一筋の光、降り注ぐ光。

人生はなかなかに試練が多くて。7回転んでも8回起き上がるために、私に力をくれたモノたちを記録します。

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父の初盆

 

私の父は6人兄弟の次男。母の違う兄もひとりいたから、正確には7人兄弟だ。私の母は9人兄弟の三女。

 

親戚が多いのである。小さい頃は、おじさんおばさんの名前を覚えきれなかった。母方の兄弟については、今も順番があやしい。会ったことのない従兄弟もいる。

 

そんな私には、両親に連れられてお墓参りに行った、という記憶がない。祖父母の葬儀の後に大勢で行ったことはあるが、お盆やお彼岸には多分、行っていないと思う。

 

父が転勤族で遠方に住んでいたから、という理由もあるのだろうが。地元に住む親戚、特に長男夫婦に、きっとお任せしてしまっていたのだろう。いや、もしかしたら時々は、清水に帰ってお墓参りもしたのかな。私が覚えていないだけかもしれない。

 


夫と結婚してから、お盆には彼の実家に行くようになった。お墓参りにも連れて行ってもらった。キュウリとナスを馬と牛に見立てて装飾し、お仏壇に供える、という風習も初めて知った。

 

夫の実家は、海のすぐ近くにある。盆明けの夕方、キュウリやナスのお飾りは浜辺に置かれた。波が、それを連れて行く。沖は、イコール彼岸であり、ご先祖さまたちの霊があちらにお帰りになるのだそうだ。波音を聞きながら、厳かな気持ちになった。

 

幼かった私の娘たちは、毎年の夏、夫の実家で過ごす数日をとても楽しみにしていた。年の近い従姉妹たちと遊べるからだ。そして、夏祭りと花火大会。

 

彼女たちにとって、お盆は夏休みの思い出には欠かせない、素敵なイベントだった。それでも、お仏壇やお墓に小さな手を合わせるときは神妙な面持ちをしていて、なんだか微笑ましかったのである。

 

お盆を迎えるということの本来の意味。亡くなった身内やご先祖さまをお迎えする大切な日、という概念を、私はずっと自分とは縁遠いものと感じて育ってきた。義母や義姉に、彼の地でのお盆の過ごし方を教えてもらえて嬉しかったのだが、教えてもらったからといって、それはやはり私には馴染みの薄い、遠い存在のままなのだった。

 

私も娘たちと同じように、お盆休みといえば「帰省」とか「夏の思い出」といったイメージくらいしかなく、お盆の準備やお墓参りについても、見せていただく、連れて行っていただく、という受動的な立ち位置を変えられなかった。

 


2年前、母が亡くなって初盆を迎える頃、私は父のサポートで清水にいた。清水は、7月盆である。そんなことも知らない私だった。

 

そう。故人の四十九日の忌明け後、初めて迎えるお盆を新盆または初盆と言うことも、新盆は“しんぼん”とも“にいぼん”とも呼ばれ、初盆も“はつぼん”とも“ういぼん”とも呼ばれるらしい(ややこしい)ということも、このとき初めて知った。

 

お盆の準備など、父はもちろんしたことがない。近所に住む伯母がいろいろ手伝ってくれて、簡略ながらもお盆飾りをし、迎え火、送り火を焚いたのだった。宗派やその土地ならではの習わしがあるのだろうが、なにしろ父も私も無宗教でとんと疎いので、伯母だけが頼りだった。

 

✻母の遺品整理もはかどらず、悩んでいたあの頃↓

tsukikana.hatenablog.com

 


そして今年。
父の初盆を迎えた。

 


私の両親のお墓は、弟の住む岐阜県にある。あちらはなんと“ついたち盆”といって、お盆は8月1日なのだ。お盆の時期も地方によって違うということも、2年前まで全く知らなかった。関心を持ったことがなかったので、当然か。

 

さて。父は、清水と岐阜のどちらの初盆に帰ってくるのだろうか?

