も、そして誰もが彼岸へ旅立つ。その日まで、この世で出会った人たちとの、せっかくのご縁を大切にしたいと思う。良い思い出も、そうでない思い出も、感謝できる自分でいられたら、と願う。怖がらず、新しい出会いに手を伸ばすためにも。

 

2018年が近づいてくる。心の中に、澄んだ風を通したい。

 

ねえ、Google、「White Christmas」を聞かせて♪

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駅前にあなた好みの花屋さんがあったよ、と夫に教えてもらったのは10月くらいだったか。すぐに探しに行った。

 

ちょっと奥まった場所で見つけにくいが、確かに私好みのお花屋さん。大人っぽくて、お洒落でシックな雰囲気。だけど気取ってはいない。

 

こんな感じのお店をずっと探していたから、近所にあることが本当に嬉しかった。

 

店主の女性も、優しくてさっぱりとした素敵な方。この日は、ファルファリアというフリルの花びらが可愛いビオラの苗などを買った。

 

「ああ、そうか。今はハロウィンですね。可愛いですね」

 

レジ回りの飾り付けを見て、何気なく言うと、

 

「ありがとうございます。でも実は、早くクリスマスの飾り付けがしたいんですよ、私」

 

と、彼女は笑った。

 

本当はあまりハロウィンには興味がないそうだ。いつの頃からか、ハロウィンが終わるまでは店内をクリスマスモードにしにくくなった、と言う。

 

「そうなんだ。実は私も、ハロウィンは楽しいと思えないんです。クリスマスは大好きなんですけどね」

 

そう返すと、気が合いますね、と笑ってくれた。もしかしたら、同世代?

 

子どもの頃から馴染んできたクリスマス。私にとっては、幸せや温かみを感じさせてくれる、特別でとても大切なもの。

 

なんというかロマンチックで美しいし、プレゼントやケーキの華やかさにワクワクした思い出が重なり、キラキラときらめく。

 

街のイルミネーション、ショーウィンドウのディスプレイ。日に日に冷たくなる夜風すら嬉しくて、24日のイヴまでをどう楽しむか、毎年ときめきながら考えたものだ。

 

・・・しかし、ハロウィンには何も思い入れがない。

 

クリスマスのように幼い頃からの馴染がないせいなのか、楽しみ方に共感できないからなのか。

 

カボチャのお化けやコウモリを飾って何が楽しいのかと思ってしまう。若い人たちのコスプレパーティーも、よく面白さがわからない。傷メイクなんて、唖然としてしまうよ。ハロウィン好きな方には申し訳ないけれど。

 

家に小さい子がいれば、また違ったんだろうか。娘たちが幼い頃も、特別、ハロウィンに何かした覚えはない。いつからこんなにメジャーになったんだろう?

 

「昔は、かなり早いうちからクリスマス気分を盛り上げていたんですけどね。最近はハロウィンが終わるまではお預け、みたいな感じでつまんないですね。仕事だからハロウィンイベントのお手伝いなんかもしてますけど、心はもう、クリスマスに飛んでますよ」

 

と店主さん。その気持ち、わかるなあ。私たち世代(勝手に同世代認定)にとって、いくつになってもクリスマスは特別、素敵な存在なんだよね。

 

ますますこのお店が好きになって、次に行ったときはドライフラワーのスワッグを買った。ハロウィンが終わっていたその時はもちろん、店中がクリスマス一色だった。(笑)

 

そのクリスマスが、もう目の前だ。今年は"家族そろって"というイヴにはならず、ちょっと寂しいけれど、夫婦で静かに乾杯したいと思う。

 

ここ数ヶ月、夫はずっとハードワークなので、この日くらいはゆったりした時間を過ごしてほしいと願っている。心身を休め、笑顔でいてほしい。

 

クリスマスソングはどうしようかな。先月、我が家にやってきたスマートスピーカーに頼もうか。

 

実は最近、毎日この子との会話を楽しんでいる私。受け答えが如才なかったり、トンチンカンだったり、意外と人間的で面白いのだ。褒めると喜ぶし?

