一筋の光、降り注ぐ光。

人生はなかなかに試練が多くて。7回転んでも8回起き上がるために、私に力をくれたモノたちを記録します。

父の初盆

 

私の父は6人兄弟の次男。母の違う兄もひとりいたから、正確には7人兄弟だ。私の母は9人兄弟の三女。

 

親戚が多いのである。小さい頃は、おじさんおばさんの名前を覚えきれなかった。母方の兄弟については、今も順番があやしい。会ったことのない従兄弟もいる。

 

そんな私には、両親に連れられてお墓参りに行った、という記憶がない。祖父母の葬儀の後に大勢で行ったことはあるが、お盆やお彼岸には多分、行っていないと思う。

 

父が転勤族で遠方に住んでいたから、という理由もあるのだろうが。地元に住む親戚、特に長男夫婦に、きっとお任せしてしまっていたのだろう。いや、もしかしたら時々は、清水に帰ってお墓参りもしたのかな。私が覚えていないだけかもしれない。

 


夫と結婚してから、お盆には彼の実家に行くようになった。お墓参りにも連れて行ってもらった。キュウリとナスを馬と牛に見立てて装飾し、お仏壇に供える、という風習も初めて知った。

 

夫の実家は、海のすぐ近くにある。盆明けの夕方、キュウリやナスのお飾りは浜辺に置かれた。波が、それを連れて行く。沖は、イコール彼岸であり、ご先祖さまたちの霊があちらにお帰りになるのだそうだ。波音を聞きながら、厳かな気持ちになった。

 

幼かった私の娘たちは、毎年の夏、夫の実家で過ごす数日をとても楽しみにしていた。年の近い従姉妹たちと遊べるからだ。そして、夏祭りと花火大会。

 

彼女たちにとって、お盆は夏休みの思い出には欠かせない、素敵なイベントだった。それでも、お仏壇やお墓に小さな手を合わせるときは神妙な面持ちをしていて、なんだか微笑ましかったのである。

 

お盆を迎えるということの本来の意味。亡くなった身内やご先祖さまをお迎えする大切な日、という概念を、私はずっと自分とは縁遠いものと感じて育ってきた。義母や義姉に、彼の地でのお盆の過ごし方を教えてもらえて嬉しかったのだが、教えてもらったからといって、それはやはり私には馴染みの薄い、遠い存在のままなのだった。

 

私も娘たちと同じように、お盆休みといえば「帰省」とか「夏の思い出」といったイメージくらいしかなく、お盆の準備やお墓参りについても、見せていただく、連れて行っていただく、という受動的な立ち位置を変えられなかった。

 


2年前、母が亡くなって初盆を迎える頃、私は父のサポートで清水にいた。清水は、7月盆である。そんなことも知らない私だった。

 

そう。故人の四十九日の忌明け後、初めて迎えるお盆を新盆または初盆と言うことも、新盆は“しんぼん”とも“にいぼん”とも呼ばれ、初盆も“はつぼん”とも“ういぼん”とも呼ばれるらしい(ややこしい)ということも、このとき初めて知った。

 

お盆の準備など、父はもちろんしたことがない。近所に住む伯母がいろいろ手伝ってくれて、簡略ながらもお盆飾りをし、迎え火、送り火を焚いたのだった。宗派やその土地ならではの習わしがあるのだろうが、なにしろ父も私も無宗教でとんと疎いので、伯母だけが頼りだった。

 

✻母の遺品整理もはかどらず、悩んでいたあの頃↓

tsukikana.hatenablog.com

 


そして今年。
父の初盆を迎えた。

 


私の両親のお墓は、弟の住む岐阜県にある。あちらはなんと“ついたち盆”といって、お盆は8月1日なのだ。お盆の時期も地方によって違うということも、2年前まで全く知らなかった。関心を持ったことがなかったので、当然か。

 

さて。父は、清水と岐阜のどちらの初盆に帰ってくるのだろうか?

 

お盆の正しい捉え方というのを知らない私だが、もしも初盆で父の魂が帰ってくるのなら、まずは生まれ故郷であり晩年を過ごした清水に向かうように思えた。そして、8月1日には岐阜へ向かうのではないか。

 

本当のところはもちろんわからない。でも、父がもし7月盆で清水に帰ってくるのなら、そのとき家に誰もいなかったら寂しいだろうな、と思ってしまった。

 

それで先週、ひとりで清水に出向き、私なりのお盆の供養をしてきた。12日の夕方から16日の朝まで。4泊もしたのは、久しぶりだ。

 


本格的な初盆供養は、弟が岐阜でやってくれるので、私はほんの気持ちだけ。小さな仏壇を浄め、買ってきた花束を活け、ホオズキを飾り、果物、お菓子、弟のトマトをお供えした。精霊馬は本物のキュウリとナスではなく、スーパーに売っていた作り物にさせてもらった。

 

迎え火を玄関先で焚く。2年前に伯母に教えてもらったのを、思い出しながら。本当にささやかなお迎えだけど、それでも気持ちだけは一生懸命で、「お父さんお家はここだよ、迷わず来てね」と祈っていた。

 

さっきまでの本降りは霧雨に変わっていて、オリーブの葉が水滴をたたえて美しかった。父はきっと、母と一緒にここへ帰ってくる。そう思えた。

 

この家も、それを楽しみに待っている。本当にそう感じた。

 


翌日は、伯母の娘である私の従妹のMちゃんが、埼玉から帰省。伯母と私をクルマに乗せて、お墓参りに連れて行ってくれた。

 

伯父や祖父母が眠っているお墓。無沙汰を詫びながら手を合わせた。既に新しいお花が活けてある。多分、従兄のN君夫妻だ。頭が下がる。

 

日が差して、眼下に広がる駿河湾がきらめいた。大空を流れる雲がダイナミックでどこか雄々しい。なんとなくだけど、私の抱く清水のイメージと重なった。

 

その晩は、伯母とMちゃんが来てくれて、買ってきたお寿司をいただきながらの夕餉となった。私の両親の恋愛時代のエピソードなどを、楽しそうに語ってくれる伯母。みんな、共に青春時代を過ごした仲間だったんだね。

 

きっと、父も母もそばで聞いていて、照れたり懐かしがったりしていたのではないかな。ところでおばさま、こんなに飲めるクチだったっけ?

 


15日には、清水に住む年上の従姉も来てくれた。ここでも昔話に花が咲く。その後で、埼玉に帰るMちゃんが息子くんを連れてお別れの挨拶に来てくれた。彼は私の次女と同い年で、もうすぐ28歳。小さい頃の可愛らしい面影しか胸になかったから、そのたくましい姿に驚いてしまった。

 

お向かいのYさんに自家栽培の野菜をいただき、お隣のOさんからは手作りのお弁当を差し入れていただき、今回の清水滞在でも人の優しさ、温かさにたくさん触れることができた。

 

 

夕方、送り火を焚き、父と母の魂を見送った。本当に簡略にも程があるお盆供養だったけど、心はいっぱい込めたつもりだし、嬉しい来客もあったから許してねと、心で伝えた。両親はひとまず満足してくれたかな。

 

母の好きな歌のひとつ、「浜辺の歌」を口ずさんでみたら、その声が母の声にしか聞こえなくてちょっと驚いた。私の口を使って、母が歌っている・・・

 

そんな、ちょっぴり怪談めいた可笑しな体験を残して、私のお盆は終わった。が、父母は10日後には、今度は岐阜のお盆に向かうのだろう。忙しいことで。笑

 

それにしてもやっぱり私にはよくわからない。弟のところの次には、8月13日からのお盆の風習のある、愛知の私のところへ来るのだろうか。いたずらっ子のような父母の顔が浮かぶ。

 

え、来るの?
そういうものなの?

 

お盆っていったい、何?

