一筋の光、降り注ぐ光。

人生はなかなかに試練が多くて。7回転んでも8回起き上がるために、私に力をくれたモノたちを記録します。

<当ブログではアフィリエイト広告を利用しています>


50'sの恋人たち―母の青春時代

f:id:tsukikana:20200612164313j:plain

 

私の知っている母は、当然ながら私がもの心ついてからの人物で、それ以前は未知の人だ。若き日の母は、古いアルバムの中でしか知らず、それは子どもの私にとってすでにセピア色だった。

 

少女の頃、私は、母によく若い頃の話をしてほしいとねだった。どんな女の子だったの?

 

中学・高校時代はソフトボールの選手で、セカンドを守っていたこと。高校卒業後は、幼稚園の先生をしていたこと。洋裁学校に通い、服を作っていたこと。フォークダンスや社交ダンスが得意だったこと。

 

父とはそのダンスを通じて高校生のときに知り合い、長くグループ交際をしていたのだとか。父との馴れ初めを話すときの母の表情を、今も思い出す。少し照れたような、でもちょっと誇らしいような。

 

私が高1くらいだっただろうか。ファッション雑誌で1950年代の特集を読み、母の青春時代の服装がとても素敵だと思った。

 

ウエストを絞ったサーキュラースカート。オードリー・ヘプバーンの映画で大流行したサブリナパンツ。大きなボタンが付いたコート。母のアルバムを開いては、この服カワイイ!と興奮していた。

 

同じ頃、オールディーズや、それに合わせて踊るジルバやツイストなども好きになり、ダンスが得意な両親に手ほどきを受けもした。

 

父母が青春時代を送った50年代。
「タイムスリップして行ってみたいな!」

 

そんな憧れも、20歳で家を出て上京してからは、私自身の青春のひとつの記憶として、遠くセピア色になっていった。

 


3月は10日間、4月は7日間。
私が清水に滞在した日数だ。こんなに頻繁に、実家に帰ったことはかつてなかった。自粛要請中だったが、不要不急の用件ではなかったため許してほしい。

 

母は、急性期病院を4月6日に退院し、5日間の自宅療養期間を経て、4月10日に療養型病院に入院した。そして、5月28日、帰らぬ人となった。享年85歳。

 

新型コロナウイルスのためにできなかったこと。

遠距離移動の制限のため、5月は母が亡くなる日まで、私も弟も清水に行けなかった。
病院のある清水に暮らす父でさえ、感染対策のため母を見舞うことが許されなかった。
基礎疾患のある高齢者の参列が多い葬儀になるため、母がこよなく愛した孫たちも、他府県からの参列を自粛する他なかった。首都圏に暮らす弟や妹や姪たちも、ニューヨークの妹やオーストラリアの甥も、もちろん来られなかった。

 

仕方がないことなのだけど、とても悔しい。でも、私の悔しさなど霞んでしまうほど、父の無念さ、やりきれなさは、激しかった。

 

丘の上に建つ療養型病院に、父は頻繁に出向いていた。会えないと知っていても、手紙や差し入れを届け、看護師さんに母の様子を聞いていた。きっといつも病院の下から、母の病室の窓を見上げていたのではないだろうか。

 

手紙の返事が、父のもとに舞い込んだ。母が話す内容を、病院の作業療法士さんが代筆してくださったのだ。親切で優しい人たちが母の周りにいてくれて、本当にありがたいと思った。

 

でも、その手紙には「どうか一日も早く私をここから連れ帰ってください」という母の言葉が。父はどんなに辛かっただろう。

 

5月になって、病院のロビーと病室をつないでタブレット面会ができるようになった。予約を入れなければならないし、時間も10分程度なのだけど、父は喜んで伯母(父の兄嫁)と出掛けた。しかし、画面越しに見る、車椅子にすら座れずベッドに横たわる母の弱々しい姿に、茫然としたと言う。

 

5月18日、薬を誤嚥した母は発熱し、血中酸素濃度が著しく低下。酸素吸入と点滴治療が始まり、翌日、父は病院へ。医師の説明を受け、その後医師の計らいで数分だけ母に直接会うことができた。そのときは会話や握手もでき、父の顔を見た母は、顔色が良くなったようだと、担当の看護師さんに言われたそうだ。心配しながらも、父は会えたことを喜んだ。

 

「やっぱり、会って励ませば違うんだよ。家族に会えないことが一番、病人にはこたえるんだ」

 

父からはほぼ毎日、電話があった。病院からの報告に一喜一憂し、覚悟はしているが奇跡が起きてくれるかも、そうだったらどんなに嬉しいかと話し、私を切なくさせた。

 

父と伯母は22日にまたタブレット面会ができたが、そのときはちょっと手を振っただけでとても反応が悪かったそうだ。今度は比較的意識がしっかりしている時間帯に予約を入れましょうと、看護師さんに言われたらしい。

 

26日に病院に電話をした父は、微熱が続き、まだ酸素吸入と点滴がはずせない母を心配し、再度、「直接会いたい」と申し出る。医師から承諾を得た27日、数分間の面会をするが母は反応がなく、そんな母を見ているのがとても辛かったと父。

 

そして、28日。夜間看護しやすい病室へ移動したと病院から連絡。ほどなく危篤を知らせる電話があり・・・

 

