一筋の光、降り注ぐ光。

人生はなかなかに試練が多くて。7回転んでも8回起き上がるために、私に力をくれたモノたちを記録します。

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人生の棚卸しと青春のお葬式

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空想癖のあった少女時代、私はよく物語を書いていた。童話やおとぎ話のようなもの、ミステリーやSFのようなもの、冒険物語のようなもの、などなど。チラシの裏やノートに綴っていたのが、いつの間にか原稿用紙に書くようになり、それからずっとずっと、私は原稿用紙が大好きだった。いつか、自分の名前の入ったオリジナルの原稿用紙を作りたいと夢見ていた。

 

一昨年の暮れに引越しをしたとき、服や靴、本やCDなどの断捨離はしたのだが、自分が書いてきた原稿にはほとんど手が付けられなかった。取捨選択をするにはまず、読んでみなければならなかったからだ。ただでさえ忙しい中、そんな時間は取れなかったし、どうせ向き合うならじっくりと心を傾けたかった。同じ理由で諦めた写真アルバム同様、ひとまとめにして段ボール箱に突っ込んだあの日。

 

最近になって「また物語を書いてみよう」と思いたち、PCに向かっているうちに、ふと昔の自分がどんな物語を書いていたのか読み返してみたくなった。そして、引っ張り出してきた原稿用紙と今、格闘している。

 

恥ずかしすぎる。

 

一刻も早くこの世から消してしまいたいくらいだ。ショートストーリーやエッセイ、詩もあった。感傷的で独善的な代物が多い。どうして後生大事にとっておいたのだろう。この機会に断捨離だ。

 

耳まで熱くなって恥じらいながらも、なぜか熱心に読んでしまう私。懐かしいのだ。原稿用紙に向かっていた自分の姿が目に浮かび、当時、どんな日常を過ごしどんな夢を思い描いていたのかが、次々よみがえる。高校時代、短大時代、社会人になってから・・・

 

 ――どうなるものか、この天地の大きな動きが。
 もう人間の個々の振舞いなどは、秋かぜの中の一片の木の葉でしかない。なるようになってしまえ。
 武蔵は、そう思った。

 

ある原稿用紙に綴られた文章。これは、吉川英治の『宮本武蔵』の冒頭だ。

 

フラッシュバック。不安で怖くてたまらないのに、夢中で楽しい、疾走するような気分。これを書き写していた頃の自分がどんな状況だったかを、一瞬にして思い出した。長い小説を書こうと決めた23歳のとき。手近にあった文庫本から、最初の書き出し方を勉強しようとしたのだった。

 

就職して3年、どうしても「書く仕事」に就きたくて、アパレルの会社を退職。貯金と失業保険の給付金で生活できるうちは、とにかく書くことに集中したいと、毎日図書館に原稿用紙を持って通っていた私だった。

 

無謀で浅はか。けれど、目標に向かってまっしぐらだったあの頃の自分が、懐かしくも愛おしい。そして、自分の作品に目を戻せば、それなりに工夫した表現が好ましく思え、今の自分にはない感性を羨ましく感じたりもする。

 

この断捨離はやっかいかもしれない。スパッと処分しようと思っていたのに、自分の歴史が刻まれている文章たちを簡単には葬り切れない。

 

そこで、とりあえずテキストデータにして、現物を捨てる方針にしてみた。タイプしているうちに、耐えられない恥ずかしさを感じたもの、意味が不明すぎるものは、タイプするのも止めて残さず捨て去ろう、とルールを決めて打ち込んだ。そのうちに、思い出の中にもすっきり手放してしまいたいものが意外に多いことに気づく。たとえ懐かしくてもだ。

 

私という人間の中の、この要素はまだ大事にしておきたいが、この要素はもう不要。この発想は再利用してみたいが、この考え方はあり得ない。

 

それは単なる思い出ではなく、成長の記録でもなかった。一人の人間がどんな人生を送ってきたか、どんなものからどんな影響を受け、何を宝とし、何を愛し何を憎んできたか。文章というものが自分の内面を照らし出す性質であるために、この断捨離はまるで人生の棚卸しだと思った。そして、捨てきれなかった若き日の気負いや執着との決別。激しい言葉にしてしまえば、青春のお葬式。

 

物語を・・・書こうと思ったのにな。

 

机の片側に積まれた原稿用紙の山を眺めて、思わず苦笑する。でも、この棚卸しとお葬式は、思い立った今、きちんと済ませておこう。心を込めて。そうしてその後で、自分の棚に残された宝物を使って、澄んだ気持ちで新しい物語の世界を綴っていこうと思う。