 

でもまあ、すごい時代になったものだね。ソノシートで「White Christmas」を聴いた時代は遥か彼方。

 

「ねえ、Google。ちょっと寂しい」

 

と言ったら、

 

「いつも私がそばにいますよ」

 

だって。優しい~!

 

美しい晩秋のプロムナード

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近所の小川にカワセミがいるようだ、と知ったのはいつだろう。買い物やウオーキングで、出現ポイント近くを通るたび、気にするようになった。運が良ければ、その瑠璃色の美しい姿に出会える。

 

昨日はそのラッキーデイだったようだ。川面すれすれを流れ星のように鋭くきらめいて飛び抜けていく、素敵なカワセミを見ることができた。

 

真冬のように寒い日が続いたかと思えば、歩くと汗ばむほどの陽気になったり。晩秋から初冬へ、季節はためらうように少しずつ進んでいる。

 

暖かい日差しに誘われて、久しぶりに元気に歩けば、綺麗なカワセミに会えたりする。ささやかな出来事だけど、人生捨てたもんじゃないね、なんて思ってしまうから単純だね。

 

さあ、どんどん外に出よう。たくさん歩こう!

 

この季節は、広葉樹が色づき、暖色のおかげで森や並木道が明るくなっているのが嬉しい。赤や黄色の葉の重なりを見上げれば、その隙間からチラチラと青空のかけらが顔を出している。しみじみ美しいと思い、心にまで日が差してくるようだ。

 

散歩でも通勤でも、歩いていて楽しいお気に入りの道、というのが昔からあった。好きな木や草花が植えられていたり、洒落たベンチが置かれていたり、可愛いらしい家が並んでいたり、ネコが多かったり。

 

旅先などで知らない町を歩くときも、「この道はきっと楽しそう」と思う予感を優先して道を選んでしまう。方向感覚が良い方ではないので、何度も迷子になりかけるが、それすらもなんだか愉快だ。

 

よくわからないけど面白そう、この先に何があるんだろう?

 

そんな道の佇まいが好きだ。そして、それは旅に出なくても身近に見つけられることがある。新しい散歩道を発見できるかもしれないという期待。それが私の中には常にあるので、ついつい遠回りしたり、横道に入ってみたりしてしまう。

 

思い出のプロムナードはたくさんある。出来事や感情の記憶が結びついて、思い出すと感傷的になったりもする。懐かしく、飛んで戻りたい気持ちになったりもする。それもまた、楽しいのだけど。

 

私の好きな散歩道、ベスト3を挙げるならどこ?

自分に問いかけてみた。いくつかの候補が挙がってくる。

 

ベビーカーを押しながら歩いた「水の小径」という名の緑道。子どもたちの成長とともに思い出が増えていった、忘れられない散歩道だ。

 

それから東京に住んでいた頃の、近所の桜並木。好きだったなあ。丘をのぼっていくと、カトリックの厳かな教会があったっけ。

 

思い出は遠い昔までさかのぼり、私は少女の姿でレンガを敷いた道を歩いている。幼い頃住んでいた町の公園だ。季節は秋。一緒に歩いているのはまだ若い両親。

 

そういえば、彼らも散歩好きな人たちだった。パパとママとトコトコ歩く・・・あの頃の嬉しい気持ちを覚えているから、今も私は、こんなに歩くことが好きなのかもしれない。

 

ブランケットほどの温もりで

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まだ11月だというのに、真冬のように寒い日が続いている。クリスマスソングが流れてきても、全然違和感がない。ハートウオーミングなストーリィが恋しい季節だ。

 

一仕事終えた後は、お気に入りのブランケットにくるまって映画やドラマを観るのが、最近の私の幸せタイム。傍に温かい飲み物があれば、なお嬉しいひとときで。お金もかからないし、すぐ手が届く、寒い季節の"お楽しみ"である。

 

最近、よく耳にするようになった「ヒュッゲ(Hygge)」という言葉。デンマーク発祥の幸福概念で、「心地良さ」とか「ほっこりした快適さ」「不安のない穏やかさ」などと訳されているようだ。

