一筋の光、降り注ぐ光。

人生はなかなかに試練が多くて。7回転んでも8回起き上がるために、私に力をくれたモノたちを記録します。

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潔く、やり直す!刺しゅうが思い出させてくれた“母の教え”

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自分の図案で刺しゅうができるようになりたい。

そう思い始めたのはいつ頃だろう。

 

家族のためにマスクを作ったとき、小さな刺しゅうをアクセントに施してみたりとか、その程度はしたけれど。ある程度の大きさのものを自分でデザインするって、私にはなかなかのハードルの高さで、ずっとトライできずにいた。

 

大好きな刺しゅう作家さんの図案に憧れて、本を買って、お手本を見ながら指定のステッチでチクチク・・・そんな刺しゅう体験も素晴らしく幸せなのだけど。そしてこれからももちろん、そういう刺しゅうもしていきたいのだけど。

 

自分の心の景色を絵にして、刺しゅうで表現してみたいという気持ちが芽生え、その芽も大事に育ててみようと思ったのだった。

 


今年は3月からずっと、母のことで不安かつ慌ただしい日々が続き、時間的にも精神的にも、じっくりと自分の好きなことに向き合う余裕などなかった。新型コロナの影響でステイホームが叫ばれ、ある意味「手芸日和」が用意されていたとも言えるのに。

 

頻繁に清水の実家に行っていたし、自分の家にいても、いつも電話にビクビクしていた。病院からか、父からか、弟からか。母の急変を知らされるのが怖くて、着信音にドキッとする胃の痛む毎日だった。

 

今はそれもなくなった。
母はもう急変しない。もうこの世にはいないのだから・・・
着信音に怯えた日々すら、懐かしく思える。
母に会いたい。声が聞きたい・・・

 


今日は、刺しゅうに取り掛かろう。ある朝、そう決めた。久しぶりに糸を選び、針を持ち、布に触りたかった。悲しみを紛らわせるためというよりも、母への恋しさについて、自分とゆっくり対話できるんじゃないかな、と思って。

 

スケッチ用のノートを開き、かつて描いた中からひとつの絵を選び、図案をおこしてみた。カッコいいデザインにしようとか、あまり考えなくていいや、とにかくやってみよう、と。

 

シチリアの水色のドアのリストランテは、SNSで見つけた画像。目にした瞬間、行ったことがないのに何故か懐かしいようなあたたかな気分になり、ざっくりと描きとめておいたものだ。

 

ラフなスケッチの味わいで、軽いタッチにしたい。どこまで抽象化して線にするか、色数をどう抑えるか、ステッチはどれを選ぶか。楽しくも悩ましい時間を経て、拙くはあるが、自分の図案ができた。

 

緑のアーチを抜けると、そこに可愛らしいお店がある。魚介料理が得意なリストランテだ。テーブルについたら、どんな時間が、どんな感動が待っているのだろうか・・・
そんな空想をしながら、糸を刺していった。

 


刺しゅうはいろいろなことを教えてくれる。楽しさも厳しさも。

 

集中し、丁寧な作業を心掛ければ、生き生きとした表情を見せてくれるし、失敗をごまかせばたちまち、くすんでしまう。

 

売り物じゃないし、仕事じゃないし。なーんて気持ちで仕上げると、もうその作品への愛情が見事に薄れてしまうのだから、ある意味、怖い。もったいないもの。

 

私は器用なほうではないので、手は遅いし、よく失敗する。糸が絡み、撚れて輪や玉ができてしまったり、後で糸始末しようと残しておいた刺し始めの糸を、ステッチで刺しとめてしまったりと、トラブルだらけだ。こうして書いていて情けなくなる。

 

大失敗なら潔く諦めて、糸を抜き、最初から始めるのだけど。問題は、小さな失敗だ。

 

「ごまかせる。これ、誰も裏を見る訳じゃないし、ちょっと汚いけど、表に響かなければそんなに気にならないんじゃない?」

 

そんな自分の中の声に、つい乗っかろうとする。やり直すのは・・・勇気がいる。大袈裟だけど、本当に。

 

そして、こういう状況になる度に、母との思い出がよみがえるのだった。中・高生の頃、家庭科の課題で、家でミシンをかけていた時のことだ。

 

母は洋裁学校を出ているので、お裁縫では頼りになる家庭教師だったが、指導は厳しい。私がようやくミシンをかけ終えた部分を見て、縫い目がきれいでないと、かけ直しを命じる。

 

「次の工程に進んだら、余計にやり直すのが嫌になるから、今のうちに全部ほどいた方がましだよ。今度はきちんと躾け(躾け糸で縫うこと)をして、慎重にやりなさい」

 

私が面倒がると、冷めた目をしてこう言う。

 

「ま、あなたがいいならいいけどね。私なら気持ち悪いからやり直すわ」

 

早く片付けて遊びたい私は、しぶしぶ従ったり、無視したり。そして、毎度、母が正しかったと認めるしかなかった。ごまかして先に進むと、結局どこかで上手くいかなくなり、そこからやり直して余計に時間がかかるのだ。

 

でも、手が遅いことは責められたことはなかった。時間がかかってもきれいに仕上げると、必ず目を細めて褒めてくれる母だった。そして、上手にできなくても丁寧な作業がわかれば「良し!」としてくれた。

 

今回の作業中にも、あの頃の母を何度も思い出した。母は手芸はしなかったけれど、ごまかそうとかズルをしようとか思ったなら、きっと私に、あの頃と同じことを言うだろう。

 

「ま、あなたがいいならいいけどね。私なら気持ち悪いからやり直すわ」

 


今はもう跡形もない、あの町のあの公務員宿舎。3階のあの部屋で、母の足踏みミシンを前に、二人で交わした何気ない会話の数々。遠いあの頃を今、愛おしく思い出す。

 

なんだか、大事なことを他にもいろいろ教わったような気がする。これから折に触れ、思い出していくのだろうか。

 


完成した刺しゅうは、時間もかかったし、やっぱり拙いけれども、ごまかしはしなかったよ。お母さん、見たら褒めてくれるかな。

 

「あら、いいじゃないの。ところでここは、どこ?」

 

という声が聞こえた気がした。

 

シチリアのリストランテ「Il Consiglio di Sicilia」さん。刺しゅうで向き合っていたら、すっかり親愛の情が湧いてしまった。いつか本当に行ってみたいなあ。

 

海外はおろか、近所のレストランへ行くのもためらわれる日々。平穏な日常が一日も早く訪れますようにと、天を仰ぐ。秋の雲が光っていた。

 

 

人生は短いから不幸でいる暇なんてない ―「ターシャ・テューダー 静かな水の物語」から

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 忙しすぎて心が迷子になっていない?

 

そんな風に聞かれたら、どれだけの人がドキッとするだろう。私の場合は忙しすぎではないと思うが、心は迷子になりがちだ。

 

何をしていても「今って、こんなことをやってていいんだっけ?」「私はどこへ行くのだったかしら」と心細くなり、目的地や道しるべを探したくなる。また、「気持ちが散漫だな」と思い、「軌道修正をしなきゃ」と焦ることが多い。

 

冒頭のことばは、「ターシャ・テューダー 静かな水の物語」という映画の予告編字幕で見て、心の端に刺さっていた。

 

公式サイト

tasha-movie.jp


ターシャ・テューダー(Tasha Tudor)さん。1915年8月28日に生まれ、2008年6月18日に92歳で永眠。その絵本のタッチに懐かしさを覚えるのは、私も幼い頃、彼女の本に触れたことがあったからかな。あるいは誰かからのクリスマスカードだったかも。

 

この映画を観てみたいと思っていたことを、ふと思い出して、Amazonプライム・ビデオ(Amazonが展開するサブスクリプション・サービス)で検索してみた。その中の「シネマコレクション by KADOKAWA」というチャンネルで観ることができるらしい。月額388円(税込)だけど、14日間の無料お試し期間がある。良かった!

※無料お試しを希望の場合、14日たって自動解約とはならないので、期間終了に注意して解約手続きを。

 


本当は大きなスクリーンで観たかった。2017年4月に公開されたが、結構、遠方まで出向かなければならなかったため、残念だけど諦めたのだった。

 

でも、自宅でリモコン操作をしながら観るのも別の良さがある。素敵なことばが出てきたら、一時停止して書き留めたり、スマホで撮ったりできるから。私は自分に「素敵なことば収集家」という肩書も勝手に付けたりしているので。笑

 

tsukikana.hatenablog.com


というわけで、たくさんの“心に響くことばたち”を収集できた。


 人間はとかく悲劇を好むけど
 それは間違いよ
 この美しい世界を謳歌しないなんて
 馬鹿げているわ


 私はいつも自分が欲しいものを手に入れてきた
 それは忍耐強かったからよ
 決して諦めないことが大切なの
 私の人生は忍耐の連続だった
 でも忍耐のあとに得るものは
 絶対にその価値があるのよ


 私は静かな水のようにありたいと
 「スティルウォーター教」を発明したの
 それは私が惹かれる
 小さな動物たちの生き方にも通じるもの
 彼らは必要なすべてが身の回りにあると知っているから
 満ち足りている
 かたや人間はないものねだりばかり
 欲望で不満を膨らませているの
 まずは静かな水のように世界を受け止め
 感謝することから始めたいわ


 忙しすぎて心が迷子になっていない?
 豊かな人生を送りたいと思ったら
 心が求めるものを心に聞くしかないわ
 私は時々腰をおろして ゆっくり味わうの
 花や夕焼けや雲 自然のアリアを
 人生は短いのよ 楽しまなくちゃ


などなど、ここには書ききれないほどの、とてもたくさんの「生き方のヒント」「考え方のヒント」をいただくことができた。

 

面白かったのは、ターシャさんもご自分の座右の銘を「喜びの泉」と呼び、一冊の本にまとめているということだ。

 

 私たちは夢と同じものでできている
  ――シェイクスピア

 

 この世でもっとも素晴らしいのは
 自分は自分のものと
 知ることである
  ――モンタギュー

 

私はこんな格式高い凄い人たちの言葉は集められていないけれどね。本にもまとめていないし、同列で述べるなんて不遜でした、スミマセン!