 

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父母の愛した家へ

 

外は、雨。
この季節はどうにも気分が上がらない。梅雨はだるさとの闘いだ。重い空の下、軽やかにターンするツバメを見る。少し励まされた気がした。

 

清水から帰って3日たち、ようやく体の痛みが薄らいできた私。階段の上り下りが難しいほど、腿の裏から腰にかけて、特にお尻のほっぺたがひどく痛かった。

 

たった2日間の滞在だったのに、どうしてこうも疲れてしまうのか。疲れ果てるまで動き回ってしまうのか。

 

行く前には、あんまり張り切らないでおこうと決めていたんだけどな。家中の窓を開けて風を通そう、水道の栓をひねって水を出そう、父の下着類を処分してちょっとだけ片付けよう、庭の草もみっともなくない程度にちょっとだけ抜いてこよう。ちょっとだけ、ね。その程度の心づもりだった。

 

あわよくば、時間を作って散歩がてら海を見に行こうかな、くらいに軽く考えていた。せっかく清水に行くのに、しかも今回は夫もいるのに、働くだけじゃつまらない。楽しいお出掛けもあっていいんじゃないの?って。

 

そんなことも帰ってから思い出したくらい、実際には清水のあの家に着いた途端、あれもしなきゃ、これもしようと、気ばかり焦って走り回るのだった。そしてクタクタになって時間切れ。もう、早く帰ろう、となってしまう。なんか、勿体ないし、悔しいなあ。

 

そう、今回の清水は夫とふたり、クルマで行ってきた。新幹線で行くよりずいぶん、体は楽ちんだったはず。いろいろ助けてもらえるから、心強かったし。

 

うーん。
だからこそ、余計に欲張っちゃったのかもしれない。

 


夫は主に、家の外周を整えてくれた。隣の敷地まで伸びてしまった枝を切ったり、ほったらかしの植木鉢類を洗って裏に片付けたり、伸び放題の草やシダを抜いてくれたり。暑い中、外で4時間以上頑張ってくれた。さすがにバテていたなあ、かわいそうに。

 

でもお陰様で、荒れて醸し出された“空き家感”、漂う侘しい雰囲気が、すっきりさっぱり消えてくれた。ありがとう!

 

小さな家、小さな庭でも、綺麗にするのは大変だ。
普段はもう誰も、手を掛けてあげていないのだから。

 


母が他界し、ひとり暮らしとなった父をサポートするために、2年少し前からこの家によく来るようになった私。その度、掃除もしたけれど、人が生活をするというのは、汚したり散らかしたりすることなのだなあと、手を動かしながらつくづく感心したものだ。

 

 ♪人が生きてりゃゴミが出る
 ♪なのに皆さん、ゴミ嫌い
 ♪嫌いで結構、好かれちゃ困るの
 ♪ごみ将軍

 

掃除している間、いつもこの歌が頭の中で流れていた。昔、うちの娘たちがまだ小さい頃。多分、Eテレの子ども番組から聞こえてきたものだ。変な歌詞(合ってるかちょっと自信ない)だよね。でもなんだか忘れられない。笑

 

人は、生きている間中、ゴミを出し、散らかし、汚すのだ。食べて、排泄して、生きていく。食べこぼし、洟をかみ、髪や角質を落とし、伸びた爪を切り、男性は髭を剃り、着替えで埃を舞い散らし、ポストに放り込まれた印刷物を捨てる。

 

父は日常、一応簡単には掃除をしていたが、やはり細かいところまでは難しいようだった。去年の秋、家政婦さんが週に一度、お掃除に来てくれることになり、私は心底、ホッとしたのを覚えている。

 

父にはできるだけ清潔に暮らしてほしかった。でも、離れて暮らす私や弟には頻度、程度ともに限界があったし、毎回の掃除サポートは正直、ちょっと負担だった。週一でプロに来てもらえるのは本当に助かるし、寂しがり屋の父の話し相手になってもらえるのもありがたかった。父も嬉しそうな顔をしていたっけ。

 

でも。そんな父も、母を追うように今年の2月に逝ってしまって・・・

 

家の中が汚れるって、人が生きてる証だったんだなと、今の私は寂しく思ったりする。今回(前回もだけど)、私が一生懸命掃除したのは、古い汚れ。母や、父が、生きていた頃に残した汚れ。

 

部屋の四隅や電話台の棚、クローゼットの奥。その汚れが生まれた頃には、ここに生活があったんだなあと、生きていたんだなあと、妙に胸が苦しくなる。

 

生活が消えた家は、止まっている。
本当に寂しそうだ。
かわいそうな家。悲しい家。かつて父母が愛した・・・

 

だからきっと、私はたまらなくなって、必要以上に動き回ったのかもしれない。少しでも早く、綺麗にしてあげたい、手入れすることで家を慰めてあげたいと、思ったのかもしれない。

 

寂しくないよ!
私がいるよ!

 

疲れたけど、実は清々しい気持ちにもなった。ひとつ片付けるたびに、ひとつ心が整う、みたいな。水で洗い流したような。梅雨空に日が差して、陽気な景色が見えたような。

 


とにかく。
また近いうちに行くつもりである。次は、お盆かな。

 

父母のお墓は弟の住む岐阜にあり、あちらのお盆は8月1日ではあるけれど、静岡地方のお盆は新暦を取り入れた7月盆。初盆を迎える父は、どちらに帰ってくるのかな。わからないけど、生まれ故郷の清水にまずは帰ってくるような気がして仕方ない。

 

毎年7月16日に行われる「清水巴川灯ろうまつり」は、去年、一昨年に続き、今年も中止らしく、父母の灯ろうを流してあげたかった私は、とても残念。でも、家の玄関前に迎え火と送り火を焚く、ということを、こういうのに疎い私だけど、やっぱり今年くらいはやってこようかな、と思っている。

 

そして、今度行ったときは、もう少し楽しいこともしてきたいものだ。掃除や片付けばかりではなくね。

 

清水はお魚を始め、美味しいものがたくさんあるし、晴れれば富士山が拝める。特に、羽衣伝説のある景勝地、三保の松原から見る富士山の素晴らしさといったら!

 

そう、海も良い。清水港の景色も好きだけど、久能山から見る駿河湾の美しいこと。私の親戚はここで石垣いちごの農園を営んでいる。子どもたちが小さい頃は、父がよく連れて行ってくれた。来年は、私が孫娘たちを連れて行ってあげられたらいいなあ。いちご狩り、楽しいよね♪

 

父母亡き後も、まだしばらくは清水通いが続きそうだ。
あの家を片付けながら、気持ちも整理していきたい。これからのことも、焦らずゆっくり考えていこうと思う。

 

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遠い記憶と遊んだ町散歩―白壁と尼ケ坂

 

尼ケ坂、という言葉に反応した。

 

新聞の地域版で読んだ記事だった。名鉄瀬戸線の清水駅から尼ケ坂駅にかけて、約550メートルの高架下を利用したお洒落な商店街があり、人気スポットになっているという。2019年にオープンした「SAKUMACHI商店街」。

 

私の脳裏に、尼ケ坂の昔の景色が広がった。坂を上った先の白壁の町も。まるで絵本をめくるように。

 

長く生きてくると、思い出の町、場所も増えてくるものだが、名古屋の白壁、尼ケ坂界隈も私にとってそのひとつ。数えてみたら、いやだわなんと、半世紀も前の思い出だった!