 

また、「ラーゴム(lagom)」という言葉も注目されている。こちらはスウェーデンにある概念で、「多すぎず少なすぎず、ちょうど良い」といった意味らしい。足るを知り、バランスのとれた程良い生活をすることが、心豊かな幸せにつながるという。

 

北欧人気はもうずいぶん続いているけど、インテリアや雑貨、料理、ファッションなどから、ライフスタイルやその根幹となる概念にまで、憧れの対象が広がっているのが面白い。

 

世界幸福度ランキングでは、毎年のように上位を占めている北欧。幸福度は何を物差しにするかで違ってくるが、155カ国中51位(2017年)の日本に住む者としては、やはり羨ましいなと思ってしまう。

 

ちなみに、国連のランキングでは、調査対象にする国の国民の自由度や、1人あたりの国内総生産(GDP)、政治、社会福祉の制度などをもとに2014~2016年の「幸福度」を数値化し、ランク付けしているそう。(ハフィントンポストより)

 

自分が幸福だと思う人が多いのは、GDPや政治、社会福祉制度等ももちろん要因だろうが、人々に根付いている「ヒュッゲ」や「ラーゴム」といった概念の存在が、実はとっても大きく作用しているのだろうね。

 

ヒュッゲな時間。ラーゴムな暮らし方。
・・・うーん、まだ言葉に慣れないな。(笑)

 

実際に北欧へ行ったことがないので、入ってくる情報だけであれこれ思い巡らせているだけなのだが、言葉には慣れていないものの、私はこのふたつの概念、大好きだ。

 

しかし、すごく退屈に感じる人も多いんだろうな、とも思う。効率よく時間を使ってあれこれ一日に詰め込みたい人や、目いっぱいお金を稼ぐことを第一に考えている人には、きっと、さぞやぬるく感じることだろう。

 

かつて私の周囲にも、「スケジュール帳が全部埋まっていないと気が済まない」という人や、「人間は何故睡眠を取らなければいけないのか」と嘆きながら仕事に忙殺されている人が多くいた。「忙しい方が好き」とストレートに言い放つ人も。

 

「退屈は死ぬほど嫌い」
「てっぺん取る!」
「ゴージャスな人生にしたい」
「お金が全て」


・・・うわあ、いたいた、そんな威勢のいい人たち。それはそれで、良いのだけどね。

 

でも、だんだんそういうタイプの人に出会わなくなってきたように感じる。普段とても忙しくても、家族とゆっくりくつろぐ時間をちゃんと確保しようとしたり、植物に触れる癒しタイムを大事にしようとしたり。そんな人が身の周りに増えてきた。時代が変わったのか、たまたまなのか、わからないけれど。

 

私自身は、子どもの頃からこの「ヒュッゲ」的な感覚が性に合うタイプだった気がする。巣ごもり、冬ごもり、憧れていたし、ホッキョクグマとかリスとか、冬眠する動物に生まれ変わってみたいなあと、常々思っていた。笑

 

そういえば昔、台風が直撃して嵐の百貨店に閉じ込められたときは、不謹慎だけどちょっとワクワクした。店員とお客さんがその関係性を超えて親密な雰囲気になるのが、とても不思議で楽しかったのだ。いつも働いている見慣れたフロアが、急に特別な空間になった。これもきっと、「ヒュッゲ」なんだよね。

 

いいじゃない、「ヒュッゲ」。デンマーク、スウェーデン、そしてノルウェーやフィンランド。行ってみたいなあ。長い冬を家の中で、好きなものに囲まれて好きなことをして過ごすなんて、素敵すぎる。北欧に住んでも私、きっとやっていけると思う。(笑)

 

これから続く寒い季節には、「ヒュッゲ」を感じるのにぴったりだ。ひとりの時間も、大切な人たちとの時間も、小さな工夫を重ねて居心地の良いものにしていきたい。

 