 



喜びの泉ターシャ・テューダーと言葉の花束

 


全米で最も愛される絵本作家と言われ、ガーデナーとしても世界中から絶賛されるターシャさん。決して平坦ではなかったその人生を辿りながら、自然に寄り添った生活スタイルと、圧倒されるほど美しい庭を、映像でたっぷり堪能できるドキュメンタリー映画だった。

 

「忙しすぎて心が迷子になっていない?」
と言うけれど、そんなターシャさんの毎日は、凡人ではとても真似できない忙しさだったと思うのだ。

 

「4人の子供の他にペットや家畜。牛や鶏などたくさんの世話をしながら、料理に洗濯や裁縫をこなし、読書や庭仕事を楽しみ、同時に絵も描いていたのです。母が愛する手仕事は手間ひまのかかるものですから、朝から晩まで、子供たちが寝た後も、いつも手を動かしていたんです」

 

映画の中で、長男のセスさんもそう話している。

 

そもそも、ターシャさんはボストンの典型的な文化人の家庭に生まれた人。9歳のとき、両親が離婚。母親は画業の成功を求めてニューヨークへ。でも幼いターシャさんはニューヨークでもボストンでもなく、農村の暮らしがしたくて、コネチカット州の母の親友の家に預けられたという。

 

自分の手でものづくりをすることへの憧れだったのか。幼い頃から意思が強かったんだろうな。もちろん、簡単なことではなかったはずだけど。

 

そして、画家だった母親のそばで幼少時から描いていた絵。描くことは、息をするように自然なことだったのかもしれない。その後の農家暮らしでの経験、人形遊びや読書で育てた想像力。22歳での結婚後、絵本作家を目指すことも自然な流れか。

 

ただ、出版社に持ち込むも、なかなか相手にされなかったそうだ。でも、諦めなかった。そんなこともあって、彼女はヘンリー・D・ソローのことば、

 

 夢に向かって自信を持って進み
 思い描いた人生を生きようと
 努力するなら
 思わぬ成功を手にするだろう

 

が、人生の指針だと言うのかもしれない。

 

ターシャさんは離婚後ひとりで4人の子を育て、57歳のとき、バーモント州の山中に、理想とする家と庭を造る。19世紀頃の開拓時代スタイルなのだとか。18世紀の工法を研究し、お母さんが希望する古びた家をひとりで建てたという、家具職人のセスさんもすごい!

 

目指したスタイルは、ターシャさんの生きた時代から1世紀前のものだったのかと、私はこの映画を観るまでうかつにも気付かなかった。彼女は都会的なものに背を向けただけでなく、(当時の)現代的なものをも遠ざけた。

 

そうだよね。あのおうちは、おとぎ話の絵本に出てくるような可愛らしさでとっても素敵だけど、いくらなんでも古すぎる。ターシャさんは20世紀の人なのだから。

 

「低い天井、切り立った屋根、格子窓。古い農家ならではの雰囲気。昔の人間の生まれかわりだからだと言っていました。『アメリカが最も輝いていたのは1830年代』というのが持論で、当時のように暮らし、描いたのです」

 

と、セスさん。なるほど。

 

例えば、私が大好きなモンゴメリの『赤毛のアン』の時代は、(カナダではあるけれども)1880~1890年代あたりに設定されているというから、彼女はそれよりもさらに半世紀前の暮らしを求めていたことになる。

 

「憧れのスローライフ」とざっくり言ってしまうには、筋金入り過ぎて怖いくらいだ。

 

映画の中で、ターシャさんは「楽しい」「幸せ」ということばを何度も繰り返す。愛情を込めて種から育てられた花々は、輝くばかりの美しさで見る者の心を豊かにする。

 


 ガーデニングは喜び
 人生は短いから好きなことをする
 私の場合それがガーデニングなの


 人生は短いから不幸でいる暇なんてない
 気づいていない人が多いけど

 


ターシャさんのように生きるのは難しいだろう。でも、その生き方を表すことばの中から、エッセンスをいただいて、今この場所で生きている自分に、自分の手で、必要としている光と水を注ぐことはできるような気がする。

 

以前に観た「人生フルーツ」のときにも、感じたことだ。どちらの映画にも人生の示唆があちこちに散りばめられていて、ずっとキラキラ輝いている。

 

tsukikana.hatenablog.com

 


ターシャ・テューダー 静かな水の物語 [Blu-ray]

 

 

すごーく久しぶりに映画のことを書いたけれど、私、ちょくちょく映画は観ております(この頃では専ら自宅でだけど)。ただ、これは感想を書いておきたい!と思えるものは、まだそうなくて。でも、映画の話って楽しいですね。また書きたいと思います。

写真は、花フェスタ記念公園にある「ターシャの庭」(現在は休業中)で、昨年5月に撮影したものです。

 

 

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ストレッチ&スロトレで、からだと心を整えたい

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力が入らない。食欲もないし。

 

夏バテ気味なのかもしれない。それでも、毎日ヨガマットを広げては、ストレッチや緩い筋トレを続けている。そうすると、少しだけ元気が出てくるから不思議だ。

 

からだの声を聴き、声を掛けてあげる。どこが調子悪いのか、どこを伸ばしてほしいのか。一日のうちの、ほんの30分ほどだけど、面倒がらずにちゃんとからだと向き合うことを大切にしている。

 

あれ。同じようなことを以前も書いていたなあと思ったら、2年前のことだった。

 

tsukikana.hatenablog.com

 

このときは冒頭で、15分座ったら膝が固まって動けない、なんて言ってる。
そうだったんだね。

 

でも何故だろう。2年後の今は、それくらい正座したって膝は固まらない。そういえば、腰痛にも悩まされることがなくなっている。加齢による不調は不可逆的なものと思っていたけれど、そうではないの?それとも毎日のストレッチが功を奏しているのかな。

 

今年の春、母のことで清水によく行くようになって、自分も少し体調を崩した。軽めのぎっくり腰もやってしまい、友人が「腰痛に良いよ」と教えてくれたのが、YouTubeのある動画だった。

それが、こちら。↓

www.youtube.com


B-lifeのMariko先生は元バレリーナだそうで。ひとつひとつの動きがとても優雅で美しい。真似して動いても全然サマにならないのだけど、気分だけは優雅になる。笑

 

そして、私が今までやってきたストレッチは何だったの?というくらい、ひとつのポーズが長い。ゆっくりじっくり時間をかけて、ハムストリングスや中臀筋などを伸ばしていく。寝ている姿勢なので、からだも心もすごくリラックスできる。とにかく気持ちいいのだ。

 

ヨガとかストレッチ、筋トレの動画は世の中に溢れかえるほどあり、視聴して比べるということもなかなかできずにいたから、信頼する友が「コレ」と言って教えてくれたのは、本当にありがたかった。

 

母が他界し、それどころではない時期がしばらく続いたけれど・・・最近また毎日続けられるようになってきて。

 

15分程度という長さも良いし、難しい動きもないから、すぐに動画なしでもできるようになり、気楽で助かる。

 

「吸ってーー」
「吐いてーー」
Mariko先生の落ち着いた声にも癒される。深い呼吸、大事だね。

 


ところで。
本当に毎日暑い。ストレッチは気持ちいいけど、なかなか爽やかな状態が続かない。

 

連日の猛暑と、コロナ対策とで、外出は極端に減ったという人が多いことと思う。夏が大の苦手で元々引きこもりがちな私ではあるが、この夏は輪をかけておこもり傾向。家にいることが好きでも、こう毎日暑くて、暗いニュースばかり入ってくると、気分は沈みがちになる。

 

こんなに長きにわたって新型コロナに行動を制限されるとは、当初は思っていなかった。他県に暮らす長女一家とは、昨年11月以来、もう9か月も会えていない。

 

去年の今頃は、我が家に2歳児がいて、9月に双子が生まれて・・・そんなことを思い出しては切なくなる。大変だったけど、幸せな夏だった。

 

tsukikana.hatenablog.com


長女が写真や動画を送ってくれるので、孫娘たちの成長を感じさせてもらっているけど、早くホンモノに会いたいな。抱き上げて、ふざけて、笑わせたい。

 

そして、3人の幼子を日中ひとりで育てている我が娘を、ぎゅっと抱きしめて労ってあげたい。私が清水の母のことでてんやわんやだったから、どんなに子育てが大変でも泣き言ひとつ言ってこなかった(言えなかった)娘がいじらしく、愛おしい。

 

そんな娘は私のブログを読み、なんと自分が“母親”の立場で、私(つきかな)をひとりの娘として見ていることに気づいた、と言う。

 

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母親モードの娘は「自分のときも、最期は娘たちにこんなふうにしてもらえたら嬉しいな」「おばあちゃまはお母さんのような娘がいて幸せだったよね」と。そして「お母さんはすっかり娘モードだったのでは?」とも。

 

確かに。私はあの頃、娘モード全開だった。そして今は、母親モードを取り戻しつつある、という感じ。娘は子育て真っ最中だから、母としての立場から見がちなのかな。

 

なんだかややこしいけど、ちょっと面白い。そして、母親モードで娘モードの私を見守っていてくれた長女が、頼もしいとも思った。

 


頼もしいといえば。
長女は忙しい毎日なのに、時間を作って筋トレに励んでいるらしい。プロテインとかも飲んじゃったりして、なにやら本格的。そして、すっごーーーく、痩せた。引き締まってほっそりしていた。写真を見てビックリ。

 

長女と次女はすこぶる仲が良く、いろいろな情報を共有している。次女は私たち夫婦と同じ県内で暮らしているので、自粛要請解除後は、時々、泊まりにきている。そんな彼女から、長女のトレーニングの様子を聞いて、本当に頑張っているなあと感心しきりだ。

 

次女も長女ほどではないにしろ、筋トレを続けていて、やはり引き締まってきている。私、刺激を受けてしまった。笑

 

彼女たちのようなハードなものは無理だけど、私にも何かできそうなトレーニングはあるかしら。先週、そう相談したら、次女が勧めてくれたのが「ひなちゃんねる」のひとつであるこちら。 

www.youtube.com


わ、若い!笑
でもこれ、良さそう。ゆっくりペースで10分ほどだし、じんわり効きそうな予感。自分でカウントしなくても画面に回数が出てくるのと、ひなちゃんが励ましてくれるのも気に入った。

 

というわけで、スロートレーニングも始めた私。まだ6日だけど、これなら続けられそうだと思っている。ひなちゃん可愛いくて好感持てるし。Mariko先生のヨガストレッチと合わせても30分でおさまる。

 

今の体力や年齢に見合った鍛え方をしたなら、からだは喜んでくれると思う。心の不調も、ある程度、緩和される気がする。心配事は消えなくても、ダメージを抑えることはできるんじゃないかな。

 

私は、アンチエイジングの対極であるプロエイジング(pro-aging)の考え方に賛成で、加齢に抗わないと自分で決めている。年を重ねることを肯定し、嘆くことはしたくない。

 

加齢を面白がって、あわよくば楽しもうとさえしている。抗わないことと、屈することは違うのだ。

 

「若いっていいな!」と思うことはあるけど、いろいろな経験を重ねてきた今の自分も尊い、と感じる。

 

娘たちの年頃から私は「素敵に年を重ねていきたい」と言っていた。その言葉がむなしくならないよう、今からでも、いつからでも、背筋を伸ばして微笑もうと思う。

 

そのスイッチが、今の私には、1枚のヨガマットなのかもしれない。モノは増やしたくなかったけど、これは買って正解だった!

