清水の実家にはお仏壇がない。理由は聞いていないが、父は次男だし、結婚してからは転勤族となり、引っ越してばかりだったから、だと思う。薄給の公務員だったし。
ただ、父の家の先祖代々の霊を祀る紙と、母のお父さん(私の祖父)の戒名を書いた紙(紙位牌?)が貼られた木箱(多分みかん箱)が家にはあり、香炉とりん、花立、燭台など、小さな仏具も備えていた。
我が家ではそれを「のーのさん」と呼んでおり、私も時々はお線香をあげていた。受験の日の朝とかね。「のーのさん」は父が清水に家を建ててからも、そのまま和室に置かれていた。
最近になって知ったのだが、母は生まれた赤ちゃんの夜泣きに悩み、この「のーのさん」をこしらえて、祈り始めたそうだ。生まれた赤ちゃん・・・私か!!
母が亡くなり葬儀を終えて、私は少しの間、清水に残った。葬儀社が実家に設置した簡易祭壇には、母の遺影とお骨に加え、「のーのさん」にあった小さな仏具たちも並んだ。傍らには花があふれるほど置かれ、果物、お菓子、弔電に添えられたプリザーブドフラワー・フレームもお供えされ、私の刺しゅうや薔薇のポストカードも飾ってもらった。
綺麗で賑やかで、まるで三段飾りのお雛様みたいだと思った。遺影の母は明るい色の服を着て微笑みをたたえている。この可愛らしい祭壇に満足しているように、私には見えた。
親戚や父母のお友達。ご近所の皆さん。たくさんの方に、良い遺影を選んだねと、褒めていただき嬉しい。
そう、この微笑みはとても良い。少しソフトフォーカスで表情が曖昧なのも功を奏して、話し掛ける度に、様々な返答をしてくれるように見えるのだ。
清水の実家では、一日に何度もこの祭壇の前に座り、母に話し掛けていた。そこにいると少しだけ悲しみが和らぎ、心が落ち着いたのだ。それは写真の母が、必ず返事をしてくれるように感じたからだった。
「うん、うん。いいよ。わかってるよ」
「悪いねえ。迷惑かけてるねえ」
「あんた疲れたでしょう。2階に行って休んでおいで」
「大丈夫だから。あんまり心配しなさんな」
母と会話する場所が、私の家にも欲しい。そう思って、自宅に帰ってから、小さいサイズに焼き増ししてもらった遺影をフォトフレームに入れ、最初は本棚の上に置いてみた。花も添えたけど、少し寂しい気がした。
やがて、お線香代わりにと、お香を買って焚いてみた。初お香。実はお香には苦手意識があって、それは、かつて入ったアジアンな雑貨屋さんで焚かれていたものが、私には強烈な匂いだったことに由来する。
ところが、私が買ったお香は刺激も少なく、とても上品な良い香り。最初はコーン型のものを焚いていたが、すぐにスティック型も購入。ちょっと洒落たインセンススタンドに立てて、毎日香りを楽しんでいる。あれ、お線香代わりとか言ってたのに、これってお線香だ。
ちなみに、私が買ったのは日本香道の「かゆらぎ」シリーズ。百貨店に入っているショップで薦められた「藤」のコーンが気に入って、次にネットで「薔薇」のスティックを購入。他にも「石榴」や「金木犀」「桜」「茉莉花」など、試してみたい香りがいろいろあり、多分これからも買ってしまうだろう。笑
そんな風にお香も焚かれ、高低差をつけるために小さな台も置かれ、ロウソクならぬキャンドルも添えられた母の遺影のコーナー。フォトフレームは白でパールが散りばめられているし、傍らに今はひまわりの明るい花が飾られている。
母には仏壇ぽい感じよりも似合うんじゃないかな、と、どんどん明るく可愛いコーナーに育っていくけど、大丈夫かな。きっと眉をひそめる人もいるだろう。でも、私の祈りの場所なので、好きにさせてもらおう。
母は、どう思っているだろう。呆れているような喜んでいるような、微妙な笑顔だ。私はやっぱり、この笑顔が好き。本当にこの写真を選んで良かった!