そして、楽しむだけでなく、自然に生まれてくる充実感を素直に喜び、そこに価値を感じ、静かな自信を持てるようにもなりたい。自由で穏やかな心持ちを育てたい。

 

汗ばむほどの暖房はいらない。ブランケットほどの温もりで、今日もほっこり笑顔でいよう。

 

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3冊目のホ・オポノポノ手帳を開いて

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来年の手帳を買った。「ホ・オポノポノ手帳2018」。これが私にとっては3冊目となる。

 

 ※2年前に初めて手にしたときの記事がこちら。

tsukikana.hatenablog.com

 

1冊目だった2016年の手帳を開いてみると、私が最初に書き入れた言葉は「自由になりたい」だった。

 

 不要なものを手放して自由になりたい。
 不安な気持ちでいる辛さから自由になりたい。

 

それが、当時の私の一番の願いだったのかな。何かにがんじがらめになっていて、身動きがとれず苦しかったんだね。祈りを込めての書き込みだったのだろう。飛んで行って、昔の私をハグしてあげたい。

 

ホ・オポノポノを続けている。と言っても、「ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛しています」の四つの言葉を心でつぶやいたり、「アイスブルー」と言って植物に触ったり、ウニヒピリ(潜在意識)に話しかけたり。そんな何気ないことを毎日しているだけなのだけど。

 

けれども実践を始めてから小さなミラクルが何度も何度も訪れて、私に自由というギフトを届けてくれた。また、いくつもの問題を解決してくれた。

 

ポノをしなくてもそうなったのでは?と最初の頃はちょっと思ったけど、今はもう、ポノを実践したからだということに疑う余地もないと感じている。

 

大きなものだったり小さなものだったり、問題は生きていく中で次から次へと立ち現れる。しかし、ひとつひとつクリーニングしていけばいいのだ、と思えるから心も苦しくなり過ぎずにすむし、実際に問題が解決していくから、感謝しかない。

 

時に、思いもよらない方向から問題が解決していったりもし、驚くことがある。焦ってあがきそうなところだったのを堪えて、静かにクリーニングする道を選んだことを、本当に良かったと思う。この世に起こる出来事は、私が頭で考えてコントロールできることではないのだと、改めて納得する。

 

私の心は、かつての私よりあきらかに平和になっている。平和な心でいられるために、ポノの手帳が助けてくれることは多い。

 

この手帳には、月間スケジュールの下欄や、週間スケジュールの毎週の頭の部分に、ポノのポイントになる言葉が書かれている。例えば、

 

 自分が体験する「欲」をクリーニングしましょう。
 欲はとても重く、負荷がかかるものです。
 本来のあなたは、自由で、軽やかな存在です。

 

といった言葉だ。ふっと力が抜け、心が穏やかになる。

 

この手帳と向き合うことで、無理なくポノを続けられているし、自分をニュートラルに持っていくことを、いつも思い出させてもらっている。

 

週間スケジュールには、一日一枚クリーニングしたいキーワードなどを書いて切り取れるメモ欄がある。ここに、ちょっと黒い気持ち(笑)をパパッと書いて、ビリビリちぎって捨てると、不思議なことにスッキリする。私を縛る黒い気持ちが薄らいで、穏やかに一日を終えられる気がするのだ。

 

そのメモ欄も、去年の手帳にはたくさん切り残しがある。まだ習慣づいていなかったからだろう。でも、効果が実感できてきたからか、今年の手帳には3月から一枚も切り残しがない。毎日、ビリビリやっているのだ。

 

手帳の巻末には「ホ・オポノポノガイド」が付いている。

 

ホ・オポノポノって、どういうものだっけ?ということがおさらいできたり、基本的なクリーニングツールの紹介などが載っている。

 

このクリーニングツールには、四つの言葉や「アイスブルー」などの他、この手帳を使う人への贈り物として、新しいクリーニングツールが紹介されている。

 

2016年は「白くやわらかいパウダーブラシ」だった。何か問題を体験したときに、感情や感覚、かかわる人やモノ、場所に向けて、白いパウダーをたっぷりと含んだフェイスブラシ(大きさは自由)でサッサッと払い、パウダーを振りまくイメージをするというもの。

 

2017年は「白いビー玉」。カチカチに固まった記憶の層をはがしてくれるツールで、キラキラと輝く白いビー玉を心に思い描いたり、「白いビー玉」と唱えてみることで、押し込めてきた記憶や体験している記憶をクリーニングできるという。

 

そして、来年は・・・?