 

朝だったり、午後だったり。都合の良い時間にマットを広げ、手足を伸ばす。最初のうちは脇腹つったりして、よく悲鳴を上げてたのだけど、もう大丈夫。

 

ちょっとずつしなやかになっていくからだを、自分で「可愛いな」と思う。内面までちょっとずつ、しなやかになっていく気がして嬉しい。そして、お水の美味しいこと!

 


先が見えない世の中で、暗く沈みがちな心。でも、これまでの人生で、不安、不遇、不運を、私は何度でも克服してきたではないか。そう考えてみる。たくさん傷は負ったけど、乗り越えた。乗り越えずにスルーしただけなこともあるけれど、それもまた良し!

 

まだ口角は上げられるし、これからもっと笑うつもりだよ。

 

娘たちが私を見て、「年を重ねていくことも悪くないな」「面白そうだな」と思ってくれたら幸せだ。これ以上、私の“生”を肯定するものはないだろう。

 

まあでも、力を抜いて。
あんまり気負うと疲れちゃうからね。今日はダメだなあと思ったら、明日の自分に期待しよう。意外と頑張ってくれるものだと、経験から知っている。

 

自分を大切にして。みんな、幸せになろうね。

 


※ご参考までに、私が買ったヨガマットはこちらです。大きめで使いやすく、夫も愛用中。


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睡眠。私の場合は・・・

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 昼寝をすれば夜中に眠れないのはどういう訳だ

 

そんな風に始まる井上陽水さんの『東へ西へ』を聴いたのは、いくつの頃だっただろう。中学生くらい?

 

すごく共感した覚えがある。学校から帰ってきて一度寝てしまうと、夜、なかなか寝付けない。それでラジオの深夜放送を聴く。睡眠時間が少なくなる。だから授業中にウツラウツラしてしまったり、家に帰ってまたちょっと寝てしまったり。

 

・・・悪循環。
早寝早起きの規則正しい生活をしろと言われるけど、
「難しいよ!」
そう感じてた思春期の私。

 


とにかく若い頃って眠いのだ。20代になっても、私は基本、いつでも眠かった。寝てるの大好き。ベッドの一部でいたい。仕事に行かなくて良いならば、お昼までだって寝ていられる自信があった。疲れて帰って、バタンキューで眠りに落ちていた日々。

 

30代。子育てが生活の中心だった頃は、寝られるときに寝る、という技術が身についてきて、分散した睡眠でもわりと元気に生きていられた。子どもを病院に連れて行くことは多かったけれど、自分のために病院に行くことって、なかったんじゃないかな。

 

40代。再び通勤が始まるが、20代の頃よりも人生が複雑になっていて、考えなくてはならないこと、やらなくてはならないことが増えている。睡眠に時間を取られるのが惜しくなっていた。そして確実に体力は落ちていった。

 

50代。・・・Oh!No!
いろんなことがあり過ぎて、病気や怪我もたくさん経験して、どんな睡眠をとっていたかなど、ひとことでは言い表せない。というか、そもそも思い出せない。思い出したくないのかもしれない。

 

でもこの年代になってようやく、自分をケアすることの大切さに気付けたのだ。そこは良かった。友人のおかげ。

 

そして目の前にロクジュウダイが迫って来る。あらあら、という感じです。笑

 


「夏の夜=寝苦しい」という図式なのか、毎年、この時期は睡眠関連の話題をよく見聞きする。今年は新型コロナウイルスの影響で、生活スタイルの変化や不安があってよく眠れないという人も多そうだ。眠らなきゃ、という焦燥感が眠れなくさせているケースもあるようで。

 

厚生労働省のサイトにあったページ。ご参考までに・・・

「眠れない症状」になるのはどうしてですか

 


私の周りにも、眠れないことで苦しんでいる人が数名いる。背景因子は人によって違うし、特に心理的な問題が原因である場合はとてもデリケートなので、彼ら彼女らの話を聞けば、悩みの解決は簡単ではないと実感している。

 

まず、私の父の場合。5月に母が亡くなったばかり。伴侶を失ったショックと悲しみが大きいこと、ふいに襲う喪失感、そして、今後どう暮らしていくかという悩みの深さがある。

 

精神的な因子以外でも、昼間の活動量が不足しがちなこと(猛暑とコロナ対策で)、お茶を頻繁に飲むからカフェインの摂取が多いこと、夜眠れないため日中テレビを見ながらウトウトしてしまうこと、そもそも80代という高齢なのでそんなに眠る力はない、などが考えられる。

 

先日、NHKの『あしたも晴れ!人生レシピ』という番組で、
「夜ぐっすり朝すっきり 中高年の快眠ライフ」というテーマの放送があったので、父に紹介。番組を見た父は「思い当たる節があった。録画したのでまたゆっくり見てみる」と言っていた。少しでも改善につながるといいのだけど。うーん、どうかな。


次に、私と同世代の友人たちの場合は、自身の体調不良を抱えながらの親の介護、過酷な仕事、などの因子が大きいのだと思う。

 

セルフケアには十分に積極的な彼女たちでさえ、睡眠障害をどうにもできずに辛い不調に悩まされている。医師に処方された睡眠導入剤を服用しながら、なおも頑張り続けている彼女たちに、「頑張り過ぎないで」とか「自愛してね」とか、そんな言葉しか投げかけられない自分が不甲斐ない。

 

 自然な睡眠リズムを作るために、朝、日光を浴びて体内時計を調整するといいよ、とか。
 ブルーライトは覚醒作用があるから、寝る前にPCやスマホを見ないでね、とか。
 自律神経を整えるマッサージやストレッチをしてね、とか。

 

そんなこと、彼女たちはとっくに知ってるしやってるし。

 

ストレスを上手に解消しよう、と思っても、このご時世だ。気晴らしできる場所は減り、遊べたとしても不安がつきまとい、ストレスは増すばかり。

 

そして、介護や仕事といった避けられない日常は続く。ハードな日常だ。持病もあるのに。心配でホント、泣けてくる。

 

食べ物、飲み物、アロマ、お風呂、枕、マットレス、アイマスク、耳栓、etc.・・・
ネットを検索すれば、不眠対策の情報は山盛りだね。でも不眠の原因は人それぞれだし、こうすればOKという正解は当然、ない。

 

深刻な場合は、やはり睡眠外来に行くのがベストなのだろうね。「寝るのが下手で」と軽く流しちゃうのも心配だ。不眠の陰にやっかいな病気が潜んでいるかもしれない。

 


私のことを言えば、今年の3月に母の容体が悪化してからずっと、眠れない夜が続いていた。不整脈やめまいもあった。6月の葬儀を終えてからもしばらくは、苦しかった。心配と不安、悲しみが背景因子だろう。

 

2か月がたった今は、悲しみはもちろん続いているけれど激しさは落ち着いてきていて、夜、母のことを思い出すとき涙は出てしまうが、穏やかな気持ちで母を偲べることが多くなったと思う。

 

これまで生きてきた年月にも、何度か眠れない日が続いたことはあった。そのたびに、いろいろな対策を試みた。とても多くのことを試したので、どれが効いたのかわからないのが残念だ。

 

今回は、眠れない日々だけど眠りたいとも思わずにいた。だから眠るための努力もしていなくて。気がつけばいつの間にか眠れるようになっていたという、私には初めてのケース。

 

今は、20代の頃みたいに「寝てるの大好き」な私がいる。ありがたいことだ。

 

睡眠時間は確実に短くなったし、朝までに2、3回、目が覚めてしまうことも多いけど、不足はない。最近は、就寝前のひとときを大事にしているためか、ベッドに行くのが楽しみだ。

 

寝室は居心地の良い空間にしておきたい。できるだけモノを少なくし、間接照明で目と脳に、眠りに入る準備をさせてあげる。時々はアロマディフューザーでリラックス感を上げておく。

 

ブルーライトは良くないのだけど、ちょっとの時間だけYouTubeで西城秀樹さんが歌うのを見る(癒される♪)。その後、本を読む。今、読んでいるのは原田マハ『キネマの神様』 (文春文庫)。面白い!


テレビは、寝る前には本当に見なくなったなあ。見たい番組があれば、録画して後日見るようにしている。

 

そして。
電気を消して、すぐに眠れなくても「眠らなきゃ」と焦ってはいけないと言い聞かせる。他界した母の思い出、巣立っていった娘たちの幼い頃の思い出など、ちょっと寂しいけれど優しい気持ちになれることを思い浮かべる。

 

「大変なことも多かったけど、なかなか良い人生だったんじゃないか」

 

そんな風に、死にゆく人のような気持ちになって、自分をねぎらう。そして、感謝する。朝までだって、自分と話ができるよ、なんて思っているうちに、夢の中へ。

 

夜中に目が覚めることも多いけれど、気にしない。もう若くはないんだもの、昔みたいにぐっすり長く眠る力はないのだ。そう考え横になっていると、また夢の中へ、ということもあるし、そのまま朝までベッドで目を開けていることも。

 

加齢による睡眠時間の減少は、自然なこと。私くらいの年齢ならば、6時間半も寝れば十分だそうだ。力を抜いていこう。抗わないよ。

 


こんな感じで、現在は睡眠に関して特に悩んでいない私だが、これがいつまで続いてくれるかはわからない。胸の中に常にある不安や悩みがいつ肥大化するか、天災や事故などの突発的な出来事がいつ起こるか。アナオソロシヤ。。。

 

起こり得るストレスを心配すればきりがないのだけどね。平穏な気持ちで眠りにつける日が、この先もできるだけ長く続いてほしいなあと、切に願う。

 

そして、私の大切な人たちが、不眠の悩みから早く解放されますようにと、祈らずにはいられない。本当に、本当に・・・

 

これを読んでくださっている方々にも、どうか心地よい眠りが訪れていますように。
暑い日が続きますが、どうぞご自愛を。

 

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実家の片付けは難しい―断捨離は急がずに

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母が亡くなり、清水の実家には父ひとりになった。威張りん坊だった父がものすごくしょげかえってしまい、見ていられない。父には反発することが多く、度々反抗的な態度をとってきた私だったが、最近は本当に父に優しくしている。可哀相すぎて・・・

 

区役所や年金事務所に出向いての各種手続き(本当にやることが多い!高齢化社会ではもっと簡素化すべき!)をサポートしたり、新盆(清水は7月盆)の来客対応などを手伝ったり、家の火災保険の新規契約に立ち会ったり。7月に入ってからも、清水通いは続いている。年を取り、事務処理能力にすっかり自信を失っている父を励ますのも、私の大きな仕事のひとつだ。

 

本当は、母の遺品の整理もそろそろ始めたい。それ以前に、実家に大量に溜めこまれている不要なガラクタたちを、少しでも処分したい。いつも、そう思って清水に行くのに、全然手を付けられずに帰って来る。父が抵抗するからだ。

 

「片付けなきゃいかんなあ。わかっちゃいるんだが」

 

父は辛そうにうなだれる。2月まで母はここで普通に暮らしていた。3月になって歩けなくなり、坂道を転がり落ちるように加速度がついて容体は悪化していった。そんな母が、振り返ればまだそこにいるようで、父は母のものに手が付けられずにいる。

