一筋の光、降り注ぐ光。

人生はなかなかに試練が多くて。7回転んでも8回起き上がるために、私に力をくれたモノたちを記録します。

次郎長親分と南岡町

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手を洗い過ぎて手荒れが大変。ハンドミルクの減りが激しい、ここ数週間。ニューコロナ関連の日々のニュースには本当に気が滅入る。明るい兆しが早く見えないものか。

 

前回の記事で、明るい気分で3月を迎えたい、と書いたけれど、なかなかそうは問屋が卸してくれない。母の様態が思わしくなく、先週、静岡の実家に行ってきた。

 

頸椎から足を痛め、杖を使っていた母が、いよいよそれでも歩くのが困難になり、車椅子と介護ベッド、家の各所に手摺を導入することに。

 

先行して弟が行ってくれていたが、交代で私が4日間。初日は夫も来てくれて、キッチンのシンク周りを磨くなど、一生懸命協力してくれた。

 

私も母の通院に同行する他、2階のトイレを掃除したり、網戸と窓を拭いたり、洗面所やバスルーム、キッチンの排水口を掃除したり。長い間、放っておかれたようだった。あの綺麗好きな母がこの状態を許してしまうほど動けなくなっていたとは、と、こみ上げるものがあった。

 

父は以前は全く家事をしなかったが、母の足が悪くなってから、買い物や洗濯もの干しなど、進んでしてくれるようになったようだ。簡単な食事作りもできるようになっている。家事力が上がったのは素晴らしいことだが、やはり掃除系は後回しらしい。

 

近くに住んでいたら、毎日のように手伝いに来られるのに・・・

 

考えても仕方のないことを、つい考えてしまう。弟も私も遠方に住んでいて、駆け付けるにしても3~4時間はかかるのだった。

 

私は静岡県清水市(今は合併して静岡市)で生まれた。しかし、父が転勤族だったため、清水に住んだのは生まれてからの数年と、小学校2年の秋から5年の秋まで。だから、この町は父母にとってはふるさとでも、私にとっては「生まれた町」「住んだことのある町」としか言えない。

 

父は私が結婚した後、定年を迎え、清水に家を建てた。つまり、父母の住む今の家に私は住んだことがない。遊びに行くだけだった。

 

でも、娘たちが小さい頃は、年に数回家族で訪れた家。お世話になった家。

 

だから、愛情と感謝を込めて、話しかけるように掃除をしてきた。そして、父と母を守ってねと、お願いをしてきた。

 

子ども時代は引っ越しが多くて、私は幼稚園3つ、小学校4つに在籍した。清水は一番長く小学生をやった町だ。努めて目立たないようにしていた転校生だった私だが、自宅周辺ではノビノビと遊んでいた記憶がある。富士山を、日常的に仰ぎ見て暮らしていたあの頃。

 

清水滞在の2日目の夕方。一人で買い物に出た私は、父から指定されたそのスーパーが、昔住んでいた場所に近いことに気づき、遠回りして懐かしい町を歩くことにした。

 

目立ったのはコンビニ、ドラッグストア・・・もちろん半世紀前にはない。笑

 

はじめのうちは、まるで知らない町になってしまったとガッカリした。でも、懐かしい八幡神社、稲荷神社はそのままだった。学校帰りの寄り道コースだった細い道も、まだ残っていた。

 

メリーポピンズみたいに飛べないかなと、傘を広げて飛び降りた石垣もそのまま。足首を痛めたっけ。笹舟を作って流した側溝には、蓋がしてあった。初めて鬼ボウフラを見て、その動きに見入っていたドブはこのあたりだったかな。変なことばかり思い出す。

 

曲がりくねった道だが、迷いなく歩くことができた。覚えているものだね。ミッション系保育園の十字架の塔は、今も目印になる。従妹が住んでいた集合住宅もまだ残っていて驚いた。築60年くらいになるんじゃないかな?

 

あいにくの曇り空で富士山は拝めなかったけれど、短い散策の間中、沈丁花の香りがあちらこちらから漂ってきた。

 

翌日の昼。母が大根のおでんが食べたいと言うので、父が「次郎長通りに買いに行こう」と私を誘った。美味しいお店があるらしい。アシスト付き自転車2台で、またまた懐かしいエリアへ。

 

「ここが橘寮があったとこだ」

 

自転車で前を行く父が右手で示す。一瞬で通り過ぎたが、そうか、ここだったんだ、私が住んでいたのはと、耳のあたりが熱くなった。もう跡形もなかったけど。

 

南岡町の橘寮。公務員だった父が、出張者を泊める寮に、一時期、管理者を兼ねて家族と住んでいた寮の名前だ。子どもの私にはとにかく広くて、部屋数が多くて、芝生の庭があって、こんな大きな家に住めるなんて嬉しいな、と単純に喜んでいたっけ。

 

当時は町中が塀でつながっていたように覚えている。私は猫のように塀の上を歩き、隣町までだって探検した(ように思う)。そして、猫がたくさんいる「バインジ」がお気に入りの場所だった。

 

それが「梅蔭寺」であり、清水次郎長菩提寺である「梅蔭禅寺」のことだったと知るのは、転校して清水を離れてからのことだ。

 

梅蔭禅寺、次郎長通り。私は次郎長親分のゆかりの町で、3年ほど暮らしていたんだね。

 

清水次郎長(しみずのじろちょう)。
幕末の博徒で、海道一の大親分と呼ばれたことで知られる。侠客、いわゆるヤクザさんなんだけど、清水のヒーローだ。何故?