遺影を選んだあの晩、母に「ありがとう」と言われた気がした。その後も、母はたくさんの「ありがとう」を私に言ってくれている。
棺を選ぶとき。白ではなく、薄桃色に品の良い柄が入ったものにしてもらった。副葬品に、母の好きだったフラダンスの衣装を加えたのだけど、母の体にそっと掛けてもらうドレスは、淡い藤色の上品なものに。真っ赤なドレスは畳んで足元に置いた。
親戚やお友達が、さいごのお別れを言いに棺の中の母を見てくださる。そのときの母には綺麗であってほしいし、母もそう望んでいるはず。
だから、湯灌のときも、シャンプー・シャワーの後のお化粧や髪形もきちんとオーダーした。特に眉は、母がいつも気にしていた部分だから、どうか形よく描いてあげてください、と。ヘアスタイルも、薄毛に悩んでいたからドライヤーでふっくら仕上げてあげてください、とも。
ねえ、お母さん、私、よくやったでしょう?ちょっと褒めてほしいなぁ。
葬儀で流すスライドショーの写真も、弟と一緒に選んだ。葬儀社の担当氏からはMAX20枚と言われていた。真剣になる。
アルバムをめくっていると、伯母たちが次々にのぞき込んで話し込み、前のページに戻ってなかなか進まないし、時間もない中で焦って大変だったけど(笑)、若き日の母の姿を見るのは楽しかったし、伯母たちの話す昔の母の様子も興味深かった。辛いというより、あのときは、うん、むしろ愉快で。
そして、プロに大変素敵なスライドショーに仕上げてもらったのだった。素敵過ぎて、当日は号泣してしまった。会場で、すすり泣きの声があちこちから。アメージンググレイスに乗せた5分ちょっとのスライドショーは、とても甘くロマンティックだった。そのとき、母の「おつかれさま。ありがとう」が聞こえてきた。
ピアニストさんには、童謡や唱歌を弾いてくださいとお願いしていた。母は昔から歌うことが好きで、コーラスのグループに所属したり、晩年は歌声喫茶によく行っていた。流行歌も歌っていたが、一番好きなのは唱歌だったようだ。
『花』
『故郷』
『朧月夜』
『春の小川』
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葬儀の後、母の親友がピアニストさんにお礼を言いに行ったそうだ。
「彼女の好きな曲ばかり、弾いてくださってありがとう。涙が出たわ」
と。
母はきっと喜んでくれたよね。そしてきっと、母も一緒に歌っていたよね。
コロナ騒動の渦中でもあり、親戚と限られたお友達だけの、ほぼ家族葬のような温かで小規模のお通夜とお葬式だった。そのため、後日、生前お世話になった方に父が訃報の電話をかけ、場合によっては私も電話を替わった。
そのうちのひとつの電話は、母が最期を迎えた療養型病院。いつも優しく仲良くしてくれていたという作業療法士のIさんにつないでもらった。
この方は、父が出す手紙に返事を書けなかった母のために、母の話すことを代筆して手紙を出してくださったのだ。それも2回。
私は感動して、Iさん宛てにお礼の手紙を出した。もちろん、お返事無用と書いて、お礼のみ。負担をかけてはいけないからね。
ただ、母は歌が好きだということ。母のバッグにそっと歌集を忍ばせてあるので、可能ならば母の手の届く所に置いていただきたいという旨を、遠慮がちに書き添えたのだった。
直接話したことのないIさんは、どんな方なのだろう。母が好きになる人だから、きっと物腰の柔らかい可愛らしい感じの人だろうな、と思っていた。
果たして、電話に出てくれた彼女は、その通りの印象だった。ただ、涙声になってる?
お手紙ありがとうございました。
どんなに嬉しかったか。一生私の宝物です。
アヤコさん(母の名前)と過ごす時間が、いつも楽しみでした。
素敵な毎日でした。
本当に素敵な方でした。
お優しくて、いつも私の方が癒してもらっていました。
そんな風に話してくれて、私も声が震えてしまった。お母さん、さすがだ。
「ありがとうございます。歌は・・・歌集は見てましたか?」
ええ!一緒に歌ってくれたんですよ。
歌集の中から、
『浜辺の歌』と『みかんの花咲く丘』を。
「いいお声ですね」と言ったら
笑ってくれたんです。
「また来週も歌いましょうね」と言っていたのに。
日ごとに、だんだん反応がなくなってしまって・・・
母の残り僅かな時間を、優しく見守ってくれていたIさんに、もっと母の話を聞きたかった。でも、胸がいっぱいになってしまい、それ以上は難しかった。
ありがとう。Iさん。
そして、母を癒してくれた歌たち。
『浜辺の歌』。
それは、母が丘の上の療養型病院に入院する前日、自宅ベッドに私と並んで腰かけて、一緒に歌った曲だ。父も、ちょうど買い物から帰ってきた弟も、一緒になって歌った。母は病院で、その歌を選んだのだ。
そして、今生最期に歌ったのは『みかんの花咲く丘』。
私も大好きなこの歌は、母が昔から、そう、私の幼い頃から、よく台所で歌っていた曲。三拍子で、聞いていると自然と首を左右に振ってしまう優しいメロディ。伊豆の海をイメージして詩が付けられたと聞いたことがある。
病床の母に一度、「お母さんは死ぬのが怖くないの?」と訊ねたことがあった。
あのとき、「全然」と答えた母。
「向こうで待ってくれてる人が増えたから?おばあちゃんに会えるから?」と私は重ねた。
「そうね」と母は遠い目をして微笑んだ。
母は、優しい祖母に、もう会えただろうか。
みかんの花が 咲いている
思い出の道 丘の道
はるかに見える 青い海
お船がとおく 霞んでる
黒い煙を はきながら
お船はどこへ 行くのでしょう
波に揺られて 島のかげ
汽笛がぼうと 鳴りました
何時か来た丘 母さんと
一緒に眺めた あの島よ
今日もひとりで 見ていると
やさしい母さん 思われる
(作詞:加藤省吾 作曲:海沼実)