 

例えば下着類などは、誰ももらってくれないことはわかっているから、一番処分しやすいかと思っていた。しかし父は、引き出しをあけると、母が丁寧に畳んでいた様子が思い出されて、その思い出で動けなくなるのだと言う。

 

「見てみろよ。こんなに綺麗に畳んであるんだ。足が痛くて苦しんでいたのに、一生懸命丁寧にやってたんだよ。『そんなの適当にしておけよ。俺がやっとくよ』って言ってやったのに、お父さんが畳むの下手だから、自分でやったんだ」

 

リアルに目に浮かび、泣き笑いになる。父に下着を畳まれるのは嫌だったんだろう、母は。そして、四十九日が過ぎたとはいえ、父の心の傷口からは、今も生々しく出血が続いている。

 

「お父さん、無理してお母さんのものを処分しなくていいよ、まだ無理だよ。もっと時間が必要なんだよ。『捨てる』っていう行為が嫌なら、私が持って帰ってうちで処分してもいいよ」

 

そう言ってみたが、それすらもう少し考えたいみたい。目に入ってくれば辛いくせに、なくなるのも嫌なのかもしれない。

 


実家ではあるものの、私はここで暮らしたことはない。だから、どこに何があるかよく知らなかった。母がいたときは、あちこち見ることに遠慮もあったし。

 

それでも、この家のモノの多さには気づいていた。古い家具も雑貨も食器も、服も靴もバッグも。どうしてこんなモノをずーっととっておくんだろうと、首を傾げることも多かった。私が幼稚園のときに使っていたアルミのお弁当箱まである。いらんでしょ。

 

そういえば、母も片付けたがっていたっけ。なかなか手が付けられないと言っていた。母が生きているうちに、断捨離を手伝ってあげておけば良かったな。

 

母が亡くなり、各種手続きに必要なものを探すために、家のあちこちの扉や引き出しを開けることになって、こんなのとっくに捨てられているべきでしょう?と呆れてしまうようなモノが、思ってた以上に溢れていることを知った。そして、そんなモノですら今の父には捨てられないだろうなと、痛みを伴って実感したのだ。

 

実は、父だけではない。私がいつも泊まる2階の和室には、母の嫁入り道具の三面鏡がある。多分、30年使っていない。母はこの家ではいつも、洗面所でお化粧をしていたから。

 

でもその三面鏡は、私には思い出があり過ぎる。子どもの頃、毎朝この鏡の前で、母が私の髪を結んだり編んだりしてくれた。若かった母が口紅を引くのを、横からうっとりと眺めていた。

 

うわあ、これ、手放せるかな、私に・・・

 

多分、父にはそんなモノばかりなのだろう。普段使わないものを溜め込んでいる2階の洋室は、本当は断捨離の候補の山だったはずなのに、今では思い出の宝庫となってしまった。私は何度もこの部屋に入ったが、毎回諦めて下に降りてきた。

 

実家の片付けは、難しい。自分の住む家の断捨離だって難しいのに、両親の思い出の品々を、古いとか、もう役に立たないとかの理由で、強引に処分するなんてできない。時間をかけて少しずつ、やっていくしかないのかな。

 

ただ、ひとり暮らしとなった父が、母との思い出の中に浸るだけの家にはしたくない、という気持ちがあって。家も、そう望んでいる気がして。

 

ちょっとずつだけど家事能力が上がってきている父が、日常生活をする上で動きやすいように、父の動線に合わせて部屋の模様替えをしてみたり、キッチンの道具の配置を変えてみたり、そんな提案をしていけたら、と思う。それなら手伝っていても楽しいし。不用品にサヨナラを言うチャンスも訪れるかも。

 

住まいは、人が動くことで呼吸をして生きているような気がする。そして、生きたがっているように感じる。

 

父にはまだまだ元気でいてほしい。母とふたりで暮らしてきた愛する住まいで、まだまだ動き回っていてほしい。少しずつ、少しずつ、新しい風を入れながら。

 

実家に行った折は、普段できていない掃除を中心に家のこともしてくる。キッチンや洗面所をピカピカに磨いてあげるのだけど、賞味期限がとっくに切れてる乾物や、開封されて半分飛び出していた滅菌ガーゼなどをこっそり捨てることも。捨てられるもの、これだけ?と我ながら可笑しくなる。それでもちょっとはスッキリする。

 


できるだけ清潔に、清々しい気持ちで暮らしたい。でも、掃除はあまり得意ではないし、苦手意識もある。モノが多いとメンテナンスもその分増えるし、ホコリは容赦なく降り積もる。気になりだすとあちこち拭きまくったり、洗ったり磨いたり。で、一日が終わってしまう。他のことが何もできなくなってしまう。

 

だから私は、モノは最小限に抑えたいし、好きでないモノは手放していきたい。それが私にとっての「断捨離」だ。そこは、ブレないでいたい。

 

ただ、それはあくまでも“私にとって”、だから。

 

父の家は父のものだ。父の気持ちが最優先。つい自分の論理を振りかざして手伝いたくなってしまうけれど、その衝動は控えよう。父のタイミングに合わせよう。心が辛くなる断捨離はしてはいけない。

 


「エアコンやテレビのつけっぱなしなんて、全然気にしなくていいけど、火の元と戸締りだけは気を付けてね」

 

毎回、そんな言葉を残して私は清水の実家を後にする。姿が見えなくなるまで見送ってくれる父に、振り返って何度も手を振る。手を振り返す父の姿はいつも寂しそうで、とても切なくなる。

 

「後ろ髪ひかれる思いをせずに帰れる日が、いつかは来るのでしょうか」

 

最寄り駅の手前。足を止めて、梅雨空の向こうにあるはずの富士山に、父を残して帰る後ろめたさや不安な思いを打ち明けた。
・・・もちろん、空の上の母にも。

 

「見守っていてね、お母さん」

 

今日は母の2回目の月命日。
あの日から、2か月がたつ。

 

 

「ありがとう」と言われた気がした―母のことをもう少しだけ

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清水の実家にはお仏壇がない。理由は聞いていないが、父は次男だし、結婚してからは転勤族となり、引っ越してばかりだったから、だと思う。薄給の公務員だったし。

 

ただ、父の家の先祖代々の霊を祀る紙と、母のお父さん(私の祖父)の戒名を書いた紙(紙位牌?)が貼られた木箱(多分みかん箱)が家にはあり、香炉とりん、花立、燭台など、小さな仏具も備えていた。

 

我が家ではそれを「のーのさん」と呼んでおり、私も時々はお線香をあげていた。受験の日の朝とかね。「のーのさん」は父が清水に家を建ててからも、そのまま和室に置かれていた。

 

最近になって知ったのだが、母は生まれた赤ちゃんの夜泣きに悩み、この「のーのさん」をこしらえて、祈り始めたそうだ。生まれた赤ちゃん・・・私か!!

 

母が亡くなり葬儀を終えて、私は少しの間、清水に残った。葬儀社が実家に設置した簡易祭壇には、母の遺影とお骨に加え、「のーのさん」にあった小さな仏具たちも並んだ。傍らには花があふれるほど置かれ、果物、お菓子、弔電に添えられたプリザーブドフラワー・フレームもお供えされ、私の刺しゅうや薔薇のポストカードも飾ってもらった。

 

綺麗で賑やかで、まるで三段飾りのお雛様みたいだと思った。遺影の母は明るい色の服を着て微笑みをたたえている。この可愛らしい祭壇に満足しているように、私には見えた。

 

親戚や父母のお友達。ご近所の皆さん。たくさんの方に、良い遺影を選んだねと、褒めていただき嬉しい。

 

そう、この微笑みはとても良い。少しソフトフォーカスで表情が曖昧なのも功を奏して、話し掛ける度に、様々な返答をしてくれるように見えるのだ。

 

清水の実家では、一日に何度もこの祭壇の前に座り、母に話し掛けていた。そこにいると少しだけ悲しみが和らぎ、心が落ち着いたのだ。それは写真の母が、必ず返事をしてくれるように感じたからだった。

 

「うん、うん。いいよ。わかってるよ」
「悪いねえ。迷惑かけてるねえ」
「あんた疲れたでしょう。2階に行って休んでおいで」
「大丈夫だから。あんまり心配しなさんな」

 


母と会話する場所が、私の家にも欲しい。そう思って、自宅に帰ってから、小さいサイズに焼き増ししてもらった遺影をフォトフレームに入れ、最初は本棚の上に置いてみた。花も添えたけど、少し寂しい気がした。

 

やがて、お線香代わりにと、お香を買って焚いてみた。初お香。実はお香には苦手意識があって、それは、かつて入ったアジアンな雑貨屋さんで焚かれていたものが、私には強烈な匂いだったことに由来する。

 

ところが、私が買ったお香は刺激も少なく、とても上品な良い香り。最初はコーン型のものを焚いていたが、すぐにスティック型も購入。ちょっと洒落たインセンススタンドに立てて、毎日香りを楽しんでいる。あれ、お線香代わりとか言ってたのに、これってお線香だ。

 

ちなみに、私が買ったのは日本香道の「かゆらぎ」シリーズ。百貨店に入っているショップで薦められた「藤」のコーンが気に入って、次にネットで「薔薇」のスティックを購入。他にも「石榴」や「金木犀「桜」茉莉花」など、試してみたい香りがいろいろあり、多分これからも買ってしまうだろう。笑

 

そんな風にお香も焚かれ、高低差をつけるために小さな台も置かれ、ロウソクならぬキャンドルも添えられた母の遺影のコーナー。フォトフレームは白でパールが散りばめられているし、傍らに今はひまわりの明るい花が飾られている。

 

母には仏壇ぽい感じよりも似合うんじゃないかな、と、どんどん明るく可愛いコーナーに育っていくけど、大丈夫かな。きっと眉をひそめる人もいるだろう。でも、私の祈りの場所なので、好きにさせてもらおう。

 

母は、どう思っているだろう。呆れているような喜んでいるような、微妙な笑顔だ。私はやっぱり、この笑顔が好き。本当にこの写真を選んで良かった!

