一筋の光、降り注ぐ光。

人生はなかなかに試練が多くて。7回転んでも8回起き上がるために、私に力をくれたモノたちを記録します。

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父とふたりで、母の思い出のレストランへ

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久しぶりに、ハンカチにアイロンをかけた。

 

え。何年ぶりだろう。
昔は家族4人分のハンカチに、毎日のようにせっせとアイロンをかけたものだった。夫がパイル地のハンカチを愛用するようになって以来、我が家ではアイロンの必要なハンカチは日の目を見なくなっている。

 

いつからか、ハンカチの必要なシーンも減った。
商業施設でも、駅やサービスエリアでも、トイレには手を乾かしてくれるハンドドライヤーが、普通に装備されてきて。

 

もっとも最近はコロナのため使えないようにされていて、またハンカチが活躍しているが、それはダブルガーゼやパイル地の、アイロンをかけなくて済むハンカチだ。

 

綿ブロードの大きなハンカチにアイロンをかけるのは、正直言って面倒だった私。でも、パキッと四隅の角が際立ち、大小のしわが伸びて、生き返ったようにカッコよくなった姿を見るのは好きだった。

 

昨日、アイロンをかけたハンカチは、母のもの。先週、また清水の実家に行って、諸々父の手伝いをしてきた折、帰りにもらってきた、言わば“母の形見”のひとつ。ちょっとしたエピソードのある品だったので、持ち帰って洗い、アイロンをかけた。

 

母は昔からハンカチが好きで、出先で気に入った柄を見つけるとすぐに買っていた。人からもよくもらっていたし、あげてもいた。私もこれまで何枚も母からハンカチをもらった。新品のまま引き出しの奥に眠っているものもいくつか。

 

「なんで、そこまでハンカチが好きだったんだろうね」
と、父と笑ってしまうほど、あの家には母の膨大なハンカチコレクションがある。

 

宝石とか香水とかには、まるで興味がなかった母。でも、ハンカチには目がなくて。特別な思い入れでもあったのだろうか。今となっては知るすべもないのだけれど。

 

「お金のかからない趣味で助かったね、お父さん」
と父を見れば、苦笑しながらも頷いている。懐かしそうに遠くを見る目をした父は、ふと私を見て、こう言った。

 

「どうだ。カレー、食べに行くか?」

 

父は、母が結婚前に母の父(私の祖父)と時々訪れていたという、老舗のレストランに私を誘ったのだった。母の写真も連れて行こう、と嬉しそうだ。

 

父と母の結婚前に、母方の祖父は病気で亡くなった。だから、私は祖父に会ったことがない。どんな人だったか、母からも聞いたことはなかった。

 

そもそも母は、自分の家族のことをあまり私に話さなかった。9人兄弟の三女で、戦時中、空襲のときに末の妹を背負って逃げた話だけは別。それは、とてもよく覚えているけれど。

 

炎に包まれた町を走り、妹を背負ったまま用水路に落ちて、もうこのままふたりして死ぬんだと思ったとき、見知らぬおじさんが引き上げて助けてくれたと。映像が目に浮かぶくらい、リアルに教えてくれた。母がまだ、10歳のとき。多分、私が同じ年の頃、繰り返し話してくれたのだと思う。

 

でも、その話くらいかな、強く印象に残っているのは。件の末の妹のことを、母は最期までとても愛していた。家も近いので、ずっと仲良しだったようだ。私も一番親しい叔母として、昔も今も大好き。

 


「お母さんのお父さんって、どんな人だったの?」

 

母の大切な思い出の店で、その店の看板メニューであるカレーを待ちながら、私は父に聞いてみた。父も、母との交際中に数度会っただけだから、あまりよく知らないのかもしれない。

 

「真面目だけど、なかなか面白いところもある人だった」

 

なんじゃそりゃ。イメージがまるで掴めない。笑

 

終戦までは職業軍人だったと聞いていた。戦後は、地元の大手の企業で働いていたそうだ。空襲で全焼した家をちゃんと建て直し、9人の子供を育て上げたのだから、会ったこともないおじいちゃんだけど、「すごいね」と言いたくなる。

 

母が結婚する前というのは、日本は戦後復興期から成長期へ向かう頃か。田舎だった清水も、それなりに華やいだ雰囲気に包まれていたのかなあと、想像する。

 