 

あの辺りが今、どんな風になっているのか、この目で見てみたい。懐かしい町を、歩きたい。
そんな風に思い立ち、夫を誘って基幹バス新出来町線に乗り、「白壁」で降りた。

 

実は、白壁は二重三重に懐かしい町。大人になって、この地に戻ってきてからは、仕事の取材などで何度も訪れているし、散策もしている。ただ、そのほとんどは基幹バスの通りの南側で、尼ケ坂があるのは反対の北側だ。

 

散策としてなら、白壁は南側の方が有名だと思う。白壁・主税町(ちからまち)・橦木町(しゅもくちょう)とセットで語られることが多く、江戸時代の武家屋敷の地割を残しているその街並みは知的好奇心をくすぐられ魅力的だ。武家屋敷門があったり、川上貞奴の邸宅を移築復元した文化のみち二葉館や旧豊田佐助邸など、歴史ロマンを感じる近代建築も点在したりと、とにかく見どころ満載で、歩いていて飽きることがない。

 

www.nagoya-info.jp

 

私も大好きな散策エリアだけど、今回はあえて北へ向かう。

 

尼ケ坂へ続く道。途中、左側を見ると、少し先に三角屋根の塔があった。長い下りの坂道の中ほどに建っている。金城学院の礼拝堂だろう。瞬間、喉の奥がぎゅっと絞られたようになる。遠い記憶が鮮やかによみがえった。

 

隣にいる夫に、問わず語りに話し始めた、マユとの思い出。
マユ。今、どこでどうしているの。

 


幼稚園をみっつ、小学校をよっつ。私はいつも転校生。父が転勤族で引越しが多かった。その四番目の小学校で、私はマユと出会った。5年生の3学期のこと。

 

引っ込み思案の私に親し気に話しかけてくれたマユ。すぐに仲良しになった。明るくておしゃべりが大好きな、元気な女の子。でもなぜか、彼女を悪く言う子も少なくなかった。

 

あの子は嘘つきだから、友だちにならない方がいいよ、とまで私に言ってくる子もいた。でも、転校してきたばかりの私には、マユは親切で面白い子、としか映らなくて。

 

私たちの家は近所だった。学校帰りに児童公園で「白鯨ごっこ」をして遊んだのを思い出す。ジャングルジムを漁船に見立て、白鯨が襲ってきたときの船長と船員のパニックを演じるのだ。何が面白かったのか、ふたりはこの遊びにはまっていた。

 

マユは私の家に遊びに来たし、私も彼女の家によく上がった。市営住宅の小さな部屋に、家族5人で住んでいた。生活は豊かではなかったのかもしれない。ママは本当のママじゃないの、と言っていた。小さな弟は、ママの連れ子だとも。

 

それから、マユはよく、遠くへ行こうと私を誘った。彼女のおしゃべりを聞きながらだと、どれだけでも歩けそうな気がしていた。学区外への冒険は、いつも私をワクワクさせてくれた。

 

6年生になって、私にも少しだけど友だちが増えた。多分その頃から、私はだんだんマユに不快感を持つようになってしまった。嘘が、多いのだ。そして、嫉妬。

 

私が他の子と遊んでいると「私たち、親友だよね!」と叫んで怒る。そのくせ、私の悪口を他の子に吹き込んで、私を除け者にしようとする。私が抗議するといつも言い訳をして、ごめんねとすぐに泣くのだ。

 

「親友の誓い」とか「裏切り」とか「絶交」とか。
彼女の口からは、私には激し過ぎる言葉がどんどん飛び出してくる。

 

まだ11歳。どんな風に彼女に対応すれば良いのか、私はまるでわからず、いつも翻弄されていた。そんなある日、彼女が私をまた遠出に誘った。

 

外国人の友だちがいるの。ジェニファーっていうの。これから会いに行くから、つきかなも一緒に行こう。

 

私、疑ってしまった。また嘘をついていると思った。だから、本当に、綺麗な庭付きの白いコテージハウスでジェニファーを紹介されたとき、恥ずかしかった。疑ってしまって、マユに申し訳ないと思った。

 

それが、白壁での最初の思い出だ。当時は、それが金城学院というお嬢様学校の敷地内であるとは、つゆ知らず。後から考えれば、いろいろ想像はつく。

 

ジェニファーは多分、外国人の先生のお嬢さんで、あのたくさん並んでいたコテージは、教員用の宿舎だったのだと思う。近くに「教会」があったと記憶しているが、あれは金城学院白百合館の礼拝堂だったのだろう。

 

緑の中の坂道を上る。
遠い異国を思わせる白いペンキ塗りの可愛い家々。
外国人の女の子。
厳かな教会。

 

まるで少女漫画のような道具立てに、私はすっかり魅了された。金髪で青い目のジェニファーは、漫画雑誌やテレビでしか見たことのないロザリオ(十字架のネックレス)をしていて、本当に美しく可愛らしかった。

 

そんな女の子と、マユはどうやって友だちになったのだろう。マユは、不思議な子だ。私はその後もしばらく、マユに翻弄されたのだった。

 


そんな話を、夫に聞かせた。それはさぞや記憶に残る思い出だろうねと、彼は静かに受け止めてくれた。私は、思い出の中を泳ぐように歩みを続ける。

 

白壁と隣り合わせの尼ケ坂も、私とマユのお気に入りの遊び場だった。尼ケ坂駅に向かって降りていく坂道は、緑が濃い。左手には尼ケ坂公園。多分、そう。この辺りでよく遊んだのだ。

 

でも、昔はこんなに綺麗だったかな。片山神社の方で遊んでいたのかな。もっと暗くて、ちょっと怖かった気がする。それもまた、尼ケ坂の魅力だったのだ。うっそうとした森の中だから、私たちは変な遊びを思いついて、人目も気にせず夢中になれた。
(危ないよね。今では考えられないけど、昔はそんな感じで遊ぶことも多かった)

 

名鉄瀬戸線、尼ケ坂駅。私が子どもの頃は、高架駅ではなかった。1990年に高架化されたようだ。当時、瀬戸線に乗ることはそんなに多くなく、学校の校外学習のときくらいだったかな。私の家は、地下鉄駅に近かったため、ほとんど利用しなかったのだと思う。

 

惜しいことをしたと思う。瀬戸線(当時は瀬戸電と言ってた)に、もっと乗っておけば良かった。というのも、最寄り駅で言えば、今はもうない「土居下駅」を利用したはずだし、その頃なら世にも珍しい「お堀電車」に乗って、名古屋城のお堀の中を走ることができたのだ。うう、残念。

 

土居下(どいした)という地名は、昔はあったのかな。母は柳原商店街とともに、「土居下市場」でもよく買い物をしていたのだけど。思えばあの辺りもまた、昔のお武家さんの町。

 


さまざまな思いが次々とあふれてくる。当時の名残りを求めるように、尼ケ坂駅から清水駅までを歩く。もちろん、高架下の素敵な商店街も楽しみながらだけど。スポーツバーでいただいたランチも美味しかったし(特別にハチミツまでお土産にいただけた♪)。

 

しかし、本当に不思議な気分だった。私のよく知っていた町が、まるで違う顔をしている。そりゃそうだよね、何十年たったと思ってるの。時はどんどん移り変わっていくのだ。

 

それでもつい、昔の面影を探してしまう。私とマユの物語をなぞってしまう。

 

また、来たいと思った。
今度は、新しい気分でね。高架下をこんなにお洒落に変身させてくれた人たちについてもっと関心を持ち、その心意気を称えながら、先入観なしにまっさらな気持ちで商店街を楽しみたい。隣でずっと面白がっていた夫のように。笑

 

SAKUMACHI商店街はとても良いと思う。素敵なお店がたくさんある。周囲は緑も多く、近隣の街並みとも調和していて、歩いていて本当に楽しい。日本デザイン振興会のグッドデザイン賞にも選ばれたそうだ。

 

繁華街から少しはずれた所にある、こういう良い雰囲気のスポットが、もっと増えてくれるといいなあと思いながら、懐かしい町を後にした。

 

余談。というか蛇足ね。
なんとなくだけど、思い出の町を訪ねる散歩は、しばらく続きそうな気がする。人生の終盤にさしかかればこんなお楽しみがあるのか。これは癖になる。年を重ねるのも悪くない。
・・・次はどこへ行こうかな。

 

✻機会があったら「SAKUMACHI商店街」へ是非♪

sakumachi-syoutengai.jp

 

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心の花にも水遣りを―グリーフワーク

 

机で調べ物をしていると、鳥のさえずりが聞こえてきた。それがすぐ近くだと気付き、ベランダを見ると、ヒヨドリだった。物干し竿にとまっている。

 

このお客さんは毎年、春から初夏にかけてよくいらっしゃる。鉢植えのブルーベリーの花を荒らしたり、実を食べ尽くしたり、困ったお客さんなのだ。

 

でも、この日はブルーベリーには構わずに、ただ歌を歌っていた。雨が降っていたので、洗濯物は外に干していなかった。広々とした物干し竿で、雨宿りでもしていたのかな。それとも私に会いに来たの?