 

遺影を選んだあの晩、母に「ありがとう」と言われた気がした。その後も、母はたくさんの「ありがとう」を私に言ってくれている。

 

棺を選ぶとき。白ではなく、薄桃色に品の良い柄が入ったものにしてもらった。副葬品に、母の好きだったフラダンスの衣装を加えたのだけど、母の体にそっと掛けてもらうドレスは、淡い藤色の上品なものに。真っ赤なドレスは畳んで足元に置いた。

 

親戚やお友達が、さいごのお別れを言いに棺の中の母を見てくださる。そのときの母には綺麗であってほしいし、母もそう望んでいるはず。

 

だから、湯灌のときも、シャンプー・シャワーの後のお化粧や髪形もきちんとオーダーした。特に眉は、母がいつも気にしていた部分だから、どうか形よく描いてあげてください、と。ヘアスタイルも、薄毛に悩んでいたからドライヤーでふっくら仕上げてあげてください、とも。

 

ねえ、お母さん、私、よくやったでしょう?ちょっと褒めてほしいなぁ。

 

葬儀で流すスライドショーの写真も、弟と一緒に選んだ。葬儀社の担当氏からはMAX20枚と言われていた。真剣になる。

 

アルバムをめくっていると、伯母たちが次々にのぞき込んで話し込み、前のページに戻ってなかなか進まないし、時間もない中で焦って大変だったけど(笑)、若き日の母の姿を見るのは楽しかったし、伯母たちの話す昔の母の様子も興味深かった。辛いというより、あのときは、うん、むしろ愉快で。

 

そして、プロに大変素敵なスライドショーに仕上げてもらったのだった。素敵過ぎて、当日は号泣してしまった。会場で、すすり泣きの声があちこちから。アメージンググレイスに乗せた5分ちょっとのスライドショーは、とても甘くロマンティックだった。そのとき、母の「おつかれさま。ありがとう」が聞こえてきた。

 

ピアニストさんには、童謡や唱歌を弾いてくださいとお願いしていた。母は昔から歌うことが好きで、コーラスのグループに所属したり、晩年は歌声喫茶によく行っていた。流行歌も歌っていたが、一番好きなのは唱歌だったようだ。

『花』
『故郷』
『朧月夜』
『春の小川』
 ・
 ・
 ・

 

葬儀の後、母の親友がピアニストさんにお礼を言いに行ったそうだ。
「彼女の好きな曲ばかり、弾いてくださってありがとう。涙が出たわ」
と。

 

母はきっと喜んでくれたよね。そしてきっと、母も一緒に歌っていたよね。

 


コロナ騒動の渦中でもあり、親戚と限られたお友達だけの、ほぼ家族葬のような温かで小規模のお通夜とお葬式だった。そのため、後日、生前お世話になった方に父が訃報の電話をかけ、場合によっては私も電話を替わった。

 

そのうちのひとつの電話は、母が最期を迎えた療養型病院。いつも優しく仲良くしてくれていたという作業療法士のIさんにつないでもらった。

 

この方は、父が出す手紙に返事を書けなかった母のために、母の話すことを代筆して手紙を出してくださったのだ。それも2回。

 

私は感動して、Iさん宛てにお礼の手紙を出した。もちろん、お返事無用と書いて、お礼のみ。負担をかけてはいけないからね。

 

ただ、母は歌が好きだということ。母のバッグにそっと歌集を忍ばせてあるので、可能ならば母の手の届く所に置いていただきたいという旨を、遠慮がちに書き添えたのだった。

 

直接話したことのないIさんは、どんな方なのだろう。母が好きになる人だから、きっと物腰の柔らかい可愛らしい感じの人だろうな、と思っていた。

 

果たして、電話に出てくれた彼女は、その通りの印象だった。ただ、涙声になってる?

 

 お手紙ありがとうございました。
 どんなに嬉しかったか。一生私の宝物です。
 アヤコさん(母の名前)と過ごす時間が、いつも楽しみでした。
 素敵な毎日でした。
 本当に素敵な方でした。
 お優しくて、いつも私の方が癒してもらっていました。

 

そんな風に話してくれて、私も声が震えてしまった。お母さん、さすがだ。
「ありがとうございます。歌は・・・歌集は見てましたか?」

 

 ええ!一緒に歌ってくれたんですよ。
 歌集の中から、
 『浜辺の歌』と『みかんの花咲く丘』を。
 「いいお声ですね」と言ったら
 笑ってくれたんです。
 「また来週も歌いましょうね」と言っていたのに。
 日ごとに、だんだん反応がなくなってしまって・・・

 

母の残り僅かな時間を、優しく見守ってくれていたIさんに、もっと母の話を聞きたかった。でも、胸がいっぱいになってしまい、それ以上は難しかった。

 

ありがとう。Iさん。
そして、母を癒してくれた歌たち。

 

『浜辺の歌』。
それは、母が丘の上の療養型病院に入院する前日、自宅ベッドに私と並んで腰かけて、一緒に歌った曲だ。父も、ちょうど買い物から帰ってきた弟も、一緒になって歌った。母は病院で、その歌を選んだのだ。

 

そして、今生最期に歌ったのは『みかんの花咲く丘』。
私も大好きなこの歌は、母が昔から、そう、私の幼い頃から、よく台所で歌っていた曲。三拍子で、聞いていると自然と首を左右に振ってしまう優しいメロディ。伊豆の海をイメージして詩が付けられたと聞いたことがある。

 

病床の母に一度、「お母さんは死ぬのが怖くないの?」と訊ねたことがあった。
あのとき、「全然」と答えた母。
「向こうで待ってくれてる人が増えたから?おばあちゃんに会えるから?」と私は重ねた。
「そうね」と母は遠い目をして微笑んだ。

母は、優しい祖母に、もう会えただろうか。

 

 

 みかんの花が 咲いている
 思い出の道 丘の道
 はるかに見える 青い海
 お船がとおく 霞んでる

 黒い煙を はきながら
 お船はどこへ 行くのでしょう
 波に揺られて 島のかげ
 汽笛がぼうと 鳴りました

 何時か来た丘 母さんと
 一緒に眺めた あの島よ
 今日もひとりで 見ていると
 やさしい母さん 思われる

   (作詞:加藤省吾 作曲:海沼実)

 

 

50'sの恋人たち―母の青春時代

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私の知っている母は、当然ながら私がもの心ついてからの人物で、それ以前は未知の人だ。若き日の母は、古いアルバムの中でしか知らず、それは子どもの私にとってすでにセピア色だった。

 

少女の頃、私は、母によく若い頃の話をしてほしいとねだった。どんな女の子だったの?

 

中学・高校時代はソフトボールの選手で、セカンドを守っていたこと。高校卒業後は、幼稚園の先生をしていたこと。洋裁学校に通い、服を作っていたこと。フォークダンスや社交ダンスが得意だったこと。

 

父とはそのダンスを通じて高校生のときに知り合い、長くグループ交際をしていたのだとか。父との馴れ初めを話すときの母の表情を、今も思い出す。少し照れたような、でもちょっと誇らしいような。

 

私が高1くらいだっただろうか。ファッション雑誌で1950年代の特集を読み、母の青春時代の服装がとても素敵だと思った。

 

ウエストを絞ったサーキュラースカート。オードリー・ヘプバーンの映画で大流行したサブリナパンツ。大きなボタンが付いたコート。母のアルバムを開いては、この服カワイイ!と興奮していた。

 

同じ頃、オールディーズや、それに合わせて踊るジルバやツイストなども好きになり、ダンスが得意な両親に手ほどきを受けもした。

 

父母が青春時代を送った50年代。
「タイムスリップして行ってみたいな!」

 

そんな憧れも、20歳で家を出て上京してからは、私自身の青春のひとつの記憶として、遠くセピア色になっていった。

 


3月は10日間、4月は7日間。
私が清水に滞在した日数だ。こんなに頻繁に、実家に帰ったことはかつてなかった。自粛要請中だったが、不要不急の用件ではなかったため許してほしい。

 

母は、急性期病院を4月6日に退院し、5日間の自宅療養期間を経て、4月10日に療養型病院に入院した。そして、5月28日、帰らぬ人となった。享年85歳。

 

新型コロナウイルスのためにできなかったこと。

遠距離移動の制限のため、5月は母が亡くなる日まで、私も弟も清水に行けなかった。
病院のある清水に暮らす父でさえ、感染対策のため母を見舞うことが許されなかった。
基礎疾患のある高齢者の参列が多い葬儀になるため、母がこよなく愛した孫たちも、他府県からの参列を自粛する他なかった。首都圏に暮らす弟や妹や姪たちも、ニューヨークの妹やオーストラリアの甥も、もちろん来られなかった。

 

仕方がないことなのだけど、とても悔しい。でも、私の悔しさなど霞んでしまうほど、父の無念さ、やりきれなさは、激しかった。

 

丘の上に建つ療養型病院に、父は頻繁に出向いていた。会えないと知っていても、手紙や差し入れを届け、看護師さんに母の様子を聞いていた。きっといつも病院の下から、母の病室の窓を見上げていたのではないだろうか。

 

手紙の返事が、父のもとに舞い込んだ。母が話す内容を、病院の作業療法士さんが代筆してくださったのだ。親切で優しい人たちが母の周りにいてくれて、本当にありがたいと思った。

 

でも、その手紙には「どうか一日も早く私をここから連れ帰ってください」という母の言葉が。父はどんなに辛かっただろう。

 

5月になって、病院のロビーと病室をつないでタブレット面会ができるようになった。予約を入れなければならないし、時間も10分程度なのだけど、父は喜んで伯母(父の兄嫁)と出掛けた。しかし、画面越しに見る、車椅子にすら座れずベッドに横たわる母の弱々しい姿に、茫然としたと言う。

 

5月18日、薬を誤嚥した母は発熱し、血中酸素濃度が著しく低下。酸素吸入と点滴治療が始まり、翌日、父は病院へ。医師の説明を受け、その後医師の計らいで数分だけ母に直接会うことができた。そのときは会話や握手もでき、父の顔を見た母は、顔色が良くなったようだと、担当の看護師さんに言われたそうだ。心配しながらも、父は会えたことを喜んだ。

 

「やっぱり、会って励ませば違うんだよ。家族に会えないことが一番、病人にはこたえるんだ」

 

父からはほぼ毎日、電話があった。病院からの報告に一喜一憂し、覚悟はしているが奇跡が起きてくれるかも、そうだったらどんなに嬉しいかと話し、私を切なくさせた。

 

父と伯母は22日にまたタブレット面会ができたが、そのときはちょっと手を振っただけでとても反応が悪かったそうだ。今度は比較的意識がしっかりしている時間帯に予約を入れましょうと、看護師さんに言われたらしい。

 

26日に病院に電話をした父は、微熱が続き、まだ酸素吸入と点滴がはずせない母を心配し、再度、「直接会いたい」と申し出る。医師から承諾を得た27日、数分間の面会をするが母は反応がなく、そんな母を見ているのがとても辛かったと父。

 

そして、28日。夜間看護しやすい病室へ移動したと病院から連絡。ほどなく危篤を知らせる電話があり・・・

 

間に合わなかった。私も弟も、父さえも、母の最期に間に合わなかった。

 

6月に入ればもう、県をまたいでの移動もきっと緩くなるよねと言っていたのに。5日に弟と病院を訪れ、医師の説明を受ける予定を立て、その折には直接、母に会わせてもらえる手筈になっていたのに。

 

待っていてほしかったよ、お母さん。

 

取る物も取り敢えず清水に駆け付けたけど、母はもう、病院から自宅に帰っていた。冷たい、からだ。でも、眠っているようにしか、見えなかった・・・

 

おかえりなさい。
ようやく、家に帰ってこられたね。
寂しかったね。
ずっと、誰にも会えなくて、どんなに寂しかっただろうね。
ごめんね。もっと何かできたかもしれないのに。
でも、おかあさん、本当によく頑張ったね。
さすが、西高セカンド。根性見せたね。
かっこいいよ、お母さん。

 

もう、痛みから解放されたんだね。
人工膀胱の、パウチ装着の不自由さからも。
歩けない辛さからも。
お父さんに会えない寂しさからも・・・

 

でもお母さん、寂しいよ、私。
まだ信じられない。
どうしたらいいの?