 

お盆の正しい捉え方というのを知らない私だが、もしも初盆で父の魂が帰ってくるのなら、まずは生まれ故郷であり晩年を過ごした清水に向かうように思えた。そして、8月1日には岐阜へ向かうのではないか。

 

本当のところはもちろんわからない。でも、父がもし7月盆で清水に帰ってくるのなら、そのとき家に誰もいなかったら寂しいだろうな、と思ってしまった。

 

それで先週、ひとりで清水に出向き、私なりのお盆の供養をしてきた。12日の夕方から16日の朝まで。4泊もしたのは、久しぶりだ。

 


本格的な初盆供養は、弟が岐阜でやってくれるので、私はほんの気持ちだけ。小さな仏壇を浄め、買ってきた花束を活け、ホオズキを飾り、果物、お菓子、弟のトマトをお供えした。精霊馬は本物のキュウリとナスではなく、スーパーに売っていた作り物にさせてもらった。

 

迎え火を玄関先で焚く。2年前に伯母に教えてもらったのを、思い出しながら。本当にささやかなお迎えだけど、それでも気持ちだけは一生懸命で、「お父さんお家はここだよ、迷わず来てね」と祈っていた。

 

さっきまでの本降りは霧雨に変わっていて、オリーブの葉が水滴をたたえて美しかった。父はきっと、母と一緒にここへ帰ってくる。そう思えた。

 

この家も、それを楽しみに待っている。本当にそう感じた。

 


翌日は、伯母の娘である私の従妹のMちゃんが、埼玉から帰省。伯母と私をクルマに乗せて、お墓参りに連れて行ってくれた。

 

伯父や祖父母が眠っているお墓。無沙汰を詫びながら手を合わせた。既に新しいお花が活けてある。多分、従兄のN君夫妻だ。頭が下がる。

 

日が差して、眼下に広がる駿河湾がきらめいた。大空を流れる雲がダイナミックでどこか雄々しい。なんとなくだけど、私の抱く清水のイメージと重なった。

 

その晩は、伯母とMちゃんが来てくれて、買ってきたお寿司をいただきながらの夕餉となった。私の両親の恋愛時代のエピソードなどを、楽しそうに語ってくれる伯母。みんな、共に青春時代を過ごした仲間だったんだね。

 

きっと、父も母もそばで聞いていて、照れたり懐かしがったりしていたのではないかな。ところでおばさま、こんなに飲めるクチだったっけ?

 


15日には、清水に住む年上の従姉も来てくれた。ここでも昔話に花が咲く。その後で、埼玉に帰るMちゃんが息子くんを連れてお別れの挨拶に来てくれた。彼は私の次女と同い年で、もうすぐ28歳。小さい頃の可愛らしい面影しか胸になかったから、そのたくましい姿に驚いてしまった。

 

お向かいのYさんに自家栽培の野菜をいただき、お隣のOさんからは手作りのお弁当を差し入れていただき、今回の清水滞在でも人の優しさ、温かさにたくさん触れることができた。

 

 

夕方、送り火を焚き、父と母の魂を見送った。本当に簡略にも程があるお盆供養だったけど、心はいっぱい込めたつもりだし、嬉しい来客もあったから許してねと、心で伝えた。両親はひとまず満足してくれたかな。

 

母の好きな歌のひとつ、「浜辺の歌」を口ずさんでみたら、その声が母の声にしか聞こえなくてちょっと驚いた。私の口を使って、母が歌っている・・・

 

そんな、ちょっぴり怪談めいた可笑しな体験を残して、私のお盆は終わった。が、父母は10日後には、今度は岐阜のお盆に向かうのだろう。忙しいことで。笑

 

それにしてもやっぱり私にはよくわからない。弟のところの次には、8月13日からのお盆の風習のある、愛知の私のところへ来るのだろうか。いたずらっ子のような父母の顔が浮かぶ。

 

え、来るの?
そういうものなの?

 

お盆っていったい、何?

 

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