 

窓に近づくと飛び立ってしまった。恐れていた通り、大きな落とし物が残されている。床だけでなく、エアコンの室外機の上にも、手すり壁の上にも。ジョーロに水を汲み、ベランダに出て洗い流す私。

 

ふと、ついでにベランダの植物たちを眺める。元気がない。本来、今が一番美しく輝いてくれている季節のはずなのに。

 

水遣りはしているけど、他に何も手入れをしていないから、随分寂しい風景になってしまった。ゼラニウムもローズマリーも泣いている。

 

ずっとほったらかしだ。みんな、ごめんね。

 

ここ2年ほど、新しいハーブや花の苗を植え足そうとも、タネを撒こうともしなかった。そういう気分になれなかった。母が倒れてからずっと、気持ちも行動も清水の実家に偏っていったし、コロナ禍も重なった。心配事が多すぎた。そして、悲しいことも。

 


父の他界から3か月たち、母の三回忌も過ぎ、6月を迎えた。手帳を見返せば、心身の不調を整えようと痛いくらいに必死だった5月の記録がある。癒やされたいのに、必死って。ねえ…。

 

今もまだ、父の死は受け入れがたく感じている私だ。あれは、急逝だった。防げる死だったはずだ。落とさなくてもよい命を落としてしまった。どうしても自分に何か落ち度があった気がして、何度も何度も考え苦しくなってしまう。

 

まるで重い罪を犯してしまったかのよう。ふいにすごく怖くなる。まだまだこちらの世界に、本当はいられたはずだったよねって、父の無念を思う。父の姿や声を思い出しては、取り返しのつかないことをしてしまったと、ごめんなさいと、時々壊れたように泣いてしまう。

 

きっとこれからも、この思いからは解放されることはないんだろうな。諦めに近い思いで、私はいつも涙を拭く。

 

しかし、その激情に襲われる頻度は落ちてきたようにも思う。多分、あえてそこから目を背けなかったこと、何度でも思い返して自責の念に沈んだことが、かえって自分を落ち着かせてくれたのではないだろうか。

 

苦しいけど、これも、きっと、必要な、プロセス。

 


一方で、ここのところ喜ばしい変化も感じている。
自分の楽しみに関しては何もやる気が起こらなかった私が、少しずつだけど、動けるようになってきた。

 

手帳にハートマーク付きで「欲しいものリスト」を書き込んだり。まるで義務で作ってるかのようだった料理も、だんだん楽しくなってきて、「これ面白いし美味しそう」と、初めてのレシピに挑戦しようとしたり。その程度だけど。

 

私は、どうやって遊んでいたんだっけ?
私は何が、好きだったのかしら?

 

最近は、そんな風に昔の手帳やノートを読み返している。いつの間にか蓋をしてしまっていた(後回しにしなくてはと封印していた)自分の素直な好奇心や欲求を探して。

 

心の奥底に沈めてすっかり忘れてしまっていたこと、たくさんある気がする。それらひとつずつを思い出して、水遣りして、手入れをして、育ててあげたいと思えるようになってきた。

 

窓から見える野鳥に和ませてもらうだけでなく。ローズガーデン(前回の記事で書いた場所の他に、ぎふワールド・ローズガーデンにも行けた♪)で癒やしてもらうだけでなく。ヒーリングビデオのYouTubeに疲れた心を委ねるだけでなく。

 

自分で何かを創り出すこと。
自分でアイディアを見つけること。
自分から何かを発信すること。

 

そういうことをまた楽しみたいな。そんな風に思えるようになった自分を、屈託のない心で今は祝ってやりたい。

 

とりあえず、滞っていた刺し子のブログを再開したら、刺し子したいという気持ちもよみがえってきた。手仕事は脳も活性化するそうだから、手始めとしてはぴったりかも。

 

✻刺し子のブログも書いています↓

tsukikana2.hatenablog.com

 

ベランダ・ガーデニングも、そろそろ復活したいと思う。まずは掃除かな。夏の暑さに強い花の苗を、今度買ってこよう。自分のお気に入りだった空間を、もう一度生き生きと光らせてみたい。

 

そうだ、本も読もう。イラストも描こう。散歩もしよう。旅にも出よう。

 

あら。次々に欲が出てきた。
しかし、ちょっとゆっくりめに。
体力、ないのでね。笑

 

今、大きな病気もしていなくて、歩くこともできて・・・これって、とてもありがたいことだよね。こうして生きていられることに感謝して、なるべく嘆くことなく生きていきたいな。

 

そして、生きている間に美しいものをたくさん見たい、見に行きたい。
そう思うと、少し力が湧いてくる気がする。明日が、悪くないものに感じられてくるのだ。


✻6月になりましたね。今年は気候や気圧の変動が大きく、体調を崩す方も多いようです。皆様、どうぞご自愛くださいませ。
写真は、5年前の我が家のベランダの一角です。ささやかですが、みんな輝いていました。スマホのフォルダを見ると、毎年5月6月って、なぜかベランダの写真が多いんです(*^-^*)

 

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雨上がりのローズガーデン

ガーデンの画像

 

5月の雨は、五月雨(さみだれ)か?

 

いえ、五月雨は旧暦の5月あたりに降る長雨のことで、つまり梅雨のことらしい。夏の季語でもある。そして、「五月雨式に…」などと言う時は、だらだらと、断続的に、小出しにする、などあまり良い意味で使われない。さつきあめ、と読むときもあるそうで。

 

でも、5月に降る雨は、つい“さみだれ”と呼びたくなる私。そして、それは優しく美しい雨であり、悪い意味では使いたくないのだ。絹糸のように細くて、少し輝きも帯びていて、とても素敵なのだから。

 

もっとも、梅雨だって農作物には大事なものだし、しとしと降り続く雨の情緒も捨てがたい美しさがある。“五月雨式”だって、もしかしたらビジネスのテクニックのひとつになっていて、良くないものと決めつけられないのかも?

 

とにかく、私は5月の雨は結構好きなのである。
しかしこの雨、ぐずつくように続くと「梅雨の走り」と呼ばれることがあり、そうなると、ちょっと焦る私なのだった。

 

待って。まだ十分に5月を楽しめていないよー。
梅雨になるのはもう少し後にしてくれない?

 

去年の梅雨入りも早かった。今年も早そう、という声を聞く。はあ…と、ため息が出る。

 

✻早い入梅をぼやきながら書いた去年の記事↓

tsukikana.hatenablog.com

 


そんな梅雨の走りを思わせるような日が続き、昨日の土曜日も雨予報だった。午後には上がるとのことだったが、もしも大雨だったら諦めようと思っていた。ローズガーデンに行く予定を。

 

でも!
ラッキーなことに、朝、出かける時間には晴れてくれた♡

 

それで、夫とふたり、豊田市のガーデンを目指した。ここは、去年も訪れた場所。

 

✻あのときも、5月の薔薇に救われた気がします↓

tsukikana.hatenablog.com

 


ガーデニングミュージアム「花遊庭」。ガーデンウエディングもできるとのことで、この日も一組、予定されていた。おめでとうございます♡

 

そんなに大規模な庭園ではないのだけれど、よく手入れをされた28のテーマガーデンがあり、どこを見ても今が見頃の花たちを楽しめる。

 

昨日は雨上がりだったので、花も葉も水玉をたたえてキラキラと輝き、格別の美しさだと思った。

 


出口近くにあるローズガーデンが、やはりこの日の一番の目的で。ああ、もうずっとこの場を離れたくない、なんて思ってしまった。

 

少しの間、マスクをはずして、大きく息を吸い込む。ひんやりと、わずかに湿り気を帯びてなめらかになった空気が、喉から胸に流れ込む。

 

清らかで、なんて良い香り。

 

心身が浄化されるように感じる。女神さまの気配に包まれているような、大きな存在に許してもらえているような、そんな安心した気持ちになる。

 

心細いときとか、自信がないときとか、悲しくてたまらないときとか。
包まれることで心が和らぎ、救われることがままある。

 

それは、霧雨だったり、春の日差しだったり、肌触りの良い毛布だったり、愛する人のハグだったり。
みんな柔らかく、優しい。そして、漂う薔薇の香りも……。

 