末期癌でステージ4と聞いた瞬間から、この日が遠くないことを覚悟していたけれど、父と毎日電話で話しているうちに、本当に奇跡が起きるのではないか、そうだったらどんなに嬉しいだろうと、どこかで期待している自分がいたのだった。本気で祈っていたのだった。
ああ、馬鹿げているのだろうか。

 

葬儀会社との打ち合わせ、電話や来客対応、食事作りや洗濯、掃除、お通夜、お葬式と、寝る間もないような日が続き、夫や弟夫婦が帰ってからも父のそばでしばらく過ごし、清水には9日間滞在した。父が時折見せる、激しい悲しみとやるせなさを共有しながら。

 

それから1週間がたつが、本当の喪失感はきっと、これから襲ってくるに違いない。寂しがり屋の父は、毎日のように電話してくる。来週、また清水に行く予定だ。

 


梅雨に入った。今の気がかりはもちろん父だけど、雨を眺めながら、気が付けば母のことばかり、ぼんやり考えている私。

 

特にあの5日間。自宅療養期間の。
ようやく退院できて喜んでいる母に、すぐまた別の病院に入院するのだということを告げなければならず、どう切り出せばいいのか模索する、とても重たい気持ちの5日間だった。

 

それに、あの期間もすごく忙しかった。毎日訪問看護師さんやヘルパーさんが来てくれて、契約書を取り交わしたり指示に従って動いたり。お見舞いに来てくださる方も多く、来客対応しながら要介護5の母の介護、食事や薬のお世話をしつつ家事もして、目が回りそうだった。

 

でも、あの日々、私は幸せだったのだ。夕刻のほんのひととき、父が仮眠を取っている間、ベッドの母とふたりきりで過ごす少し落ち着いた温かな時間が、とても幸せだった。

 

ようやく母のために何かをしてあげられている実感が持てたことと、なんというか、母を初めて独り占めできたような気がして。

 

「お母さん、大好きだよ」

 

夕暮れの、障子を通した幻想的な光の中で、手をつないだ母に、何回もそう言うことができた。小さな声で母も言ってくれた。

 

「私もよ。大好きよ」

 

急性期病院に入院中のときの、あるシーンについても何度も思い出す。日記を見ると、3月18日。ベッドに横たわる母の手を擦っていたら

 

「あんたの手、あったかいねえ」

 

と弱々しく私の手を握った母。そのまま、手を離さないままでウトウトと眠りに入っていった。その安心しきったような寝顔。

 

神様、どうかまだ母を連れていかないでくださいと祈りながら、私は母を失いかけている恐ろしさと共に、母を得た幸せをも感じるという、不思議な経験をしていた。

 


雨が降り続く。
私はスマホを手に取るが、清水で撮ってきた写真ばかりを繰り返し見ている自分に気づく。SNSももう何日、覗いていないことか。

 

少しずつ、ゆっくりと自分のペースで、日常を取り戻していけばいいよね。
雨を見る。心はまた、母に戻っていく。

 

弱っていく日々、母は病院のベッドでどんなことを考えていたのだろう。どんなことを思い出していたのだろう。

 

なんとなくだけど、母は父との恋愛時代を思い出していたような気がする。ウエストをキュッと絞った裾広がりのスカートをはいて、父とダンスを踊っていた、笑顔輝く青春の頃を。きっとそうだ。そうだといいな。

 

娘としては、子育て時代を思い出してほしい気もするが、今の父を見ていると、もう永遠に恋人同士でいなさいよと、言ってあげたくなる。

 

ワンマンで数えきれないほどあなたを苦しめてきたお父さんだけど、あなたを失ってこんなに悲しみ、出会った頃のエピソードを何回も、娘の私に聞かせてくれているよ。女の子たちの中で、あなたが一番可愛かったそうよ。

 

丘の上のあの病院に通い続けたお父さん。たとえあなたに会えなくても、そばに行きたくて通っていたんだよ。

 

そんなお父さんを、どうかずっと見守って、これからも愛し続けてあげてね。
お願いよ、お母さん。私の大好きなお母さん。

 


 天に在らば願はくは比翼の鳥、地に在らば願はくは連理の枝とならん
     ――――白居易『長恨歌』より

 

平和はわたしから―ハーブとホ・オポノポノの力を借りて

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昨日、駅前のスーパーマーケットまで、ハーブを買いに自転車を飛ばした。イタリアンパセリとディル。ここのハーブは新鮮でお値打ちなのだ。どうしても欲しかったディルは最後の1パック。入手できてほっとした。

 

このディルに加え、ベランダからローズマリーとチャイブ、タイムの葉を摘んできて、これらを細かく刻み、室温に戻したクリームチーズに混ぜ込む。キッチン中に、青い爽やかな香りが満ちる時間。私は大きく深呼吸した。

 

ハーブの力を借りよう!

 

辛いことが続き、内面が傷ついたまま治癒していないと自覚したとき、私はハーブづくしの食卓にしたくなる。まさに、薬草を求めるように。

 

昨夜はこのハーブチーズを石窯焼きのバゲットのスライスに塗っていただいた他、ミートボールのクリーム煮にイタリアンパセリを散らしたもの、スモークサーモンとアスパラのカルパッチョにディルをたっぷり添えた一皿を、結婚記念日の夕食とした。

 

質素で派手さはないけれど、体と心を優しく癒してくれる食卓になったと思う。夫と、31年前のこの日を思い出し、穏やかにおしゃべりをすることができた。人とのつながりの不思議、生きている間に再会したい人、など、話題が広がり楽しかった。

 

ハーブよ、ありがとう。

 


みんな、疲弊している。

新型コロナウイルス。私の住む地方では、緊急事態宣言は解除されたが、とてもではないが、まだ安心してなんて外に出られない。おっかなびっくりだ。人に会うのも怖い。

 

離れて暮らす家族にも会えない。会いたい人に会えない。大切に思うからこそ、会うことを控える。そんな非日常がもうずっと、何か月も続いている。みんな、辛いね。

 


 ごめんなさい
 許してください
 愛しています
 ありがとう

 

ホ・オポノポノの4つの言葉を、毎日、何度も口にしている。自分の中のウニヒピリ(潜在意識)にも、ずっと話しかけている。

 

以前はひとりの時にだけ声に出していたけど、最近は道を歩きながら小さな声で唱えたりすることも増えた。マスクの中だと、それができるのだ。緑道で立ち止まり、植物に触れながら「アイスブルー」とつぶやいても、誰も気づかない。ちょっとぐらい涙が流れていたとしても、誰も気づかない。

 

アイスブルーは、霊的、物理的、経済的、物質的な痛みの問題や、痛ましい虐待に関する記憶をクリーニングし、解放に導いてくれる言葉。「アイスブルー」と唱えながら植物に触れたり、自分が抱える問題に対して心の中でつぶやく。

 

HA(ハー)の呼吸も、自分の中に居心地の悪さを発見するたび、行っている。「HA」はハワイ語で「聖なる霊感」「息」という意味だそうだ。私のウニヒピリはこの呼吸法がとても好きみたい。自分の内面の波立ちがゆっくり収まっていくのを感じるとき、小さな驚きを伴いつつほっと安堵する。

 

焦りや動揺は、自然な歩みを止め、怒りや憎しみは、幸せを遠ざける。自分がいつもゼロの状態でいること、本当の意味での自由になることを、私は選び続けたい。難しいけど。

 

ホ・オポノポノのクリーニング・ツールのひとつ、ブルーソーラーウォーターも、今年から作るようになった。料理や洗濯、掃除にも使うことを習慣にすると良いそうだが、今のところ、飲料水にするだけ。それでも、飲むだけでクリーニングが行われているというのは、なんだかシンプルで素敵だ。

 

ブルーソーラーウォーターは、ウニヒピリが再生する記憶のほか、情報、リウマチ、筋肉の張り、痛み、憂鬱な気分などのクリーニングに効果的なのだとか。(『はじめてのウニヒピリ』宝島社、より)

 

この水の作り方は、ブルーのガラス瓶に水道水を入れて、日光に15分から1時間程度あてるだけ。曇りでも雨でも大丈夫だし、白熱灯の光でもOKとのこと。ただし、金属製の蓋は避け、プラスティックやコルクに(ラップでくるんでも良い)。あと、生水なので早めに使い切ること。

 

私はスーパーで見つけたリースリングのワイン(とっても安かった)を買い、そのボトルを利用している。とても綺麗なブルーで、光の中に置くとうっとりするほど美しい。蓋はいろいろ試したけど、「紅茶花伝」のペットボトルのものがちょうど良く、愛用中。

 

我が家のベランダは東向きなので、午前中にブルーソーラーウオーターを作る。そして備長炭入りの水筒に入れて冷蔵庫へ。これが私と夫の飲料水となる。水道水とは思えないくらい美味しいと思う。

 

さて。
ホ・オポノポノも緩~く続けていて、そろそろ5年になるのかな。最初は4つの言葉を唱えるだけだったのに、使うクリーニングツールもいろいろ増えてきたなあと、ちょっと可笑しくなる。実は、ロッテのグリーンガムも時々、買っている。「え?それもクリーニングツールなの?なんで?」って、知ったときは笑ってたくせにね。

 

ホ・オポノポノには、何度も、本当に何度も助けてもらったと実感があるので、こうして続けているのだ。ただ、今回の新型コロナ禍は、私が頑張ってどうこうできるものじゃないよね。そう思うのが当たり前だ。もちろんわかっている。

 

でも、ポノでは「平和はわたしから」と教えている。また、「すべては私の責任」という考え方もある。まだまだ素人の私には解釈が難しいのだけど、もしかしたらこの世界は自分が創ったもの(ひとりひとりに世界がある)かもしれない、となんとなく思い始めてもいて、そんな私は、こんな状況下だからこそ毎日、ホ・オポノポノのクリーニングをせずにはいられない。

 

外出自粛で会いたい人に会えないのも、規制が多くて不便なのも、もちろん辛いけど。もっと辛いのは、この騒ぎの中で誹謗中傷とか差別とかが続出し、人の心の醜さが暴かれていくのを立て続けに見せられることだ。

 

他人事ではない。失業した人や学業継続を諦めた人の話を見聞きした後で、家にずっと夫や子供がいて3食作るのが大変、みたいな話を聞くと、「そんなことくらい」なんてうっかり思ってしまっている自分がいる。あの人たちの大変さに比べたらあなたたちの苦労なんて大したことない、みたいに考えることを批判していたくせに、だめだね、私。せっせとクリーニングを重ねよう。