それでも、当時はレストランに食事に行くことは、きっととてもスペシャルなことだったはずだ。

 

父親と港町の洋食屋にカレーを食べに行く。そんな晩は、若き母はきっと、うきうきと心弾ませていたことだろう。嬉しそうな母の顔が浮かび、私は胸が熱くなった。

 

そのお店、「サンライス」さんは大正10(1921)年オープン。創業99年だと知った。戦前から続く老舗洋食店だったのだ。

 

オープン当初はどんなお店だったのかな。今と違って、カレーもハイカラなご馳走だっただろうから、お客さんも特別な思いでテーブルに着いていたのかも。

 

それは、60数年前くらいだって、きっとそうだよね。ああ、母に聞いて確かめたいなあ。おじいちゃんと「サンライス」さんに行くのは、すごく楽しみだったんでしょ?と。

 

現在は「エスパルス通り」だけど、当時は「波止場通り」。船長、パイロット、税関職員などが連日訪れた、と書いているサイトもあった。往年の賑わいが偲ばれて、ちょっとロマンを感じてしまう。

 

もちろん何度か改装されているのだが、レトロな雰囲気も感じられる、なかなか素敵なレストランだった。店内には、フランス鴨の燻製室なんていうのもあって、ちょっと驚く。カレーも美味しかったけど、今度はコース料理を頼んでみたいな。

 

お店にいらしたマダムは、いったいおいくつなのか。88歳の父が、若い頃にここへよく来ていたことを話すと、息子でも見るようにニコニコと聞いておられた。

 

そう、父も清水で働いていた頃は、よくランチでこの店へ来ていたらしい。母と祖父のここでの食事にも、誘われたことが一度あったそうだが、仕事で行けなかったと残念がっていた。きっと、祖父も残念だったよね。

 

・・・いや、ほっとしたかな?
当時、父は母の恋人だったのか。うーん、変な感じ。笑

 

父も母も、清水っ子で、私は清水生まれだけど清水のことは何にも知らない。今年はそんな複雑な思いを何度もしているなあ。

 

✻清水と私のことは、こちらで書いています↓

tsukikana.hatenablog.com

 


母は、もしかしたら、娘の私にはあまり自分の昔のことを知ってほしくなかったのかもしれない。私たちはわりと仲の良い母子だったと思うが、話してこなかったということは、その内容について知ってほしくない、ということなのかも。

 

私も自分の娘には、私の過去について話したいこと話したくないこと、あるものね。別に知られて困るわけではなくても、あえて知らせることでもないか、という感じで。

 

だから、母の昔のことも、清水に行くと周囲の人につい取材みたいに聞きたくなってしまうけれど(職業柄?)、ちょっと抑えておこうかとも思っている。父が、ポツリポツリと話してくれるのは、とても嬉しく聞いちゃうけどね。

 


アイロンをかけた母のハンカチ。それは、十数年前の母の日に私があげたプレゼントの、おまけの方だった。メインのブラウスは若い人向けのデザインで自分には合わないと、その年の夏に私に戻されたのだ。母はそういうところ、合理的な人。

 

でも、大判のハンカチは気に入っていて、「ネッカチーフにしてるの」と言っていた。

 

ネッカチーフ。昔、そんな言葉があったっけ。首に巻く小さなスカーフだね。

 

そのネッカチーフが、母の普段使いの服を入れているカゴの中にあった。そのカゴの中身を整理してほしいと、今回父に頼まれ、見つけたのだった。ずっと、愛用してくれていたのかなと、思わず微笑んだ私。

 

シビラのハンカチ・・・
当時、頸椎の手術をして入院中の母に、元気を出してもらいたくて選んだ色と柄だった。

 

少しも色あせていないし、シミひとつない。大事に使ってくれていたんだね。

 


母が亡くなって間もなく半年がたとうとしているが、母への恋しさは増すばかりで、いつも話し掛ける時、はじめは笑っていても、しまいには涙声になってしまう。

 

会いたいよ・・・
声が聞きたいよ・・・

 

そして、母の85年の人生を、きれいに包装してリボン掛けしているような気分が、ずっと続いている。大変なこともたくさんあった人生だけど、母は幸せだったのだと、強く信じたいのかな。それは、私のエゴかもしれないね。

 

遺影の母は、呆れているようにも見えるし、慈悲深く見つめてくれているようにも見える。

 

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