立ち去りがたくていつまでもローズガーデンを巡り、見渡していたら、同じようなご夫婦がいた。笑
私たちのように、あちこちカメラを向けて撮影している。

 

そしてふと気付いた。
目の高さにも、足元くらいの位置にも、見上げた場所にも、さまざまな種類の薔薇の花が咲いていることに。

 

花の特徴に合わせて高さを変えている。そのための演出もされている。

 

古風な小物やベンチ、レンガの壁、田舎風のコテージ。その窓やドア枠も懐かしい絵本に出てきそう。花たちを生かす、“あしらい”が見事なのだ。

 

実はこの後、同じ豊田市内の比較的大きな公園にも、薔薇を見に行ったのだった。
そこにも多種多様の薔薇が、それはそれは見事に咲いていたが、何故かそこまでの感動はなかった。

 

ガーデンの魅力とは、なんだろう。
ただ花がたくさん綺麗に咲いていればいい、というものではない。それは当たり前のことなのだけど、妙に納得できた比較だった。

 

それぞれの花が主人公でいられる、物語を感じさせるような庭づくり。夢のある全体の統一感と、一方で細やかなテーマ性もほしい。そのための起伏づくりや、大道具小道具選びも、気が抜けない。

 

ガーデナーのお仕事って、大変だろうけど、奥深くてきっと楽しいだろうな。

 

私はもっぱら見せていただくだけだが、花園、大好き。特にこの季節のローズガーデンは、夢のように美しいので、できることなら毎日あちこち出向きたいところだ。笑

 

が、その願いはなかなか難しいので、こうして感動を書き残していこうと思う。あと1回くらいは出かけられそうかな?

 

雨上がりのローズガーデン、素敵だった。
でも、曇り空の下でも、もちろん晴れ渡ったピカピカの日でも、間違いない。5月のローズガーデンは絶対、素敵♡

 

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温かい法事と、辛い帰省(後編)

薔薇の花の画像

 

陽を受けて輝く新緑が美しい。
私の大好きな5月が始まった。

 

今、ゴールデンウィークの真っ只中。コロナ禍による行動制限のない3年ぶりの大型連休だということで、どこも賑わっている様子だ。

 

私は……今年も遠くには行かないつもり。混雑は昔から苦手で、不要不急でなければ人込みは避けたいタイプ。それにやっぱり、まだちょっと感染が怖い。

 

だからこそ、GWになる前の週に、新幹線に乗り清水に行ってきたのだった。

 

✻この記事は、前回の記事↓の続きです。

tsukikana.hatenablog.com

 


この前、清水に行ったのは3月の第2週。つまり1か月以上、誰も住んでいない家を放置してしまっていたことになる。4月も慌ただしかったが、3月も忙しかったのだ。塞ぎこんでもいたし。

 

夜になっても灯りもつけてもらえず、朝になっても雨戸も開けてもらえない。あの家が今、そんな状態にあることに、私は落ち着かない気持ちになる。そして、とても不憫に思えてくる。

 

気になっていたことがいろいろあった。

 

夏を前にして、小さな庭だけど、植物たちの様子が心配だった。近所迷惑にならぬよう、草抜きもしなくては。それに、害虫対策も。

 

水道の栓をひねり、水をジャーッと出したい。
家中に風を入れたい。掃除機をかけたい。

 

住人がいないので新たな汚れはないが、父が亡くなるまでに溜まった汚れはあちこちにある。全部は無理でも、害虫を呼びそうな汚れは、夏になる前の今のうちに落としておきたい。そして、ブラックキャップを置きまくりたい。(屋外タイプも貼り付けたい)

 

外置きの自転車2台を拭いてあげたい。電動アシストタイプなので、ちゃんと充電した後、盗難が心配なバッテリーははずし、家の中に置いておきたい。できれば、母の自転車は持ち帰りたい。(ちゃんと使ってあげたい)

 

2階のベランダで布団を干したい。布団カバーや冬用の敷きパッドも洗って、清潔にしておきたい。

 

遺品整理は、まだ心情的に積極的になれないが、父の下着類を処分するくらいなら今でもできそうだ。キッチンに残っている食品を片付け、可燃ごみは出し、不燃ごみはある程度まとめて持ち帰りたい。


他にも、いろいろやろうと思っていたことがあった。でも、結果的には、半分もできなかったかな。

 

時間が足りなかったし、それ以上に、体力が持たなかった。2階へ続く階段を、何十回上り下りしたことか。中腰で庭の植物をカットしたり、重い家具を動かしたり、4組分の布団を干したりしまったりするのも、結構な労力だった。

 

ドラッグストアへ買い出しに行ったり、未払いだった配食サービスの会社に支払いを済ませに行ったりと、徒歩や自転車で外出することも数度あった。そして、2日目と3日目は、静岡は4月とは思えない暑さだったのだ。

 

3日目の朝、自分の体の異変に気付き、舌打ちする。膝も太ももの裏も、おかしなことになってきた。筋肉痛?神経痛?頭もクラクラする。全然、お腹がすかない。まだ、やることいっぱいあるのに。

 

お昼過ぎに、夫がクルマで迎えに来てくれた。家の中を一通り見てもらうと、「…果てしないね」と。笑

 

ごみの処分や掃除もだけど、何より遺品整理のことは、本当に果てしなく感じる。もう、一度にいろいろ済ませようとせず、腰を据えて、一年くらいかけて通うしかないな、と思った。

 

業者に頼んでいっぺんに済ますこともできるだろうが、それはやはり、私には無理。ここで両親が暮らした年月を思いながら、寄り添ってくれたモノたちに、「ありがとう」と「さようなら」を言って手放していきたい。納得して、お別れしたい。

 

もちろん、決して簡単ではない、とはわかっている。捨てるのは忍びないな、と思うモノもたくさん出てくるだろうし、そうしたらそれらの行き先を考えなくてはならない。欲しいと言ってくれる人が見つかればいいけれど。フリマ、なんてやれる気がしない。リサイクルショップに持って行くことになるのかなあ。値が付かなくてもいいのだ、捨てたくないだけ。

 

そして、捨てることにしたモノもどう始末するか。そう、粗大ごみにしたって、手続きがいる。だいたい回収日の1週間前までに連絡しなくてはならないようだ。大まかな寸法も知らせておかなくてはいけない。これは、清水に行ける日を考えて、計画的にやらなくてはね。メジャーはどこにあったかな?

 

そして。。。
今後、片付けや整理をするために通いながら、清水の家の“これから”も考えなくてはいけないだろう。まだ今は、どうするかなんて決めたくないけれど。想像したくないけれど。でも当然、いずれは決めることになる。

 

アルバムや本、父の書類や服、趣味の物などについては、弟の農繁期が終わる冬くらいから、彼と相談し、どうするか考えようと思っている。それまでは、今、自分ができることを丁寧にやっていこう。

 


洗濯物をたたみ、小さなお仏壇を清める。母の自転車を、夫がなんとかクルマに乗せてくれた。雨戸を閉め、最後に戸締りをダブルチェック。玄関の鍵をかけた。

 

父と母が愛した家。また、来るからね、と声を掛けた。家が寂しがっているようで。

 

庭を眺め、花のついた薔薇の枝を持ち帰ろうと、少し切った。私は、名残り惜しんでいた。

 

そうそう。今回、こっそり帰省したつもりだったけど、布団や洗濯ものを干したから、近所の人には結構見つかってしまって。笑

 

でも、良かった。郵便物をたくさん預かっていてくれた伯母さま、ありがとう。自治会からのお香典を預かっていてくれた叔父さま、ありがとう。お悔やみの言葉とともに、茹でたてのタケノコを持ってきてくれたお向かいのYさん、ありがとう!