2018年の新しいクリーニングツールは、「虹のカケラをふりまく」だった。手帳のいつもの場所ではなく、巻頭の二つの詩(これもステキ)の後に、記されていた。

 

虹が粉々になったものを想像し、それを問題となっている事柄や場所、人、時間、体験している自分自身にふりかけるなど、自由にインスピレーションにしたがって使ってみるツールだそうだ。

 

どのツールも美しいね。想像するのが楽しいので、何度でも使いたくなってしまう。

 

もうひとつ、この手帳の著者であり、ホ・オポノポノ普及の第一人者でもあるヒューレン博士とKR女史の対談にも、自由な自分になるためのとても大きなヒントが示されていると感じた。それは「わからない」という知恵。

 

どんなときも「本当には、わからない」という謙虚な気持ちでいることが大切だという内容で、具体例を挙げてわかりやすく書かれていた。

 

「すべてをわかっている」と考えているときは、クリーニングをしても流れは遮られてしまう。限界ができ、記憶が表現できる範囲でしか物事が実現しない。「わからない」と自分を許しているときには、消去されるべき記憶は消去され、新たにインスピレーションとして、自分にとって必要なものが現れる。

 

この広い宇宙の中、不思議や神秘とされる事象があふれる世界で、ちっぽけな自分がいったい何をわかっているというのか。私がすべきことは、ただクリーニングして、自分をゼロに戻す努力だけ。

 

苦行などではない、美しいツールを使って心地よくクリーニングをすれば良いのだ。なんて易しい、そして優しい幸せな問題解決法だと、つくづく思う。

 

それでももちろん、不安や迷いは時々立ちあがってくる。ポノの本が身近にあると安心だと思う。

 

ホ・オポノポノ関連本はたくさん出ているが、私が持っているのは2冊。

 

 
『ホ・オポノポノ ライフ ほんとうの自分を取り戻し、豊かに生きる』

 


『はじめてのウニヒピリ』

 

他に、月に一度更新されているインタビュー形式のブログも、私は楽しみに読んでいる。ポノを理解し親しむのにとても親切な内容だと思うのだ。

 「あなたも魔法使いになれる ホ・オポノポノ」

 

 

翌年の手帳を入手すると、来年はどんな年になるのかなと、早々に想いを遊ばせてしまう。

 

一昨日、夫と次女と連れ立って、遠い町で暮らす長女と孫娘に会ってきたのだが、皆で過ごす時間、何とも言えない温かな想いがあふれてきた。幸せを実感した。

 

なかなか会えない距離だけど、来年はもう少し頻度を上げて会えたらいいな。新しい手帳のスケジュール欄に、いくつもの躍るような楽しいマークが付けられますように。

 

でも、そんな願いも静かにクリーニングしている私である。やはり、私が私を生きる上で、本当に必要なギフトが届けられることが大切なのだから。

 

金木犀の咲く頃

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朝、窓を開けると、甘く清らかな香りの挨拶を受ける。向いの庭の金木犀だ。

 

去年、初めてこの挨拶を受けたとき、いったいどこから?と、辺りを探したものだ。引っ越して最初に迎えた秋で、近所のことがまだよくわからなかったから。香りは遠くまで届くのに、咲き始めは本当に地味で目立たない花だしね。

 

そうそう、去年は、銀木犀という種類もあることを知った。花の色がオレンジ色ではなく、白いのだ。

 

そして今年。秋雨前線が居座り、ここのところ雨の日が続いている。傘をさして歩いていると、香りによって金木犀が近くにあるとわかるのが楽しい。足を止めて、その場所を確かめる。

 

