早い入梅のために、大好きな5月が半分奪われてしまったような、ちょっとやるせない気分でここ数日を過ごしている。
ひょんなことからメルカリを始めることになり、出品できそうなものを探していた先日のこと。あっちの引き出し、こっちの引き出しと開けていくうちに、ふと手が止まった。
40年前、いやいやもう半世紀近く前の、古い“生徒手帳”を発見。
へええ、懐かしい。
生徒手帳って、中学、高校で毎年学校から配布されていたんだっけ。だとしたら何故、これひとつだけだけ残しておいたのかな、過去の私。
中学1年生。12歳。
あの頃の自分を、こんなに年月がたった今もまだ思い出せる。照れて薄笑いを浮かべながら、ページをめくった私。はた目にはきっと、不気味だね。
11㎝×7㎝、厚さ6㎜ほどの小さな手帳なのに、驚くほどの情報量。まず、そこに感心した。
学区地図、生徒手帳取扱い心得、校歌、生徒心得、服装規定、生徒会会則、生徒会の機構、クラブ規定、週番規定、日直規定、図書館利用に関する規定、学級文庫について、校外生徒会会則、地区別編成表、日課時間表。
その後は書き込み欄。
私たちの先生(校長、担任、各教科の先生)、私たちのホームルーム(役員)。
本年度のおもな行事予定、中学生体位平均表の後に、再び書き込み欄。
健康診断表、健康相談と治療の記録、体力テスト成績表、テストの記録、保険証、諸届欄(欠席や見学、遅刻など)、私と家庭(住所や家族構成など)。
次にフリースペースがあり、マンスリースケジュール欄、交通時刻表に書き込めるようになっている。度量衡換算早見表がはさまって、住所録、日課表、時間割、年間カレンダーと続く。最後の見開きは、道路標識一覧だった。
セーラー服を着て、学生カバンを持って、この手帳を胸ポケットに入れて。
私、きっとすごく嬉しかったんだろうな。手帳にある書き込みやいたずら書きを見て、俯瞰するように遠い日の自分を眺めた。
小学5年生の3学期にこの地に引越してきて4つ目の小学校に転入した私は、翌年の春、中学生になって・・・変わった。
それまではずっと転校生で、よそ者もしくはお客さんみたいな目で見られていると感じてきたから、目立たないように、いじめられないように、気を付けている子どもだった。
しかし、中学でみんなとりあえず同じ“新人”になり、同じ緊張感の中にいることが、肌でわかった。もう、よそ者意識はいらない。毎日が自由で、新しい友達もでき、どんどん楽しくなった。
思春期に入り、それまでぼんやり空想の世界で遊んでばかりだった少女が、自分という存在をはっきり意識しだしたようにも思う。何もかもが変わっていったことを、鮮やかに思い出す。
目覚めたのだ。
勉強のやり方が、初めてわかった。どうすれば速く走れるのかも、初めてわかった。頭を使うことも体を動かすことも楽しくなって、成績は急激に伸びた。
自分に自信がついてきたからだろうか、人前で手を挙げることなんてできなかった私が、よく発表するようになった。クラスのみんなが声を掛けてくれて頼ってくれたりもして、まるで違う自分に生まれ変わったような気がしていた。
生徒手帳のいたずら書きには、私以外の子の字や絵もたくさんあった。マンスリースケジュール欄には、みんな勝手に自分の誕生日を書き込んでいる。笑
テストの記録欄には、点数が暗号数字?で書かれていた。人に見られてもわからないように(見られること前提というのもどうかと思うけど)、自分で考えた数字だ。そんなこと、そういえば面白がってやってたなあ。
かと思えば、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。 ・・・」なんて、徳川家康の遺訓も書き込んでいて。変な子。笑
図書室が好きだった。動物ものやSFの本にはまっていたっけ。四次元とかエスパーとか、当時、流行っていたのかもしれない。自分でお話も作ってノートに書いていた。
テレビでも「タイム・トラベラー」が面白くて。アニメでは、三つのしもべを従える超能力少年のお話、「バビル2世」が大好きだった。
あの頃、テレビは元気だったな。歌番組も盛んで、西城秀樹さんのファンになったのも、中1だった。けれど、当時は家にテレビは1台しかなく、チャンネル権は父。見たい番組もなかなか見せてもらえず、悔しい思いもしたものだ。
もっとHIDEKIが見たかった。涙
それでもまだ素直だったよ、私。親に反抗もせず、勉強も、部活のテニスも、よく頑張っていたと思う。美術も音楽も大好きになり、先生方とも良い関係が築けて、小さな恋のようなものも生まれて、毎日が輝いていた。