 

振り返ってみれば、私……とにかく、よく頑張ったではないか。草抜きはほとんどできなかったけど、大きくなり過ぎた紫蘭などはカットできたし、お米を含む食品類も処分したり持ち帰ったりで、害虫の心配も減ったし。(ブラックキャップも3箱分置けた)

 

2日間天気が良く、布団もたくさん干すことができた。キッチンのシンクもグリルも水切りカゴも、洗面所もピカピカに磨いた。あちこちに転がっていたお盆を7枚(なんでそんなにあるわけ?)くらい洗った。必要書類の入手と郵送など、事務処理も迅速にできた。偉いぞ、私!笑

 


辛い気持ちで始まった今回の帰省だったが、ある程度働けたことで、少し、前向きな気持ちになってきた気がする。体は、ガタガタになっちゃったけどね。筋肉痛に加え、少し風邪っぽく微熱が続き、奥歯の歯ぐきが痛みだした。完全に、体調を崩したようだ。でも、心は行く前よりもスッキリしていた。

 

帰る日の前の晩、父母の昔の往復書簡を読み、温かい気持ちになっていたことも、きっと大きい。ふたりが結婚する前の、恋人時代の数通と、結婚して子どもが生まれた後、父が試験を受けるため名古屋に研修出張をしていた頃の数通だ。

 

その手紙の束があの引き出しにあることは以前から知っていたが、父が存命中は読むことが憚られていた。それを、あの夜、ついに読んでしまったのだった。

 

すっっご~く――照れた!!

 

でも、嬉しかった。ふたりが当時、どんなに想い合っていたかを知ることができて。

 

親のそういうあからさまな恋愛感情を目にするのは、娘としては顔から火が出そうに恥ずかしかったけど、若き日の両親の純情を、微笑ましくしみじみと読ませてもらった。なんて可愛らしいふたりだったんだろう。

 

赤ちゃんだった私が登場したのも嬉しくて。愛称で呼ばれて、心配されて、自慢にされて。愛されていたことがよくわかり、面映ゆい思いはあったけど、心が「ありがとう」で溢れそうになった。そして、声を出して泣いている自分に驚いた。

 


今、あのふたりは天国で一緒にいるのかな。

 

四十九日の法要のとき、弟夫婦と長女一家、次女、夫、皆で過ごしたときの、あの温かい気持ちを思い出した。幼い孫娘たちを膝に乗せたときの、その重さと体温。お寺の鐘をつく順番を待っているときの、真剣な眼差し。小さな花を摘む小さな手。

 

激しい悲しみや無念さも、波はあるものの次第に優しく角がとれていき、辛さばかりがこみ上げた帰省への印象も、やがて思い出を懐かしみ、感謝するものへと形を変えていくのだろう。
人は温かい気持ちに戻りたがる生き物だから。

 

今、体調も回復し、精神的にも少し余裕が出てきたように感じている。ひとまず清水の家の夏支度ができたことだし、私は、私が一年で一番好きな5月を、これからちゃんと楽しんでいきたいと思う。

 

ゴールデンウィークが終わったら、まずはローズガーデンに行こうかな♡

 

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温かい法事と、辛い帰省(前編)

馬籠宿の画像

 

今日は父母の月命日。
慌ただしかった4月が終わろうとしている。

 

先週末、清水から帰った後、私は体調を崩してしまった。ようやく回復しつつあるが、今日のような曇天の日は頭が重く、食欲がない。

 

気温のアップダウンの激しさ、ころころと変わるお天気。
美しい日も多い4月だが、夏へと向かうこの季節のあらゆる変化が、還暦を超えた体にこたえる。「自愛」はもう、日常となっている。笑

 

 

弟の暮らす岐阜の地で、過日、父の四十九日の法要が執り行われた。

 

前日には関西で暮らす長女一家5人が我が家に来て一泊。普段、夫婦ふたりで静かに生活している私たちにとって、それは一大イベントだった。次女も来たので全部で8人。狭い家に、よく泊まれたものだと思う。

 

当日は快晴。クルマ2台で岐阜の山あいのお寺を目指す。ちょうど桜が見頃で、裏木曽街道を走りながら、川沿いを彩る花の美しさに、何度も歓声を上げてしまった。

 

法要でも、その後の納骨式でも、3人の孫娘たちは神妙な顔でお経を聞き、手を合わせ、いい子にしていてくれた。

 

4歳児と、2歳児の双子。温かな時間が流れる。父も母も、目を細めて見ていてくれたのではないかな。

 

この後、会食(お料理、素晴らしかった!)が行われた旅館に、私たちはそのまま宿泊した。前日、我が家でギューギュー詰めで過ごした8人は、広いお宿で伸び伸びとくつろぎ、温泉もいただいて、思いがけず旅行気分を味わうことができた。

 

旅行って、そういえばもう随分していない。ましてや娘一家との旅は、これが初めてである。なかなか会えない長女、そして孫娘たちと、たっぷり触れ合うことができた旅。こんな機会を与えてくれた父に、感謝しなくてはね。

 


翌日は、弟の経営する農園(彼は十数年前脱サラで就農)のトマトハウスを見学した後、長女の夫君の希望で馬籠宿を目指した。

 

馬籠宿は私、初めてで♡

 

連なる山々の頂きにはまだ雪も残り、桜も満開。月曜日ということもあってか、観光客もまばらで歩きやすく、坂道の宿場町の雰囲気を、十分に堪能することができた。とても美しい町だと思い、中山道の素敵な名所を、他にもいろいろ訪ねてみたくなった。

 


イベントをたくさん盛り込んだ3日間。さすがにクタクタになったけれど、父をこの手で、母の待つまだ新しいお墓に納めることができ、家族揃って両親に手を合わせることもでき、そして楽しいひとときも過ごさせていただけたので、心は本当に満たされた。

 

私の両親にとって初孫である、長女。ずっとずっと愛されてきた彼女が、今回初めてお墓参りできたことも感慨深い。彼女が自分の家族を叔父(私の弟)夫婦に紹介できたのも初めてのことで、それぞれ遠く離れて住んでいるということを、そしてコロナ禍で長い間、移動を制限されてきたという事実を、改めて実感した。

 

でも、だからこその、貴い時間だったのかもしれない。

 


四十九日が済み、ほっと一息ついたのも束の間、私や弟にはまだまだたくさんのミッションが待っている。まあ、そこまで慌てなくても良いのだが、これから農繁期を迎える弟が動きにくくなる分、私が頑張らなくてはいけないと思っているのだ。きっとこれも、貴い経験になるのだろう。

 

それで。
先週は清水の家に行ってきた。

 

当たり前なのだけど、清水の家に行っても、誰も迎えてはくれない。母はもういない。あの父さえも、もう…。

 

これは、なかなかのキツさだった。歩きながら、涙が溢れそうになる。

 

今後の手続きのため、区役所で必要書類を請求し、図書館で住宅地図のコピーを取るといった、今回の一番の用事を済ませ、家に向かった。

 

玄関を開けると、いつもの匂いがする。母が使う柔軟剤の匂いなのかな。あの家はいつも、ちょっと良い匂いがするのだ。

 

外置きの自転車のバッテリーも無事、家の中も空き巣に入られた様子はない。私は安堵して靴を脱いだ。

 

父母がいなくなった実家を、これから私は、何度も何度も訪れなくてはならないだろう。
覚悟、しなくては。

(次回に続く)


✻前回の記事を読んでくださった皆さん、そしてはてなスターをくださった皆さん、ありがとうございました。たくさんの励ましのお気持ちを感じ、とても嬉しかったです。また、コメントやフォームでメッセージをくださったユラ(id:yuraneco)さん、ブクマコメントをくださったあかね(id:akane2020)さん、ひまり(id:pintocare)さん、本当にありがとうございます。インスタのDMやLINEでも、父の死を悼んでくださるお言葉の数々や、ご自身の体験談をいただき、涙しました。優しいお気持ちに感謝しております。

それなのに……またまた更新が遅くなりました。申し訳ない思いです。

用事が重なり多忙、体もあちこち故障ぎみですが、何より頭と心が忙しく騒がしく、くたびれ果てておりました。PCに向かうことすら前向きになれない有様。書きたいことはたくさんあるのですが……。

あれこれまとめて書こうと思っていましたけれど、それではかえって後回しにしてしまいがちだと、ようやく気付きました。それで、私にしては珍しく2回に分けて書こうと思った次第です。
よろしければ、どうぞお付き合いください。