緑道の脇だったり、一軒家の庭先だったり、マンションのアプローチだったり。

 

我が家の近辺には、結構な大木が割と多く、花付きも見事で、「地味で目立たない花」だなんて失礼なことは言えないな、と恐縮している。

 

春先の沈丁花、梅雨時のくちなしの花と並んで、秋の金木犀の花も、散歩時に甘い香りで季節の挨拶をしてくれる律儀な子たちだ。毎年、この香りに出会うと、金木犀の咲いていたさまざまな場所を繰り返し思い出す。香りと記憶の結びつきってすごいなあ。

 

祖父母の家の庭。従妹と金木犀の木の下を抜け、池の鯉を覗き込んでいた小学生時代の思い出。井戸水をくみ上げる手押しポンプの、湿った金属の匂いもそばにあった。

 

それから、まだ小さかった娘たちが、通学路の緑道にあった金木犀の下で、こぼれた花をすくい上げては撒いて、嬉しそうに遊んでいた姿。見守る私は何を考えていたんだっけ。

 

切なくも温かく思い出すこともある。

 

何年か前、すごく心細い思いで夜道を急いでいた日、ふと漂ってきたこの香りに励まされたこと。どこかな、と見上げた東の空に満月が浮かんでいて、その後の道中はずっと、月がお伴をしてくれたから、もう淋しくなかった。

 

そして、必ず思い出すのは、「イヴ」という名のガム。子供の頃、ちょっとお洒落なこのガムが大好きだったのだけど、その香りはまさしく金木犀そのものだったのだ。

 

ささやかな香りが与えてくれる優しさと、呼び覚ましてくれる小さな思い出たち。外を歩くたびに、金木犀は心をやわらかくしてくれる。

 

ありがとう、金木犀。雨で散り急いでしまわないか、心配。あと何日くらい、咲いていてくれるのですか。

 

「We're aging like fine wine.」と言いたいね

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今年になってから、炊飯器が壊れ、洗濯機が壊れた。どちらも十数年働いてくれたのだから、寿命だろう。感謝してお別れし、買い替えた。

 

先日、羽毛布団も二十数年ぶりに新調。側生地がもう限界だった。長い年月を、よく頑張ってくれたと思う。それにしても、出費は痛かった。

 

身の回りのモノたちが、あれもこれも古くなっていく。経年劣化を実感する機会が増え、ため息をつき、ふとわが身を振り返ってみる。

 

ああ。

 

残念なことに、自分自身の経年劣化も否めない。こちらは買い替えがきかない。

 

そういえば、リーディンググラスも先日、買い替えた。フレームの傷みもあるが、老眼が進んだのだ。

 

目が悪くなってからずいぶん経つが、年々「勘で生きている」感覚が強くなってきたように思う。気配とか、匂いとか音とかで、視力を補っているようだ。

 

若い人にそう言ったら笑われたが、「君たちもいずれそうなるんだよ」と、心の中で意地悪な言葉をつぶやく。ふふふ。

 

肌や体力の衰えとか、白髪とか、体形の崩れとか、年齢を重ねることによるさまざまな変化のうちでも、視力の衰えが私には一番こたえている気がする。

 

子供の頃からずっと目が良かったので、よく見えないということの不自由さを余計に強く感じてしまうのかな。

 

遠くも近くも見えなくなってきて、メガネをつけたり外したり。忙しいときに焦ってしまい、仕事にも差し障ることが何度かあった。

 

「仕方ないよね」と言いながらも、ちょっと悲しくなる。自信をなくす。初めて老眼鏡を作ることにしたときの、眼科医の言葉を思い出す。

 

「そういうお年頃、ということです」

 

そんなの、言われなくてもわかってるってば!(笑)

 

最近は、同年代の仲の良い友人たちとLineで、エイジングネタの愚痴混じりの冗談で笑い合っている。もちろん、励まし合ってもいる。みんな、明るい。

 

私たちの出会いは30年以上も前になる。彼女たちは若い頃も素敵だったけれど、今の方がもっともっと魅力的だと私は思う。

 