間に合わなかった。私も弟も、父さえも、母の最期に間に合わなかった。

 

6月に入ればもう、県をまたいでの移動もきっと緩くなるよねと言っていたのに。5日に弟と病院を訪れ、医師の説明を受ける予定を立て、その折には直接、母に会わせてもらえる手筈になっていたのに。

 

待っていてほしかったよ、お母さん。

 

取る物も取り敢えず清水に駆け付けたけど、母はもう、病院から自宅に帰っていた。冷たい、からだ。でも、眠っているようにしか、見えなかった・・・

 

おかえりなさい。
ようやく、家に帰ってこられたね。
寂しかったね。
ずっと、誰にも会えなくて、どんなに寂しかっただろうね。
ごめんね。もっと何かできたかもしれないのに。
でも、おかあさん、本当によく頑張ったね。
さすが、西高セカンド。根性見せたね。
かっこいいよ、お母さん。

 

もう、痛みから解放されたんだね。
人工膀胱の、パウチ装着の不自由さからも。
歩けない辛さからも。
お父さんに会えない寂しさからも・・・

 

でもお母さん、寂しいよ、私。
まだ信じられない。
どうしたらいいの?


末期癌でステージ4と聞いた瞬間から、この日が遠くないことを覚悟していたけれど、父と毎日電話で話しているうちに、本当に奇跡が起きるのではないか、そうだったらどんなに嬉しいだろうと、どこかで期待している自分がいたのだった。本気で祈っていたのだった。
ああ、馬鹿げているのだろうか。

 

葬儀会社との打ち合わせ、電話や来客対応、食事作りや洗濯、掃除、お通夜、お葬式と、寝る間もないような日が続き、夫や弟夫婦が帰ってからも父のそばでしばらく過ごし、清水には9日間滞在した。父が時折見せる、激しい悲しみとやるせなさを共有しながら。

 

それから1週間がたつが、本当の喪失感はきっと、これから襲ってくるに違いない。寂しがり屋の父は、毎日のように電話してくる。来週、また清水に行く予定だ。

 


梅雨に入った。今の気がかりはもちろん父だけど、雨を眺めながら、気が付けば母のことばかり、ぼんやり考えている私。

 

特にあの5日間。自宅療養期間の。
ようやく退院できて喜んでいる母に、すぐまた別の病院に入院するのだということを告げなければならず、どう切り出せばいいのか模索する、とても重たい気持ちの5日間だった。

 

それに、あの期間もすごく忙しかった。毎日訪問看護師さんやヘルパーさんが来てくれて、契約書を取り交わしたり指示に従って動いたり。お見舞いに来てくださる方も多く、来客対応しながら要介護5の母の介護、食事や薬のお世話をしつつ家事もして、目が回りそうだった。

 

でも、あの日々、私は幸せだったのだ。夕刻のほんのひととき、父が仮眠を取っている間、ベッドの母とふたりきりで過ごす少し落ち着いた温かな時間が、とても幸せだった。

 

ようやく母のために何かをしてあげられている実感が持てたことと、なんというか、母を初めて独り占めできたような気がして。

 

「お母さん、大好きだよ」

 

夕暮れの、障子を通した幻想的な光の中で、手をつないだ母に、何回もそう言うことができた。小さな声で母も言ってくれた。

 

「私もよ。大好きよ」

 

急性期病院に入院中のときの、あるシーンについても何度も思い出す。日記を見ると、3月18日。ベッドに横たわる母の手を擦っていたら

 

「あんたの手、あったかいねえ」

 

と弱々しく私の手を握った母。そのまま、手を離さないままでウトウトと眠りに入っていった。その安心しきったような寝顔。

 

神様、どうかまだ母を連れていかないでくださいと祈りながら、私は母を失いかけている恐ろしさと共に、母を得た幸せをも感じるという、不思議な経験をしていた。

 


雨が降り続く。
私はスマホを手に取るが、清水で撮ってきた写真ばかりを繰り返し見ている自分に気づく。SNSももう何日、覗いていないことか。

 

少しずつ、ゆっくりと自分のペースで、日常を取り戻していけばいいよね。
雨を見る。心はまた、母に戻っていく。

 

弱っていく日々、母は病院のベッドでどんなことを考えていたのだろう。どんなことを思い出していたのだろう。

 

なんとなくだけど、母は父との恋愛時代を思い出していたような気がする。ウエストをキュッと絞った裾広がりのスカートをはいて、父とダンスを踊っていた、笑顔輝く青春の頃を。きっとそうだ。そうだといいな。

 

娘としては、子育て時代を思い出してほしい気もするが、今の父を見ていると、もう永遠に恋人同士でいなさいよと、言ってあげたくなる。

 

ワンマンで数えきれないほどあなたを苦しめてきたお父さんだけど、あなたを失ってこんなに悲しみ、出会った頃のエピソードを何回も、娘の私に聞かせてくれているよ。女の子たちの中で、あなたが一番可愛かったそうよ。

 

丘の上のあの病院に通い続けたお父さん。たとえあなたに会えなくても、そばに行きたくて通っていたんだよ。

 

そんなお父さんを、どうかずっと見守って、これからも愛し続けてあげてね。
お願いよ、お母さん。私の大好きなお母さん。

 


 天に在らば願はくは比翼の鳥、地に在らば願はくは連理の枝とならん
     ――――白居易『長恨歌』より