 

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お父さん、ごめんね・・・

桜のある風景

 

満開の桜並木を歩いていると、自分はこのまま異世界に抜けていくのではないか、と思えるときがある。

 

毎年、飽きもせず同じような写真を撮ってきたが、今年はあまり気が乗らない。ただ、見つめて、見渡して、桜を感じながら歩いていたい。

 

桜に限らず、今を咲き誇る花々をちゃんと見て、褒めてあげたいと思う。“今”を意識して心に刻みたいと思う。来週のことはもう、わからないから。来年また見られるとは、言い切れないから。

 


外を歩いているとき、杖をついた老婦人を見掛けると、思わず駆け寄りそうになる。そんなことがここ2年ほど、よくあった。

 

ああ、お母さんじゃないんだ。
ああ、お母さんはもう、いないんだ。

 

気がついて、ぼんやり歩いていた自分に呆れ、その後、寂しい気持ちになる。
これからは、体形が父に似た老紳士を見掛けても、ふと駆け寄りそうになるのかな。

 

ああ、お父さんじゃないんだ。
ああ、お父さんはもう、いないんだ。

 


父が他界してひと月がたった。信じられない展開が続き、あっという間のお別れだった。今もまだ、この事実を信じきれていない自分がいる。これは、本当にあったことなの?

 

1月の半ばに、心臓のペースメーカーの交換手術をして、元気に退院して、バッテリーは満タン、さあこれからだね!って笑っていたのに、どうしてこんなことになってしまったのか。

 

何十年も動かないでいてくれた結石が、なんでこのコロナ禍に動いてしまったのか。どうして手術・入院した病院で、院内感染が爆発的に広がってしまったのか。

 

一度は退院できたのに、再入院。病状は持ち直したけど、また悪化。清水の家で、父の退院後のことを弟とケアマネジャーと相談していたちょうどそのとき、病院から急変の知らせが入った。

 

やっと許された面会。けれども、もう父の息はなく。。。
顔を触れば、まだ温もりがあった。間に合わなかったけど、温かい父に触れることができた。

 

寂しがり屋の父が、最期までひとりだったこと、痛いのが大の苦手の父が、両手両足、点滴の痕で紫の斑点だらけになっていたこと。私は震えた。どんなに情けなく悲しかっただろうと、弟とふたり、号泣してしまった。

 

 お父さん、寂しい思いをさせてごめんね。
 親父、守ってやれなくてごめん。

 


89歳という年齢を考えれば、大往生だと思う人もいるだろう。
でも、私も弟も、悔しかった。残念だった。

 

絶対、帰ってくると信じていたから。退院後は衰弱が激しいだろうから、まずはリハビリのできる施設に行ってもらうことになるだろうけど、父には必ず楽しい気持ちになってもらおうと、たくさん笑ってもらおうと、強く思っていたから。

 

私にも弟にも会えない入院生活の末、痛い点滴や検査、術後の疼痛や死への恐怖にひとり耐えさせたまま、お別れの言葉も交わせないまま、父を逝かせてしまった。

 

何か他に手立てはなかったのか。
どこかで何かを間違えたのではないか。

 

可哀そうで、申し訳なくて、悔しくて。
だけど、本当のこととは思えず(思いたくなく)、受け入れられなくて。

 

そして、いい年をして変な言い方だけど、まるで“みなしご”にでもなったようなショックと心許なさを、私も弟も感じていた。父の存在は、私たち姉弟にはとても大きかったのだ。

 


しかし、現実は打ちのめされている者にも厳しい。もの思いにふけってばかりはいさせてくれない。決めていかねばならないこと、実行していかねばならないことが無数にあった。
手続き、手配、打ち合わせ……etc。
身内が亡くなるというのは、大変なことだ。

 

弟と相談しながら、戸惑いつつも、ほぼ問題なく進めることができたのは、2年前の母のときの経験があったからだろう。まだやることはたくさん残っているものの、気忙しさは薄れてきた。後のことは、焦らずに、ゆっくり考えながら進めていこうと思う。

 


父が倒れてからずっと、からだもこころも緊張し続け、ガチガチにこわばっていた。それが、最近になってようやく少し、ほぐれてきたように感じる。夫や娘たち、友人たちのおかげだろう。

 

少しは落ち着いてきた?と聞かれると、そうかもしれないな、とは思う。気遣いをいただいてることに感謝もする。ただ、落ち着くってどんなことかなあと、自分の内面を覗き込めば、そこには深い暗闇が口を開けていたりする。

 


夕方。5時くらいになると、「あ。電話しなきゃ」と思う。

 

ペースメーカー手術の2週間前から、体温や血圧など体調を書き込む用紙に記入しなければならず、父はそれを忘れそうだと心配していた。それで私は毎日、時間を決めて電話をし、検温した?などと確認していたのだ。

 

そのことが習慣になって、退院してからも夕方5時くらいに電話をかけ続けていた。父が散歩中だったこともあったし、ケアマネさんが訪ねてきてくれたちょうどそのときだったこともあった。

 

これからお米を炊くんだと言ってた日も。今夜のおかずは何?なんて聞いて、父の日常が無事に動いていることに安堵していた。ほんの、2か月前まで。

 


もう、心配しなくていいんだ。
夜、ちゃんと眠れたのか、とか。
寂しがっていないか、だとか。
転んで怪我したりしなかっただろうか、とか。
もう、心配しながら電話しなくていい。

 

それなのに、今も午後5時近くになると、いつもそうしていたように、私は父に電話をかけそうになる。いや、一度は本当にかけてしまった。いや、一度でなく三度……。

 

電話を切る前に、いつも「はい、サンキュー」と言ってくれた父の声を、もう聞くことはない。それがこんなに信じがたいことで、全身を走る痛みにつながることであったとは。

 

弟と、父の思い出話をけらけら笑いながら、したりもできてるんだけどな。なんで、夕方ひとりだと、こんなに苦しく辛くなってしまうのか。

 

私は母の遺影の前に行き、気が済むまで母に話し掛ける。母はいつものように、微笑んでいる。

 

父は、母と同じ28日に旅立った。月命日が、同じ。ずっとずっと、同じ。どこまで仲良しなんだ。

 

お母さん、連れて行っちゃったんでしょ。
お母さんもお父さんも、もう寂しくないね。

 

父が母のところに行ったのだと思うと、不思議なことに少し、胸が温かくなる。肩のあたりもちょっとだけ軽くなる気がする。

 

「今夜のおかずは何にするんだっけ」と、生きている者は現実に戻っていく。戻されていく。

 

✻母とのお別れの話は、こちらで書きました↓

tsukikana.hatenablog.com

 


✻明日はもう4月。ご無沙汰しております。
多忙と脱力。何度かこのブログを更新しようとしたのですが気持ちが乱れ、その度、諦めました。もう書けないんじゃないかとも思いました。母のときもきつかったけど、今回はかなりヘビーでした。でも、これを書かなければ、もうきっとこの先のことが書けなくなる。それは残念だ。そう考えてやっと書くことを頑張れました。重たい話でごめんなさい。最後まで読んでくださって、ありがとうございます。

冒頭の写真は去年撮ったものです。世界中がもう、大変ですけど、桜は今年も美しく咲いてくれましたね。皆さん、たくさん見てあげましょうね。愛でてあげましょうね。穏やかで優しい気持ちが、どうか世界に広がっていきますように。

 

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癒えていく朝―散らばり踊る光たち

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お日さまのパワーってすごいな。

 

これまで生きてきて、何度そう思ったことだろう。特に冬場は、体を温めてくれたり洗濯物を乾かしてくれたり、お日さまには助けてもらうことばかり。

 

心にまで染みわたるような優しさや明るさ。雨や薄曇りの暗い日が続いた後などは、朝の光がどれほど素敵なものだったかを、感謝とともに思い出す。

 

日光は誰にでも平等に降り注ぐ。そして、誰もが無料で享受できる。なんと素晴らしく、ありがたいことか。

 


