一筋の光、降り注ぐ光。

人生はなかなかに試練が多くて。7回転んでも8回起き上がるために、私に力をくれたモノたちを記録します。

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いつの間にか、周囲は年下ばかり?

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書くことを仕事と決めて、何十年たっただろう。新聞社や小さな出版社で取材記者をしたり、フリーでライティングや編集をしたり、企画出版(自費出版ではなく商業出版)で本も一度出した。途中ブランクも度々あったし、事務や販売の仕事をしたこともあったが、今また細々とだけど、フリーランスでライターの仕事を続けさせてもらっている。

 

20代の頃は、仕事仲間も取材先も、年上の人ばかりだった。社内外の大人たちに、叱られたり励まされたりして、育ててもらった。いっぱい恥をかいて、いっぱい衝突して、認めてもらえれば嬉しくて、背伸びするように仕事をしていた。憧れの先輩たちに近づきたかった。

 

いつからだろう、まわりに年下の人たちが増えてきたのは。私が子育てで仕事を休んでいた頃からかな。打ち合わせに出向くと自分が一番年上だった、ということが多くなった。上司です、と紹介され出て来た方もお若くて!・・・そういうのにも慣れてきた。

 

近年では、仕事に限らず様々なコミュニティで、一番の年長者になってしまっている気がする。気にしなければいいのだけど、ちょっと居心地の悪さを感じるのは否めないかも。笑

 

ここのところ、ドクターにインタビューする仕事が続いている。自分より年上のドクターを取材したのは一度だけで、先日お会いした方は40歳になったばかりだった。

 

患者としてお医者さまに診てみらうときは、最良の治療を受けたいという弱み?もあってか、どんなに若くて可愛らしいドクターでも、まずは従順な態度をとる私。先方も医師として私に向き合うので、ヘンな表現だが「年上っぽい」。

 

でも、この仕事では取材する側と取材される側で対等(本当は診療もそうであるべきなのだけど)、社会人として敬意を払いつつ、この限られた時間を有意義に使うことにお互いが協力し合う関係だ。

 

そう、限られた時間。これが今回は、諸事情でいつもの半分ほどになると、取材直前に担当者から告げられた。そう来たか!瞬時に作戦を組み立て直す。

 

どんな方だろう。ご自分から発信したいと申し入れてきたそうだから、積極的にしゃべってくれるタイプかな。担当者も会ったことがなくわからないらしい。様子を見て、空気よみよみで(笑)進行してほしいと。もちろんそのつもり。問題は、時間がないこと。

 

で・・・
全然、積極的じゃなかった。とっても好人物なんだけど、質問してから「うーん」と考え込んで、悩んで答える人だった。時間、ないんだけど!

 

焦る思いはひた隠しにして、私は彼がしゃべりやすい雰囲気づくりに務める一方で、ノッてくれそうな話を猛スピードで探った。自分の中のありとあらゆる引き出しを引っ張り出して。

 

この方が発信したい内容を、短い時間で過不足なく聞き出したい。できればご本人の本来のキャラクターも引っ張り出したい。せっかく発信するんだもの、いいものにしましょうよ!早くしゃべって!頑張って!

 

ゆったり微笑んでふむふむと頷きながらメモを取る私。しかし、頭の中は高速フル回転だった。でも、自信はあった。それはいわゆる「年の功」なのかもしれない。

 

無事、取材が終わり、残りの撮影をしながら雑談が始まると、ドクターの表情が明るくなってきた。発言もスムーズ。口下手なのではなく、緊張していたのだ。なんだ、こんなにしゃべれるんじゃない~、と力が抜けそうだった。笑

 

「いまからもう一度、やりましょうか」なんて冗談を言い合いながら、こうしてがチガチに緊張して取材を受けてくれることも、この方の魅力なんだよな、と思っていた。そして同時に、私にならその魅力も書くことができるわ、と。そんな風に当たり前に自分を信頼できることが嬉しかった。

 

それは、プロ意識というよりも、経験値。この仕事を長年やってきたということもあるけど、それ以上に人生を長くやってきたことによる引き出しの多さへの、信頼なんじゃないかな。伊達に苦労はしてないよ。なんてね。

 

若い人たちに囲まれていると、こんな年齢でこの場にまじっていていいのだろうか、と思うことが多々ある。今の若い人たちは、私の若い頃よりも概ね真面目で、礼儀正しく、しっかりしている(気がする)。みんな優しいし、失礼なことを言われたことはないけど、本心では、自分の親みたいな年齢の私を煙たいと思うこともあるんだろうなあ。

 

IT系の話はついていけてないし、専用のシステムもなかなか使いこなせない。昭和っぽい価値観もどこか染み付いていて、足を引っ張っているかもしれない。

 

でも、人生の経験値や引き出しの多さが、仕事にプラスとなるシーンが多いのは確かなのだと、これも経験から知っている。窮地では私を勇気づける武器にもなってくれる。

 

周囲より年を取ってることに引け目を感じたり、ジェネレーションギャップに途方に暮れることもしばしばある。けれど、むしろそれを面白がっていきたいものだよね。

 

もちろん、"今"を感じ取る柔軟な心は、老け込ませてはいけないし、澄んだ視線で若い人たちから学ばせてもらう姿勢も大切にしていきたい。そこは私、素直だから。(誰に売り込み?)

 

ところで、私の同級生はあと数年で定年を迎える。そんな年になったのかと思えば、急に老後が迫ってきたようで身震いしそうだ。私の仕事には定年はないから、健康である限りリタイアせず、信頼してお声を掛けていただけるのなら死ぬまで書き続けたいと思ってはいるのだけど・・・どうなるのだろう。先のことはわからない。

 

不思議なのは、人生の終い(しまい)支度についてはよく考えてるくせに、仕事に関しては"しまう"どころか、これからもっと仕事を通して成長したいし、発展させたいと願っている自分がいること。これって矛盾してる?

 

何かを成し遂げたいなどという大それたことではなく、まだまだ面白そうなことが待っている気がしてならないのだ。変に画策したりせず、日々を、一瞬一瞬を大切にすることで、良い流れが作り出せるのではないだろうか。素敵な波乗りができるのではないだろうか。

 

かつて私を鍛えてくれた先輩各位に尋ねてみたい。「だからお前は甘いんだ!」と叱られてしまうかな?

 

川べり散歩の途中、早春の光の中。若き日の、生意気盛りの自分を懐かしく思い出している。まだ人生は続いている。