 

療養型病院に入院中で、病床で毎日寂しいと言っているらしい母のことを案じる日々。母のことばかり考えて眠れなくて苦しくなって、週に一度手紙を書いても落ち着かなくて。一人、清水の自宅に残された父のことも心配で苦しくて、それでも電話で話すと途方もなく疲れてしまって、1日おきに胃が痛くなって。会えなくて辛いけど、会えるようになっても辛いよねと、悲観的に考える自分が情けなくて、先のことを考えるのが怖くって。

 

そんな体験をしていることも、ホ・オポノポノではクリーニングの機会が与えられたと考える。体験は全て「記憶」の再生。私の中のどの記憶がこの体験を生み出しているのか。それを問い(答えを探す必要はない、というかそれは不可能)、クリーニングする。この苦しみの原因である記憶を手放します、と。

 

毎日、毎日、クリーニングしている。何かが解決し、安堵して、また新たに問題が発生してクリーニングする。その繰り返しだ。

 

心のかさぶたが取れないままに、次の傷ができていく。何かを楽しむことは母に申し訳ない気がするというのもあって、毎日が憂鬱と悲しみの色に染められていく。私の大好きな5月なのに、今年はこのまま終わっていってしまうのね。

 

そんな気分はどうしようもないのだけど、ちょっとぐらいの癒しでは、すぐにまた元に戻ってしまうのだけど、それでもベランダに出れば初夏の日差しはきらめいて、風はかぐわしく、ハーブたちは生命力にあふれており、ブルーボトルは希望の美しい光をまとっている。

 

母の病院の作業療法士さんが言ってくれてたそうじゃない、私の送った家族写真や刺しゅうを、「何度も眺めていらっしゃいますよ」って。まごころはきっと、届いているよ・・・そう自分に言い聞かせる。私が会いに行くまで、命の灯よ、お願い消えないで。

 

今日もお腹が痛いけど、私は幸せなんだ。そう思う。
コロナ騒ぎが収束しても、もう世界は元通りにはならないけど、囁かれるニューノーマルには小さな光も見え隠れしてる。
いろいろ・・・諦めたくない。

 

 Peace begins with me.
 平和はわたしから始まる

 

母の入院で事態は急展開―遠距離介護が始まった

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母が歩く夢を見た。

 

退院した母が、土間のような場所に立ち、そこから明るい外を見て
「あらぁ」
と嬉しそうに、ゆっくりと、薄桃色の紗がかかったような春の庭に出て、表の道を歩き出した。
杖もなしで、父の肩に手を掛けて。

 

「待って」
と私は慌てて追いかけ、母の手を取った。

 

「お母さん、歩いているじゃない、すごい!」
と私が驚くと、微笑んだ母。
「良かったぁ。治ったんだね。もう歩けないかと思ったよ。怖かったよ」
と私は涙ぐむ。母の手を両手で包む。

 

良かった・・・という自分の声がもう一度、私の口から出かかったとき、眠りの淵からこちらに戻ってくる感覚がわかり、私は絶望を感じた。

 

いやだ。目覚めたくない!
ずっと、夢の中にいたかった。

 


寝つきの悪い日が続いている。明け方、ようやく眠れても、妙な夢を見て目覚めることが多くなった。しかし、母の夢は初めてだ。淡い光に包まれた母は、とても綺麗だった。

 

現実の母は、病院にいる。父母の暮らす静岡市の清水に、私は3月に3回、行っている。ここ数年、年に1回帰るか帰らないか、のペースだったのに。

 

「深刻な話じゃないんだけどさ」と弟から電話があったのが2月の25日。母の足の痛みがひどくなり、もう杖をついても歩行が困難になった。車椅子や介護ベッド、手摺を導入することになったから来てくれと、父から弟にSOSが来たという話だった。明後日、行ってくるよと。

 

私も3月1日に弟と入れ替わりで駆け付けて、家のことを手伝ったり、母を元気づけたりしてきたが、あの頃はまだ、本当にこんなに深刻になるとは思っていなかった。2階から1階に寝室が移り、生活パターンの変化に慣れるまでは大変かな、くらいな感じだった。

 

3月12日。手摺設置の立ち合い等で、弟が岐阜から静岡に行ったその日、ケアマネージャーの勧めで、母は7泊のショートステイに入所となった。父の腰痛がひどく、母を介護するのが困難だと思われたための選択。

 

私はむしろ、ほっとした。父の腰の養生ができる時間がもらえたわけだし、介護のプロに母をお任せできるのは安心だと思ったから。

 

ところが、16日に事態は一変した。ショートステイ先で食事にほとんど手を付けなかった母は、脱水症状を心配され急遽診察を受け、入院となったのだ。今度は父から私にSOSが来た。

 

慌てて新幹線で静岡へ。不安なまま病院に到着すると、母は「おなかがすいた」と言っている。「だって朝から何も食べてないんだもの」と。「あなたが拒否してたんでしょうー」と力が抜けたが、ともかくほっとして、売店でパンとおにぎり、リンゴジュースを買ってくる。

 

しかし、医師から別室で聞かされた母の容体は、ステージ4。母はかつて膀胱癌と大腸癌の摘出手術をしており、その後癌は肺に転移していたが、医師からは「今すぐどうこうなるという進行ではない」と言われている、と私は両親から聞いていた。

 

進行、していたのだ。多分、年末くらいから。あの足の痛みは腰椎からではなく、癌のもたらす痛みだったのだ。

 

急性期病院であるため、母が入院できるのは最長60日まで。退院後はどうするか、つまり自宅で療養するか、療養型病院に転院するか、家族で話し合ってください、と言われた。高齢の父では介護力が足りないと思われるので、療養型病院をお勧めしたい、とも。

 

父の世代は皆、そうなのだろうか。療養型病院に対する偏見がすごい。巷では「姥捨て山」と呼ぶ人もいる、などと言い、絶対にそんな所へ入れるのは嫌だと顔をしかめた。「死なばもろともで俺が看る」と。

 

弟とも相談しようと、その日は父をなだめて帰ったのだが、母の現状を知ったショックの上、今後迫られる判断の厳しさに、私は頭を抱えた。加えて、父の動揺と憔悴への対応。

 

弟はもちろん「お父さん一人で看るなんて絶対無理。説得しなくちゃ」と電話で言った。23日に市の介護認定の調査がもともと予定されており、場所は自宅から病室に変更になったとはいえ、私も弟夫婦も揃うので、その日に相談しようということになった。

 

入院騒動で慌てて駆け付けたが、とにかく3日間、父のそばにいた。そして、ショックを受けた者同士がその後の時間を少しでも共有することは、とても大事なことのような気がした。

 

「お母さん、だいぶ悪そうだぞ。やばいかもな」
「うん、私もそう思った。・・・怖いね」
「そうだな。怖いな」

 

とても受け入れられないと思ったことでも、受け入れなければならないことがあるのだと、人は時間をかけて自分を納得させ、覚悟をしていくものなのかもしれない。

 

23日は夫も仕事を休んで、一緒に清水に行ってくれた。ケアマネと病院の相談員、看護師を交えての話し合いが行われ、父は療養型病院に母を入れることを承知してくれた。ケアマネから、自宅介護の具体的な内容を聞き、訪問看護や訪問診療、介護サービスがあっても、夜間などの不安が現実問題として実感できたようだった。

 

しかし、とても家に帰りたがっている母の願いを、私も叶えてあげたい。そこで、1週間でも5日でも、一度家で過ごしてもらい、その後で療養型病院に入院することにしてはどうかという、ケアマネの提案に賛成した。その間、私が泊まり込み、父をサポートするということで。もう、それしかない、という感じだった。頑張ろう、悔いを残したくない、と。

 

25日の朝、父は療養型病院に電話をし、その日の午後に面談の予約を入れてくれた。母の見舞いを済ませ、私は人工膀胱のケアのレクチャーを受け、父とともに転院先となるその病院に向かった。

 

さまざまな聞き取りと、入院手続きの説明を受けた。病院側の受入日が決まったら連絡をもらい、そこから逆算して自宅療養期間を取り、今入院している病院を退院する日が決まるという流れ。母の現状を思えば早い方がいいな、と思っていたのだが、ここで思わぬお知らせを聞くことになる。

 

「申し訳ないのですが、新型コロナウィルス感染防止のため、現在、ご家族であっても一切の面会をお断りしているのです」

 

私と父は面食らい、絶句した。確かに、今の世の中は、そういうことを了承しなくてはいけない状況だ。でも・・・

 

私の脳裏に「姥捨て山」という言葉がよみがえる。誰も会いに行かなかったら、母は本当に「捨てられた気持ち」になってしまうのではないか?

 

今入院している病院は、不要不急のお見舞いはご遠慮くださいとは言っているが、現状、面会できている。母を早く退院させるということは、母に会えなくなる日も早めてしまうということになるのだ。

 

むしろゆっくりの方が良いのか。母の早く帰りたいという願いを叶えることは、果たして良いことなのか。頭が混乱した。コロナめ!と心底憎んだ。しかし。

 

「この新型コロナ禍で苦しんでいる人がどれだけいることか。それを考えると、こうした状況もお母さんの、そして私たちの、受け入れなくてはならない運命なのかもしれないね」と隣の父に言うと、「そうだな」と頷いた。病院サイドのご都合日に従う、ということにした。

 

帰り道、バスを降りて、父たちが少年時代、青年時代を過ごした街を歩いた。思い出をたくさん、聞かせてくれた。初めて聞く話がほとんどで、とても興味深くて。ああ、お父さんは本当に清水っ子で、清水が好きなんだね、と、今の苦しみを脇に置いておけるくらい、優しい気持ちに浸ることができた。

 

入院した日、おなかがすいたと言って私たちを笑わせてくれた母は、しかしその後、どんどん食が細くなっている。病院食はほとんど手を付けない。リンゴやチョコレートをほんの一かけら、口に入れてくれたけど、もう結構と言われてしまった。

 

「食べて、点滴がはずれるようになったら、退院できるんだよ」と、母に食事をさせようとする父の目は悲しそうで、直視できなかった。

 

85歳なんだもの、何が起きてもおかしくない。頭ではわかっていても、心がついてこない。母にはもっと生きていてほしい。ベッドで私の手を力なく握り、そのままウトウトしてしまった母の顔は、少女のようだった。私は、自分がどんなに母を愛しているかを悟った。

 

「お母さん、お願い、食べて・・・」

 

清水から帰ってからずっと、そう願っていた。毎日、祈っていた。

 

昨夜、義妹(弟の連れ合い)からラインで、弟の高知県の友人が作っているミニトマトを送ったら、母が昨日は3粒、今日は6粒食べたよと、父から電話があったことを教えてくれた。

 