 

侠客であるものの幕末の混乱期に地域の治安を守る自警団を担い、戊辰戦争で官軍の先鋒を務めながら敵軍の戦死者を手厚く弔ったりし、山岡鉄舟榎本武揚の知己を受ける。後に私財を投じて、富士の裾野の開墾や船会社の創設に尽力するなど、地元に貢献。

 

ざっくりと調べてみると、そんな名士像が浮かび上がる。でも、きっと大政小政や森の石松などの子分を従えて暴れまわってた頃の武勇伝、多くの人に慕われる人柄や、奥さんとの人間臭い逸話などが講談や浪曲の題材になり、義理人情に篤い「清水一家」の物語が、清水の人たちにとってご当地自慢のひとつになっていったのではないだろうか。

 

Wikipediaによると、任侠(にんきょう、任俠)とは本来、仁義を重んじ、困っていたり苦しんでいたりする人を見ると放っておけず、彼らを助けるために体を張る自己犠牲的精神や人の性質を指す語。とある。まさに、任侠の人だったのだろう。

 

ふと、父やその兄弟の顔が浮かぶ。それぞれ堅い仕事をしていたが、子ども時代は近所で知らぬ者はいない悪ガキ兄弟だったと、いろいろな人から聞かされた。すこぶる喧嘩が強かったらしいが、"強きを挫き弱きを助く"連中だったと。あらま、任侠精神?

 

もしかしたら次郎長親分、天国からうちの父たちを面白がって眺めてくれていたかもしれない。そんな考えが浮かび、少し楽しくなる。ついでに、梅蔭寺で猫と遊んでいた、友達の少ない小学生の女の子のことも、見守ってくれていたかなあ。

 

このエリアで最も大きい商店街、次郎長通りは、梅蔭寺から少し清水港寄りの場所にある。おでんを買った「梅の家」近くには、次郎長生家が残っている。

 

食が細くなっていた母が、この日はよく食べてくれて、夕方たくさんおしゃべりすることもできた。足をマッサージしてあげたら、すごく喜んでくれた。

 

運動が得意だった母。足が悪くなっても、自転車に乗ればさっそうと遠くまで出かけられた母。動けなくなってどんなに悔しいだろう。もうこのまま・・もしかしたらもうこのまま、どんどん動けなくなってしまうのだろうか。好きだったいろいろなことを、諦めていくしかないのだろうか。

 

口数が少なくなっている母。笑いながらしゃべってくれたのは束の間で、また悲観の思考に沈んでいく。そして、父はそんな母を支え続ける自信をなくし始めている。父のメンタルもとても心配だ。

 

清水を去る最後の日。玄関先を掃いた後、私は庭のオリーブの木から一枝切り取った。新聞紙に包み、自宅に持ち帰ろうと。何故、そんなことを思いついたのかわからない。あの家で生きているものをひとつ、自分のそばに置いておきたかったのかも。

 

後ろ髪を引かれる思いで帰ってきて、1週間がたつ。今日はまた弟が向こうに出向いてくれている。手摺の設置の立ち合いと、介護支援専門員との話し合いのために。

 

いよいよ、介護の新たなステップを上る。行政と介護のプロの力を借りて、遠距離で親を看ていくステップだ。自分の無力が情けないけど、今できることからやっていくしかない、と思う。

 

父が弱っていることも辛かった。去年、私を怒鳴ったあの勢いはない。よく衝突してしまう父と私。父は私が嫌いなのかなと思ったこともあったのだけど、帰り際に見えた父の携帯電話の待ち受けは、私の写真だった。胸が詰まった。

 

親分。次郎長親分。南岡町にいたつきかなです。
どうか父と母を見守っていてください。

 

今朝、WHOが新型コロナウイルスパンデミックと認めた。世の中はどうなってしまうのか。希望がほしいと、切に思う。できるだけ、笑顔でいよう。

 

どんな状況にあっても、幸せな気持ちでいられることを諦めたくない。

 

 

ブログをお読みいただきありがとうございます。ゆっくりペースで続けてきましたが、この記事がようやく100本目となるようです。200本目に向かって、今後もマイペースで(もう少し頻度はあげたいですが)書いていこうと思っております。引き続きお立ち寄りいただけますと幸いです(*^-^*)