一筋の光、降り注ぐ光。

人生はなかなかに試練が多くて。7回転んでも8回起き上がるために、私に力をくれたモノたちを記録します。

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お父さん、ごめんね・・・

桜のある風景

 

満開の桜並木を歩いていると、自分はこのまま異世界に抜けていくのではないか、と思えるときがある。

 

毎年、飽きもせず同じような写真を撮ってきたが、今年はあまり気が乗らない。ただ、見つめて、見渡して、桜を感じながら歩いていたい。

 

桜に限らず、今を咲き誇る花々をちゃんと見て、褒めてあげたいと思う。“今”を意識して心に刻みたいと思う。来週のことはもう、わからないから。来年また見られるとは、言い切れないから。

 


外を歩いているとき、杖をついた老婦人を見掛けると、思わず駆け寄りそうになる。そんなことがここ2年ほど、よくあった。

 

ああ、お母さんじゃないんだ。
ああ、お母さんはもう、いないんだ。

 

気がついて、ぼんやり歩いていた自分に呆れ、その後、寂しい気持ちになる。
これからは、体形が父に似た老紳士を見掛けても、ふと駆け寄りそうになるのかな。

 

ああ、お父さんじゃないんだ。
ああ、お父さんはもう、いないんだ。

 


父が他界してひと月がたった。信じられない展開が続き、あっという間のお別れだった。今もまだ、この事実を信じきれていない自分がいる。これは、本当にあったことなの?

 

1月の半ばに、心臓のペースメーカーの交換手術をして、元気に退院して、バッテリーは満タン、さあこれからだね!って笑っていたのに、どうしてこんなことになってしまったのか。

 

何十年も動かないでいてくれた結石が、なんでこのコロナ禍に動いてしまったのか。どうして手術・入院した病院で、院内感染が爆発的に広がってしまったのか。

 

一度は退院できたのに、再入院。病状は持ち直したけど、また悪化。清水の家で、父の退院後のことを弟とケアマネジャーと相談していたちょうどそのとき、病院から急変の知らせが入った。

 

やっと許された面会。けれども、もう父の息はなく。。。
顔を触れば、まだ温もりがあった。間に合わなかったけど、温かい父に触れることができた。

 

寂しがり屋の父が、最期までひとりだったこと、痛いのが大の苦手の父が、両手両足、点滴の痕で紫の斑点だらけになっていたこと。私は震えた。どんなに情けなく悲しかっただろうと、弟とふたり、号泣してしまった。

 

 お父さん、寂しい思いをさせてごめんね。
 親父、守ってやれなくてごめん。

 


89歳という年齢を考えれば、大往生だと思う人もいるだろう。
でも、私も弟も、悔しかった。残念だった。

 

絶対、帰ってくると信じていたから。退院後は衰弱が激しいだろうから、まずはリハビリのできる施設に行ってもらうことになるだろうけど、父には必ず楽しい気持ちになってもらおうと、たくさん笑ってもらおうと、強く思っていたから。

 

私にも弟にも会えない入院生活の末、痛い点滴や検査、術後の疼痛や死への恐怖にひとり耐えさせたまま、お別れの言葉も交わせないまま、父を逝かせてしまった。

 

何か他に手立てはなかったのか。
どこかで何かを間違えたのではないか。

 

可哀そうで、申し訳なくて、悔しくて。
だけど、本当のこととは思えず(思いたくなく)、受け入れられなくて。

 

そして、いい年をして変な言い方だけど、まるで“みなしご”にでもなったようなショックと心許なさを、私も弟も感じていた。父の存在は、私たち姉弟にはとても大きかったのだ。

 


しかし、現実は打ちのめされている者にも厳しい。もの思いにふけってばかりはいさせてくれない。決めていかねばならないこと、実行していかねばならないことが無数にあった。
手続き、手配、打ち合わせ……etc。
身内が亡くなるというのは、大変なことだ。

 

弟と相談しながら、戸惑いつつも、ほぼ問題なく進めることができたのは、2年前の母のときの経験があったからだろう。まだやることはたくさん残っているものの、気忙しさは薄れてきた。後のことは、焦らずに、ゆっくり考えながら進めていこうと思う。

 


父が倒れてからずっと、からだもこころも緊張し続け、ガチガチにこわばっていた。それが、最近になってようやく少し、ほぐれてきたように感じる。夫や娘たち、友人たちのおかげだろう。

 

少しは落ち着いてきた?と聞かれると、そうかもしれないな、とは思う。気遣いをいただいてることに感謝もする。ただ、落ち着くってどんなことかなあと、自分の内面を覗き込めば、そこには深い暗闇が口を開けていたりする。

 


夕方。5時くらいになると、「あ。電話しなきゃ」と思う。

 

ペースメーカー手術の2週間前から、体温や血圧など体調を書き込む用紙に記入しなければならず、父はそれを忘れそうだと心配していた。それで私は毎日、時間を決めて電話をし、検温した?などと確認していたのだ。

 

そのことが習慣になって、退院してからも夕方5時くらいに電話をかけ続けていた。父が散歩中だったこともあったし、ケアマネさんが訪ねてきてくれたちょうどそのときだったこともあった。

 

これからお米を炊くんだと言ってた日も。今夜のおかずは何?なんて聞いて、父の日常が無事に動いていることに安堵していた。ほんの、2か月前まで。

 


もう、心配しなくていいんだ。
夜、ちゃんと眠れたのか、とか。
寂しがっていないか、だとか。
転んで怪我したりしなかっただろうか、とか。
もう、心配しながら電話しなくていい。

 

それなのに、今も午後5時近くになると、いつもそうしていたように、私は父に電話をかけそうになる。いや、一度は本当にかけてしまった。いや、一度でなく三度……。

 

電話を切る前に、いつも「はい、サンキュー」と言ってくれた父の声を、もう聞くことはない。それがこんなに信じがたいことで、全身を走る痛みにつながることであったとは。

 

弟と、父の思い出話をけらけら笑いながら、したりもできてるんだけどな。なんで、夕方ひとりだと、こんなに苦しく辛くなってしまうのか。

 

私は母の遺影の前に行き、気が済むまで母に話し掛ける。母はいつものように、微笑んでいる。

 

父は、母と同じ28日に旅立った。月命日が、同じ。ずっとずっと、同じ。どこまで仲良しなんだ。

 

お母さん、連れて行っちゃったんでしょ。
お母さんもお父さんも、もう寂しくないね。

 

父が母のところに行ったのだと思うと、不思議なことに少し、胸が温かくなる。肩のあたりもちょっとだけ軽くなる気がする。

 

「今夜のおかずは何にするんだっけ」と、生きている者は現実に戻っていく。戻されていく。

 

✻母とのお別れの話は、こちらで書きました↓

tsukikana.hatenablog.com

 


✻明日はもう4月。ご無沙汰しております。
多忙と脱力。何度かこのブログを更新しようとしたのですが気持ちが乱れ、その度、諦めました。もう書けないんじゃないかとも思いました。母のときもきつかったけど、今回はかなりヘビーでした。でも、これを書かなければ、もうきっとこの先のことが書けなくなる。それは残念だ。そう考えてやっと書くことを頑張れました。重たい話でごめんなさい。最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

冒頭の写真は去年撮ったものです。世界中がもう、大変ですけど、桜は今年も美しく咲いてくれましたね。皆さん、たくさん見てあげましょうね。愛でてあげましょうね。穏やかで優しい気持ちが、どうか世界に広がっていきますように。

 

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