じわじわと、嬉しさがこみあげてきた。弟に、義妹に、高知の彼に、そして誰にともなく、トマトにまで感謝の気持ちがあふれてきて、昨夜はひとり、夜更けまで泣いてしまった。

 

この義妹が、よくできた人で。可愛くて優しくてさっぱりしていて気が利いて、私は昔から大好きだった。

 

もう10年以上会っていなかったのがここ最近で2度会って、ラインでやり取りが活発になってからは、ますます好きになっている。父の腎臓病のこともずっと心配してくれて、今度は父の要支援認定の申請をしようと動いてくれている。

 

私と弟と、夫と義妹。義妹が用意してくれたグループラインで今、情報を共有しつつ、相談しながら、勉強しながら、皆で遠距離介護を始めた。

 

遠く離れて暮らす老親のために、何ができるのか。忙しい中、それぞれが自分のできる最善を尽くし、皆で協力をするということを、初めて経験させてもらっている。それはもしかしたら、母からのギフトなのかもしれない。

 

既に両親を見送っている夫、お父さまを亡くしている義妹に、どんなことを大切に考えたら良いか、指南してもらいながら、私も弟も、父母のために今できることをしたいと思っている。

 

・・・母に、桜を、見せてあげたいなあ。

 

 


前回、もう少し頻度を上げて書いていきたいと言っておきながら、また日があいてしまいました。申し訳ないのですが、しばらくこんな状態が続くかもしれません。各方面、不義理をしてしまっている方も。。。この場を借りてお詫びします。ごめんなさい。

 

次郎長親分と南岡町

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手を洗い過ぎて手荒れが大変。ハンドミルクの減りが激しい、ここ数週間。ニューコロナ関連の日々のニュースには本当に気が滅入る。明るい兆しが早く見えないものか。

 

前回の記事で、明るい気分で3月を迎えたい、と書いたけれど、なかなかそうは問屋が卸してくれない。母の様態が思わしくなく、先週、静岡の実家に行ってきた。

 

頸椎から足を痛め、杖を使っていた母が、いよいよそれでも歩くのが困難になり、車椅子と介護ベッド、家の各所に手摺を導入することに。

 

先行して弟が行ってくれていたが、交代で私が4日間。初日は夫も来てくれて、キッチンのシンク周りを磨くなど、一生懸命協力してくれた。

 

私も母の通院に同行する他、2階のトイレを掃除したり、網戸と窓を拭いたり、洗面所やバスルーム、キッチンの排水口を掃除したり。長い間、放っておかれたようだった。あの綺麗好きな母がこの状態を許してしまうほど動けなくなっていたとは、と、こみ上げるものがあった。

 

父は以前は全く家事をしなかったが、母の足が悪くなってから、買い物や洗濯もの干しなど、進んでしてくれるようになったようだ。簡単な食事作りもできるようになっている。家事力が上がったのは素晴らしいことだが、やはり掃除系は後回しらしい。

 

近くに住んでいたら、毎日のように手伝いに来られるのに・・・

 

考えても仕方のないことを、つい考えてしまう。弟も私も遠方に住んでいて、駆け付けるにしても3~4時間はかかるのだった。

 

私は静岡県清水市(今は合併して静岡市)で生まれた。しかし、父が転勤族だったため、清水に住んだのは生まれてからの数年と、小学校2年の秋から5年の秋まで。だから、この町は父母にとってはふるさとでも、私にとっては「生まれた町」「住んだことのある町」としか言えない。

 

父は私が結婚した後、定年を迎え、清水に家を建てた。つまり、父母の住む今の家に私は住んだことがない。遊びに行くだけだった。

 

でも、娘たちが小さい頃は、年に数回家族で訪れた家。お世話になった家。

 

だから、愛情と感謝を込めて、話しかけるように掃除をしてきた。そして、父と母を守ってねと、お願いをしてきた。

 

子ども時代は引っ越しが多くて、私は幼稚園3つ、小学校4つに在籍した。清水は一番長く小学生をやった町だ。努めて目立たないようにしている転校生だった私だが、自宅周辺ではノビノビと遊んでいた記憶がある。富士山を、日常的に仰ぎ見て暮らしていたあの頃。

 

清水滞在の2日目の夕方。一人で買い物に出た私は、父から指定されたそのスーパーが、昔住んでいた場所に近いことに気づき、遠回りして懐かしい町を歩くことにした。

 

目立ったのはコンビニ、ドラッグストア・・・もちろん半世紀前にはない。笑

 

はじめのうちは、まるで知らない町になってしまったとガッカリした。でも、懐かしい八幡神社、稲荷神社はそのままだった。学校帰りの寄り道コースだった細い道も、まだ残っていた。

 

メリーポピンズみたいに飛べないかなと、傘を広げて飛び降りた石垣もそのまま。足首を痛めたっけ。笹舟を作って流した側溝には、蓋がしてあった。初めて鬼ボウフラを見て、その動きに見入っていたドブはこのあたりだったかな。変なことばかり思い出す。

 

曲がりくねった道だが、迷いなく歩くことができた。覚えているものだね。ミッション系保育園の十字架の塔は、今も目印になる。従妹が住んでいた集合住宅もまだ残っていて驚いた。築60年くらいになるんじゃないかな?

 

あいにくの曇り空で富士山は拝めなかったけれど、短い散策の間中、沈丁花の香りがあちらこちらから漂ってきた。

 

翌日の昼。母が大根のおでんが食べたいと言うので、父が「次郎長通りに買いに行こう」と私を誘った。美味しいお店があるらしい。アシスト付き自転車2台で、またまた懐かしいエリアへ。

 

「ここが橘寮があったとこだ」

 

自転車で前を行く父が右手で示す。一瞬で通り過ぎたが、そうか、ここだったんだ、私が住んでいたのはと、耳のあたりが熱くなった。もう跡形もなかったけど。

 

南岡町の橘寮。公務員だった父が、出張者を泊める寮に、一時期、管理者を兼ねて家族と住んでいた寮の名前だ。子どもの私にはとにかく広くて、部屋数が多くて、芝生の庭があって、こんな大きな家に住めるなんて嬉しいな、と単純に喜んでいたっけ。

 

当時は町中が塀でつながっていたように覚えている。私は猫のように塀の上を歩き、隣町までだって探検した(ように思う)。そして、猫がたくさんいる「バインジ」がお気に入りの場所だった。

 

それが「梅蔭寺」であり、清水次郎長の菩提寺である「梅蔭禅寺」のことだったと知るのは、転校して清水を離れてからのことだ。

 

梅蔭禅寺、次郎長通り。私は次郎長親分のゆかりの町で、3年ほど暮らしていたんだね。

 

清水次郎長(しみずのじろちょう)。
幕末の博徒で、海道一の大親分と呼ばれたことで知られる。侠客、いわゆるヤクザさんなんだけど、清水のヒーローだ。何故?

 

侠客であるものの幕末の混乱期に地域の治安を守る自警団を担い、戊辰戦争で官軍の先鋒を務めながら敵軍の戦死者を手厚く弔ったりし、山岡鉄舟や榎本武揚の知己を受ける。後に私財を投じて、富士の裾野の開墾や船会社の創設に尽力するなど、地元に貢献。

 

ざっくりと調べてみると、そんな名士像が浮かび上がる。でも、きっと大政小政や森の石松などの子分を従えて暴れまわってた頃の武勇伝、多くの人に慕われる人柄や、奥さんとの人間臭い逸話などが講談や浪曲の題材になり、義理人情に篤い「清水一家」の物語が、清水の人たちにとってご当地自慢のひとつになっていったのではないだろうか。

 

Wikipediaによると、任侠(にんきょう、任俠)とは本来、仁義を重んじ、困っていたり苦しんでいたりする人を見ると放っておけず、彼らを助けるために体を張る自己犠牲的精神や人の性質を指す語。とある。まさに、任侠の人だったのだろう。

 

ふと、父やその兄弟の顔が浮かぶ。それぞれ堅い仕事をしていたが、子ども時代は近所で知らぬ者はいない悪ガキ兄弟だったと、いろいろな人から聞かされた。すこぶる喧嘩が強かったらしいが、"強きを挫き弱きを助く"連中だったと。あらま、任侠精神?

 

もしかしたら次郎長親分、天国からうちの父たちを面白がって眺めてくれていたかもしれない。そんな考えが浮かび、少し楽しくなる。ついでに、梅蔭寺で猫と遊んでいた、友達の少ない小学生の女の子のことも、見守ってくれていたかなあ。

 

このエリアで最も大きい商店街、次郎長通りは、梅蔭寺から少し清水港寄りの場所にある。おでんを買った「梅の家」近くには、次郎長生家が残っている。

 

食が細くなっていた母が、この日はよく食べてくれて、夕方たくさんおしゃべりすることもできた。足をマッサージしてあげたら、すごく喜んでくれた。

 

運動が得意だった母。足が悪くなっても、自転車に乗ればさっそうと遠くまで出かけられた母。動けなくなってどんなに悔しいだろう。もうこのまま・・もしかしたらもうこのまま、どんどん動けなくなってしまうのだろうか。好きだったいろいろなことを、諦めていくしかないのだろうか。

 

口数が少なくなっている母。笑いながらしゃべってくれたのは束の間で、また悲観の思考に沈んでいく。そして、父はそんな母を支え続ける自信をなくし始めている。父のメンタルもとても心配だ。

 

清水を去る最後の日。玄関先を掃いた後、私は庭のオリーブの木から一枝切り取った。新聞紙に包み、自宅に持ち帰ろうと。何故、そんなことを思いついたのかわからない。あの家で生きているものをひとつ、自分のそばに置いておきたかったのかも。

 

後ろ髪を引かれる思いで帰ってきて、1週間がたつ。今日はまた弟が向こうに出向いてくれている。手摺の設置の立ち合いと、介護支援専門員との話し合いのために。

 

いよいよ、介護の新たなステップを上る。行政と介護のプロの力を借りて、遠距離で親を看ていくステップだ。自分の無力が情けないけど、今できることからやっていくしかない、と思う。

 

父が弱っていることも辛かった。去年、私を怒鳴ったあの勢いはない。よく衝突してしまう父と私。父は私が嫌いなのかなと思ったこともあったのだけど、帰り際に見えた父の携帯電話の待ち受けは、私の写真だった。胸が詰まった。

 

親分。次郎長親分。南岡町にいたつきかなです。
どうか父と母を見守っていてください。

 

今朝、WHOが新型コロナウイルスをパンデミックと認めた。世の中はどうなってしまうのか。希望がほしいと、切に思う。できるだけ、笑顔でいよう。

 

どんな状況にあっても、幸せな気持ちでいられることを諦めたくない。

 

 

ブログをお読みいただきありがとうございます。ゆっくりペースで続けてきましたが、この記事がようやく100本目となるようです。200本目に向かって、今後もマイペースで(もう少し頻度はあげたいですが)書いていこうと思っております。引き続きお立ち寄りいただけますと幸いです(*^-^*)