今年になってから、炊飯器が壊れ、洗濯機が壊れた。どちらも十数年働いてくれたのだから、寿命だろう。感謝してお別れし、買い替えた。
先日、羽毛布団も二十数年ぶりに新調。側生地がもう限界だった。長い年月を、よく頑張ってくれたと思う。それにしても、出費は痛かった。
身の回りのモノたちが、あれもこれも古くなっていく。経年劣化を実感する機会が増え、ため息をつき、ふとわが身を振り返ってみる。
ああ。
残念なことに、自分自身の経年劣化も否めない。こちらは買い替えがきかない。
そういえば、リーディンググラスも先日、買い替えた。フレームの傷みもあるが、老眼が進んだのだ。
目が悪くなってからずいぶん経つが、年々「勘で生きている」感覚が強くなってきたように思う。気配とか、匂いとか音とかで、視力を補っているようだ。
若い人にそう言ったら笑われたが、「君たちもいずれそうなるんだよ」と、心の中で意地悪な言葉をつぶやく。ふふふ。
肌や体力の衰えとか、白髪とか、体形の崩れとか、年齢を重ねることによるさまざまな変化のうちでも、視力の衰えが私には一番こたえている気がする。
子供の頃からずっと目が良かったので、よく見えないということの不自由さを余計に強く感じてしまうのかな。
遠くも近くも見えなくなってきて、メガネをつけたり外したり。忙しいときに焦ってしまい、仕事にも差し障ることが何度かあった。
「仕方ないよね」と言いながらも、ちょっと悲しくなる。自信をなくす。初めて老眼鏡を作ることにしたときの、眼科医の言葉を思い出す。
「そういうお年頃、ということです」
そんなの、言われなくてもわかってるってば!(笑)
最近は、同年代の仲の良い友人たちとLineで、エイジングネタの愚痴混じりの冗談で笑い合っている。もちろん、励まし合ってもいる。みんな、明るい。
私たちの出会いは30年以上も前になる。彼女たちは若い頃も素敵だったけれど、今の方がもっともっと魅力的だと私は思う。
「年は取りたくないよねー」なんて、あちこち経年劣化を嘆きながらも、ちっとも「老いた」印象はない。なんというか、キラキラしているのだ。決して無理して「若作り」しているわけではなく。
普段は「スタンプを押し間違えたー」とか「講習会に行ったらオジサンだらけだったよ」とか他愛ないが、ひとたび悩みをつぶやくや、総力をあげて相談に乗ってくる。
それぞれの仕事の専門分野からのアドバイスもあるし、苦労人ばかりだから、人生経験の多様さ、深さで、話す内容に説得力がある。なにより、もともとの性格の良さに年月が磨きをかけたようで、共感力、包容力、そして人間力があり、温かいのだ。
彼女たちを見ていると、年を取るのも悪くないね、楽しくもあるね、と思えてくる。
年を重ねるって何だろう。私も「つきかなさん、若く見えますねー。とても50代には見えません」と言われれば、素直に嬉しいけれど、一方で「喜んでいていいのか?」という思いも湧いてくる。
若く見られなくてもいい、楽しそうに見られたらいいな、なんて、最近は思ったりもする。
We're aging like fine wine.
(いいワインのように年を重ねてきたね)
私の好きな言葉のひとつ。
年齢を重ねることを肯定する考え方は、とても素敵だ。
8月半ばの新聞で、米国の女性誌「Allure(アルーア)」が「アンチエイジングという言葉を使うのを止める」と宣言したという記事を読んだ。
若い=美しい
加齢=下り坂
という、年齢を重ねることを否定的に捉えるトレンドに、終止符を打つためだそうだ。
去年も小泉今日子さんが、女性誌での上野千鶴子さんとの対談で、「アンチエイジングって言葉が大嫌い」と発言し、ちょっと話題になっていた。ここ数年続く「美魔女ブーム」への反旗だったようだ。
若さって素晴らしい。それは本当にそうだろう。でも年齢を重ねていくことも、もちろん素晴らしいのである。そんな当然のことも、ちょっと前なら負け惜しみと思われただろう。でも、変わってきているんだね。
加齢による容姿の変化。これを劣化と捉えず、年相応の当たり前の変化と受け止める風潮が、もっと広がっていけばいいな、と思う。また、経験を重ねることによる人間的魅力にこそ、より多くのスポットが当たるようになってほしい。
そして、年を取ることを誰もが怖がらず、楽しみに思える世の中になっていくことを、心から願っている。一番辛いのは、希望がなくなることだから。
私も老眼なんかでしょぼくれるのは止めよう!(笑)