母が亡くなり、清水の実家には父ひとりになった。威張りん坊だった父がものすごくしょげかえってしまい、見ていられない。父には反発することが多く、度々反抗的な態度をとってきた私だったが、最近は本当に父に優しくしている。可哀相すぎて・・・
区役所や年金事務所に出向いての各種手続き(本当にやることが多い!高齢化社会ではもっと簡素化すべき!)をサポートしたり、新盆(清水は7月盆)の来客対応などを手伝ったり、家の火災保険の新規契約に立ち会ったり。7月に入ってからも、清水通いは続いている。年を取り、事務処理能力にすっかり自信を失っている父を励ますのも、私の大きな仕事のひとつだ。
本当は、母の遺品の整理もそろそろ始めたい。それ以前に、実家に大量に溜めこまれている不要なガラクタたちを、少しでも処分したい。いつも、そう思って清水に行くのに、全然手を付けられずに帰って来る。父が抵抗するからだ。
「片付けなきゃいかんなあ。わかっちゃいるんだが」
父は辛そうにうなだれる。2月まで母はここで普通に暮らしていた。3月になって歩けなくなり、坂道を転がり落ちるように加速度がついて容体は悪化していった。そんな母が、振り返ればまだそこにいるようで、父は母のものに手が付けられずにいる。
例えば下着類などは、誰ももらってくれないことはわかっているから、一番処分しやすいかと思っていた。しかし父は、引き出しをあけると、母が丁寧に畳んでいた様子が思い出されて、その思い出で動けなくなるのだと言う。
「見てみろよ。こんなに綺麗に畳んであるんだ。足が痛くて苦しんでいたのに、一生懸命丁寧にやってたんだよ。『そんなの適当にしておけよ。俺がやっとくよ』って言ってやったのに、お父さんが畳むの下手だから、自分でやったんだ」
リアルに目に浮かび、泣き笑いになる。父に下着を畳まれるのは嫌だったんだろう、母は。そして、四十九日が過ぎたとはいえ、父の心の傷口からは、今も生々しく出血が続いている。
「お父さん、無理してお母さんのものを処分しなくていいよ、まだ無理だよ。もっと時間が必要なんだよ。『捨てる』っていう行為が嫌なら、私が持って帰ってうちで処分してもいいよ」
そう言ってみたが、それすらもう少し考えたいみたい。目に入ってくれば辛いくせに、なくなるのも嫌なのかもしれない。
実家ではあるものの、私はここで暮らしたことはない。だから、どこに何があるかよく知らなかった。母がいたときは、あちこち見ることに遠慮もあったし。
それでも、この家のモノの多さには気づいていた。古い家具も雑貨も食器も、服も靴もバッグも。どうしてこんなモノをずーっととっておくんだろうと、首を傾げることも多かった。私が幼稚園のときに使っていたアルミのお弁当箱まである。いらんでしょ。
そういえば、母も片付けたがっていたっけ。なかなか手が付けられないと言っていた。母が生きているうちに、断捨離を手伝ってあげておけば良かったな。
母が亡くなり、各種手続きに必要なものを探すために、家のあちこちの扉や引き出しを開けることになって、こんなのとっくに捨てられているべきでしょう?と呆れてしまうようなモノが、思ってた以上に溢れていることを知った。そして、そんなモノですら今の父には捨てられないだろうなと、痛みを伴って実感したのだ。
実は、父だけではない。私がいつも泊まる2階の和室には、母の嫁入り道具の三面鏡がある。多分、30年使っていない。母はこの家ではいつも、洗面所でお化粧をしていたから。
でもその三面鏡は、私には思い出があり過ぎる。子どもの頃、毎朝この鏡の前で、母が私の髪を結んだり編んだりしてくれた。若かった母が口紅を引くのを、横からうっとりと眺めていた。
うわあ、これ、手放せるかな、私に・・・
多分、父にはそんなモノばかりなのだろう。普段使わないものを溜め込んでいる2階の洋室は、本当は断捨離の候補の山だったはずなのに、今では思い出の宝庫となってしまった。私は何度もこの部屋に入ったが、毎回諦めて下に降りてきた。
実家の片付けは、難しい。自分の住む家の断捨離だって難しいのに、両親の思い出の品々を、古いとか、もう役に立たないとかの理由で、強引に処分するなんてできない。時間をかけて少しずつ、やっていくしかないのかな。
ただ、ひとり暮らしとなった父が、母との思い出の中に浸るだけの家にはしたくない、という気持ちがあって。家も、そう望んでいる気がして。
ちょっとずつだけど家事能力が上がってきている父が、日常生活をする上で動きやすいように、父の動線に合わせて部屋の模様替えをしてみたり、キッチンの道具の配置を変えてみたり、そんな提案をしていけたら、と思う。それなら手伝っていても楽しいし。不用品にサヨナラを言うチャンスも訪れるかも。
住まいは、人が動くことで呼吸をして生きているような気がする。そして、生きたがっているように感じる。
父にはまだまだ元気でいてほしい。母とふたりで暮らしてきた愛する住まいで、まだまだ動き回っていてほしい。少しずつ、少しずつ、新しい風を入れながら。
実家に行った折は、普段できていない掃除を中心に家のこともしてくる。キッチンや洗面所をピカピカに磨いてあげるのだけど、賞味期限がとっくに切れてる乾物や、開封されて半分飛び出していた滅菌ガーゼなどをこっそり捨てることも。捨てられるもの、これだけ?と我ながら可笑しくなる。それでもちょっとはスッキリする。
できるだけ清潔に、清々しい気持ちで暮らしたい。でも、掃除はあまり得意ではないし、苦手意識もある。モノが多いとメンテナンスもその分増えるし、ホコリは容赦なく降り積もる。気になりだすとあちこち拭きまくったり、洗ったり磨いたり。で、一日が終わってしまう。他のことが何もできなくなってしまう。
だから私は、モノは最小限に抑えたいし、好きでないモノは手放していきたい。それが私にとっての「断捨離」だ。そこは、ブレないでいたい。
ただ、それはあくまでも“私にとって”、だから。
父の家は父のものだ。父の気持ちが最優先。つい自分の論理を振りかざして手伝いたくなってしまうけれど、その衝動は控えよう。父のタイミングに合わせよう。心が辛くなる断捨離はしてはいけない。
「エアコンやテレビのつけっぱなしなんて、全然気にしなくていいけど、火の元と戸締りだけは気を付けてね」
毎回、そんな言葉を残して私は清水の実家を後にする。姿が見えなくなるまで見送ってくれる父に、振り返って何度も手を振る。手を振り返す父の姿はいつも寂しそうで、とても切なくなる。
「後ろ髪ひかれる思いをせずに帰れる日が、いつかは来るのでしょうか」
最寄り駅の手前。足を止めて、梅雨空の向こうにあるはずの富士山に、父を残して帰る後ろめたさや不安な思いを打ち明けた。
・・・もちろん、空の上の母にも。
「見守っていてね、お母さん」
今日は母の2回目の月命日。
あの日から、2か月がたつ。