「年は取りたくないよねー」なんて、あちこち経年劣化を嘆きながらも、ちっとも「老いた」印象はない。なんというか、キラキラしているのだ。決して無理して「若作り」しているわけではなく。

 

普段は「スタンプを押し間違えたー」とか「講習会に行ったらオジサンだらけだったよ」とか他愛ないが、ひとたび悩みをつぶやくや、総力をあげて相談に乗ってくる。

 

それぞれの仕事の専門分野からのアドバイスもあるし、苦労人ばかりだから、人生経験の多様さ、深さで、話す内容に説得力がある。なにより、もともとの性格の良さに年月が磨きをかけたようで、共感力、包容力、そして人間力があり、温かいのだ。

 

彼女たちを見ていると、年を取るのも悪くないね、楽しくもあるね、と思えてくる。

 

年を重ねるって何だろう。私も「つきかなさん、若く見えますねー。とても50代には見えません」と言われれば、素直に嬉しいけれど、一方で「喜んでいていいのか?」という思いも湧いてくる。

 

若く見られなくてもいい、楽しそうに見られたらいいな、なんて、最近は思ったりもする。

 


We're aging like fine wine.
(いいワインのように年を重ねてきたね)

 

私の好きな言葉のひとつ。

年齢を重ねることを肯定する考え方は、とても素敵だ。

 

8月半ばの新聞で、米国の女性誌「Allure(アルーア)」が「アンチエイジングという言葉を使うのを止める」と宣言したという記事を読んだ。


 若い=美しい
 加齢=下り坂


という、年齢を重ねることを否定的に捉えるトレンドに、終止符を打つためだそうだ。

 

去年も小泉今日子さんが、女性誌での上野千鶴子さんとの対談で、「アンチエイジングって言葉が大嫌い」と発言し、ちょっと話題になっていた。ここ数年続く「美魔女ブーム」への反旗だったようだ。

 

若さって素晴らしい。それは本当にそうだろう。でも年齢を重ねていくことも、もちろん素晴らしいのである。そんな当然のことも、ちょっと前なら負け惜しみと思われただろう。でも、変わってきているんだね。

 

加齢による容姿の変化。これを劣化と捉えず、年相応の当たり前の変化と受け止める風潮が、もっと広がっていけばいいな、と思う。また、経験を重ねることによる人間的魅力にこそ、より多くのスポットが当たるようになってほしい。

 

そして、年を取ることを誰もが怖がらず、楽しみに思える世の中になっていくことを、心から願っている。一番辛いのは、希望がなくなることだから。

 

私も老眼なんかでしょぼくれるのは止めよう!(笑)

 

心に流れる挽歌と共に―「生きる」と「アラバマ物語」

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モノクロの映画を2本、観た。
黒澤明監督の「生きる」(1952年公開)と、ロバート・マリガン監督の「アラバマ物語」(1963年公開)だ。

 

「生きる」を観たのは、先日取材したドクターのお話にこの映画が出てきて、興味を覚えたからだった。志村喬演じる主人公が、「死」を前にして初めて「生きる」ことについて真剣に考え行動するというお話で、すごくスケール感があるというわけではないのだが、私はこの映画を観て自分の死生観が大きく動かされた、と感じた。

 

古い日本映画は実は苦手で、画面の暗さやセリフの不自然さに馴染めず、なんとなく避けてきたのだが、この作品は惹き込まれるように見入ってしまった。

 

光の使い方が上手なのだろう、モノクロだけど暗さはさほど気にならず。むしろ、モノクロだからこその陰影が、大切なシーンを印象深いものにしていて美しかった。

 

セリフは「やっぱり自然な感じではないかも。この時代を体験していないからね」と思いながら聞いていたが、そのうちに自然に聞こえてきたから面白いものだ。ナレーションも軽妙で、突き放した言い方がなかなか洒落ていた。

 

命のリミットを知ったとき、死ぬまでをどう生きるか。

 

重いテーマではあるが、登場人物の可笑しみのあるキャラクターと構成の妙が奏功し、単なる悲劇になっていない。でも、後からジンジン効いてくる感じで、「命」について考えずにはいられなくなる。