中学2年になり、また少し暗い私にトーンダウンしてしまうのだけど・・・そうか。だから生徒手帳でこれだけが残してあったんだ。いろいろ花開いて、希望にあふれ、未来に広がりを感じられた日々が、ここに詰まっていたから。
そして、家族欄の母の年齢、38歳におののく。父も母も、いやはや、若かったのね。
私が38歳のときって、何してたっけ。子どもたちはまだ小学生と幼稚園児。私は当時SOHO(ソーホー)と呼ばれていたスタイルで、家でライティングや編集の仕事を細々とやっていたかな。
インターネットが普及してきて、携帯電話を持つ人も増えてきて、面白い時代だった。
東京や広島など、遠方の会社から個人に仕事が依頼され、家で書いて送信する。そんなことができるようになったんだと、当時はとても嬉しくて、仕事環境はこれからどれだけ素敵なことになるんだろうと、ワクワクしていた。便利さは罠も多く、必ずしも幸せとは繋がらないのに、まだわからなかったのだ。
時代の変化を見るとき、人生って長いんだな、と気付く。
戦前、戦中、戦後も知っていて、高度経済成長もオイルショックも、バブルもその崩壊も経験している、父母たちの世代って、なんだかすごい。時代に踊らされ、時代に振り回され、大変な人生だよね。
そして、コロナだ。母はこれに罹患はしなかったが、面会が禁止されている中、病院で家族に会えないまま息を引き取った。波乱万丈の人生。本当におつかれさま、と言ってあげたい。
今日は、その母の命日で。
あれから1年がたった。
実は先日、弟の住む町で納骨と一周忌の法要があったのだけど、緊急事態宣言などのため、私も父も参列できなかった。
まさか自分の親の一周忌に出られなくなるとはね。
仕方ないこととは言え、切なかった・・・
それはともかく。
母たちも大変な時代を生きてきたけれど、受験戦争や長い不景気にさらされた私たち世代も結構大変だと思う。また、就職氷河期に見舞われたロスジェネ世代も、ゆとり世代とくくられた娘たち世代も大変だ。もちろん、それぞれ楽しいこともたくさんあったはずだけどね。
人生って、なんなのかな。
明るい未来が、本当にほしいね。時代が良くなってきたと、実感してみたい。
12歳の私は、ノストラダムスの大予言を信じて自分は40歳までは生きられないと思っていたようだけど、こうして生き延びている。そう、30代の自分すら想像しようがなかった、あの頃の私。
母だって、30代のあの頃、自分に死が訪れる日のことなど想像できなかっただろう。笑顔が、ただ笑顔だけが、懐かしく思い出される。今の私よりずっと若かった母の。
不思議な気分だ。
手の中にある小さな生徒手帳が、何かを語りかけたくて今、現れたような気さえする。人生のハイライトがあるとすれば、この頃が私の、最初のハイライトだろうと思う。今なら、わかる。
思い出したのだけど、小学生のとき、
♪わたしは、おとな、なの。
♪いいえわたしは、12歳。
というフレーズのコマーシャルがあったと思う。チョコレートだったかな。長いサラサラ髪の少女がとても素敵だった。それで、私は多分「12歳」に憧れていたのだった。
ふと思いついて、12歳の私に伝えてみた。どうか今をもっと楽しんで、と。あなたは、今もずっとこの手帳の中に、私の中に、生きている。同じ輝きを持ったままで。
そして、あれから40年以上生きてきた私だけど、この先もまだ人生のハイライトがやってくると、信じて諦めずにいるよ、とも伝えた。前向きな思いつき。笑
この生徒手帳は、まだ手元に残しておき、時々、12歳の私に話し掛けてみようと思う。
今年は長梅雨らしい。もう「雨季」と呼びたくなるような、日本の梅雨。
イメージ通りの、紫陽花に光る雨粒、新緑を濡らす細い雨、の梅雨であってくれたなら、それも好きなのだけど、現実は厳しい。豪雨などによる災害が心配だ。
母の日があり、結婚記念日があり、薔薇が咲き、風が香る大好きな5月が、もうすぐ終わってしまうのは寂しい。でも、仕方ないね。来年はもっと、たっぷりと楽しめますように。
さあ、意識して、梅雨どきでも腐らずに過ごそう。機嫌よく暮らそう。
ああ、本当に、朗らかに生きていきたいなあ!
✻ところで、冒頭のメルカリデビュー、なかなか刺激的でした。5つ出品してすぐ、1つに買い手が付き、心の準備もできていなかったので妙に焦って。こんなにすぐに売れるものなの?と驚きましたが、他の4つはまだ売れず。笑 そんなに甘いものじゃないですよね。でも、包装して発送してコメントでお礼を言って、などという一連の作業まで含めて、結構楽しかったです(*^-^*)