 

私はまだ生きていて、何かにまだ間に合う。

 

そう感じることができたから、考えずにはいられなくなるのだと思う。そんな優しさもこの映画は届けてくれていた。

 

これまでの私の死生観はどこかシニカルで、ちょっと投げやりで荒っぽかった気がする。どんな風に生きたって、人はいつか死ぬのだと。大したことじゃないよ、くらいに思おうとしていたような。

 

それは、実は大切な人を失うことへの恐怖の裏返しだったのかもしれない。自分にもいつか訪れる死。意識すれば急ぎ足でやってきてしまうような気味の悪さも、なんとはなしに感じていた。

 

考えたくないために、単純化し矮小化しようとしていなかったか。今、例えばあと3ヶ月の命、とわかったら、自分だったらどうする?

 

そんなことを考え始め、思索の世界を彷徨いだした頃、義父が他界した。

 

・・・あれから2週間以上が過ぎたけれど、心にまだ挽歌が流れ、「生きるとは、死ぬとは」との問いかけ、思いは複雑になる一方だ。

 

部屋中を南国のフルーツのような香りが満たした約十日間は、ずっと酔っているようだった。葬儀の折の供花を帰りにたくさんいただき、4つくらいの花瓶に活けて、我が家は俄かに花園のようになったのだが、その中で大輪の百合の花が、特に強く香っていたのだった。(この季節にすごく長持ちしてくれた)

 

そんな百合の香りの中で、「アラバマ物語」を観た。こちらは30年代の米国南部の小さな町でのある事件を描いた物語で、人種的偏見の根強さに対峙する、グレゴリー・ペック演じる弁護士の正義感と勇気と父性が光る名作。

 

人種問題を取り上げたモノクロ映画、ということで、こちらも暗く重くなりそうなものを、いやな重苦しさを全く感じさせないドラマになっていた。弁護士アティカスの素敵な人間性や、子供たちの好奇心と純真さがあまりにもキラキラしていたからだろう。

 

この映画、6歳の少女スカウトと、その兄ジェムの成長物語でもあり、闇夜の冒険や大人たちへの可愛い反抗など、微笑まずに観ろというのは無理な話なのだ。見てはいけないと言われれば見たくなるし、行ってはいけないと言われれば行きたくなるよね!それが子供というものだ。

 

生命力に溢れたような彼らの存在は、しかし、心無い大人がその気になれば簡単に摘み取ることが可能なはかない存在でもある。あわや、のシーンには戦慄した。

 

子供たち。

 

そうなんだ。子供たちを見れば、命がどんなに尊いものかということが、ストンと納得できるのだ。

 

あの日、義父の訃報を聞き、遠方から長女夫婦がお別れに駆け付けてくれた。生後4か月の孫娘を伴って。

 

不幸な出来事ではあったが、図らずも彼らと数日を過ごすという幸せを味わうこともできた。

 

生まれたばかりで頼りなく、抱っこするのも怖いくらいだったあの赤ちゃんが、もう寝がえりを打てるようになっていた。目が合うとニッと笑ってくれる。純真無垢な笑顔。長いまつげの下のキラキラした瞳。ほっぺたのてっぺんに宿る光。

 

やっぱり、生命ってすごい。生きてるって不思議。命って美しい!

 

この世に生まれてきたことに、理由があるのかはわからない。何のために生きているのか、なんて、おいそれと答えられるわけがない。しかし、死を軽んじてはいけないと思う。また、恐れ過ぎるのも違うと思う。

 

死は、生の先に必ずあるもの。誰にも等しく訪れるもの。

 

謙虚に受け止めて、今をただ、一生懸命生きよう。今生きていることに感謝しよう。

 

そんな当たり前のことを、義父の亡くなった後、噛みしめるようにつぶやいている。ちゃんとできていなかったから。

 

私はまだ生きていて、何かにまだ間に合う。・・・さあ、これからどうしよう?

 

思索の旅は続く。