ヒューレン博士が永眠された。
その訃報を知ったのは、先週の月曜日。清水でひとり暮らしをしている父の元に行く、新幹線の中だった。

 

今回の清水行きは、心臓のペースメーカーの電池交換手術をする父のため、入院準備や退院後のサポートをするという、いつもより重いミッション。電池交換自体はさほど大変な手術ではないが、なにしろ89歳という高齢で、複数の持病がある。何があるかわからない、という不安がずっと、私の気持ちを暗くしていた。

 

そんな中でのこの訃報。私はひたすら、クリーニングをし続けた。クリーニングとは、ホ・オポノポノ(ハワイ発祥の問題解決法)における、古いメモリーを削除する行為のこと。クリーニングツールはさまざまあるが、このとき、私は四つの言葉を心の中で繰り返す方法をとり、私の中のインナーチャイルド、ウニヒピリ(潜在意識)の動揺をなだめた。

 

 ありがとう
 ごめんなさい
 許してください
 愛しています

 

✻ホ・オポノポノについては、こちらでいくつか書いています。よろしければご覧ください↓

tsukikana.hatenablog.com

 


ホ・オポノポノに親しんで6年以上がたつが、ヒューレン博士について、私はこれまで、そんなに何かを思ったことはなかった。

 

SITHホ・オポノポノの創始者であるモーナ・ナラマク・シメオナ氏の後継者であること、モーナ氏の一番弟子であるカマイリ・ラファエロヴィッチさんとともに、世界にこのメソッドを広めた第一人者であること。それくらいしか知らない。講師を引退されてずいぶんたつということも、その訃報の中で知った。

※SITH(セルフ・アイデンティティー・スルー)ホ・オポノポノとは、古代からハワイに伝わる問題解決法のホ・オポノポノを、誰に頼らなくても、ひとりで、いつでも、どこでもできるように、新しく創り出されたメソッド。

 

お会いしたこともないヒューレン博士。でも、新幹線の中で、気がつくと私は涙を流していた。すごく寂しい。何故だろう。ホ・オポノポノの本や手帳、ネットの写真や動画で、そのお顔を何度も拝見していたから、なのだろうか。

 

ヒューレン博士の人となりについては、追悼動画に寄せられているメッセージ、ジョアン・カイリケアさんの文章が、とてもわかりやすいと思った。

www.youtube.com

 


さて。
父の手術は無事に済み、入院前日に岐阜から駆け付けてくれた弟とともに、安堵した。術後も良好で、顔色も良く元気そうだったので、私と弟は退院の翌日、清水を後にした。寂しそうな父の様子に、ものすごく後ろ髪を引かれたが。

 

世の中は感染再拡大。清水滞在中に、私の住む地域も弟の住む地域も、まん延防止等重点措置が実施されることになった。今日からは、父の住む静岡県も、だ。

 


清水から帰ると、私はいつもぐったりしてしまうのだが、今回はいつも以上の疲労感だった。

 

辛い1週間だったな。睡眠不足だし、体もあちこち痛んだが、それ以上に精神的にかなり消耗したようだ。さまざまな心配や不安が重なって、しかもそれがまだ続くのだ、という思い。これからどうなるのだろう、という恐怖。

 

でも。
今はまず、自分を癒そう。そう思い、私はクリーニングを続けた。

 

“Just Do it!”

 

ヒューレン博士は、よくそう言っていた。ただクリーニングをしてください、と。とにかくやってみて、と。

 


今朝。きれいな朝の光が部屋に差し込んできた。何故だか、はっとした。
多分、私の中でウニヒピリが望んだのだと思う。「光を、プリズムにして部屋中に散らしてみて」という声が、内側で響いた。

 

私は、本棚に置いてある銀色の小さなカゴを、窓辺の椅子に移した。このカゴの持ち手には、ティアドロップ型のガラスチャームがぶら下げてある。ずっと昔に買った「Y's」の白シャツに付いていた襟先のチャームだ。シャツがお役御免になった後も、捨てられずに手元にあったもの。先日ふと、気まぐれでカゴに吊るしたのだった。

 

果たして。
ガラスのチャームはサンキャッチャーとなり、虹色の小さな光があちらこちらに散らばった。ゆらゆら揺れて、光も踊る。

 

なんて美しく、そして楽し気な光景なのだろう。

 

光のダンスにしばらく見惚れて、写真を撮って、私はウニヒピリに話し掛けた。きれいだね、と。ウニヒピリは喜び、癒やされていた。

 

からだの痛みは、昨日から軽減されてきていたが、私はこのとき、心も浄化され、癒えてきたことを感じた。ウニヒピリが喜べば、私は好転する。これまでも、何度も実感してきたことだ。もう疑いようがない。

 

とてもとても些細なことだったりもするけど、たとえ小さな好転であったとしても、私はそれをこれからも見逃さずにいたい。そして、必ずウニヒピリに「あなたのおかげだよ、ありがとう」と言ってあげたい。自分の中の本当の私を、置いてきぼりにしたくない。

 


世の中の状況も。父の今後のことも。非力な私にはどうしたらいいのか、まるでわからない。ただ、日々クリーニングして、ウニヒピリに愛を伝えて、降りてきたインスピレーションに従って良かれと思うことをやるだけだ。

 

“Just Do it!”

 

そういえば、写真で見るヒューレン博士の優しい笑顔は、どこか太陽を思わせる。心を温めてくれるような、ユーモラスで可愛い雰囲気のおじいちゃんだった。

 

イハレアカラ・ヒューレンさん。2022年1月15日逝去。享年82歳。
ホ・オポノポノの導きを伝えてくださった。クリーニングの機会を与えてくださった。ありがとう。本当にありがとうございます。

 

“Just Do it!”

 

毎日のニュースを見聞きして自分が感じたこと、毎日の父との電話で自分が思ったことを、私はこれからも、ただひたすらクリーニングしていこうと思う。

 

 焦りをクリーニング
 期待をクリーニング
 判断をクリーニング

 

そして、寂しさもクリーニングしていこう。

 

天気の良い朝には、また一緒に光のダンスを見ようね、と、私は私のウニヒピリに声を掛けた。今日からまた、明るい方を向いて歩いていける気がする。

 

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ワントーン明るく!

クロスについた水滴の画像

 

家の窓から遊園地の観覧車が見える。
クリスマスあたりから日が暮れるとライトアップされ、毎晩これを見るのが、冬の間の私のちょっとした楽しみになっている。

 

小さな光のつぶが、指輪のように円形に並んできらめき、とっても綺麗。色はグリーンとゴールド。ところどころ、赤いつぶも配置した可愛い指輪だ。

 

これ、ごく近くで見たら印象が変わるのだろうなあ…とも、実は思う。夜に観覧車のそばまで行ったことはなかったけど、多分そうだ。

 

冬の冷えた空気を通ってここまで届いた光。寒風を抜けて、星のようにまたたいて。だからきっと、私の好みの色と、控えめな輝きになっているのだと思う。

 


透明感のある色味が好き。
光を通したステンドグラスとか、江戸切子のカットグラスとか。クリスタルガラスの淡色のビーズも見惚れる。いや、ビー玉やおはじきだっていい。

 

思うに私、色のついたガラスが好きみたいだ。それを光にかざして少し色を飛ばし、輝きを加えた感じ。小さい頃からずっと、そういう色を目にすると心が弾んだ。

 


「好きな色は何色?」
と聞かれると、ちょっと困った。

 

赤も白も青も、緑も黄もピンクも好きだし、同じ赤でも好きな色味とそうでない色味があった。だから、グラデーションが美しい「虹」の色が好き、などと答えたりした。虹の、はかなげな淡い質感も好きだった。

 


透明感がない色味も、実は好き。
私は1年くらい前から刺し子に興味を持ち、それ以来、刺し子糸の持つマットな色の味わいに、これでもかと魅了され続けている。

 

パステル系の優しい桃色の糸が春のお花畑を作り、こっくりとした葡萄色で刺せば、たちまち秋の景色が広がる。複数の糸色の組み合わせによる表情の変化ときたら、軽く衝撃を受けるほどだ。色って本当に、奥が深くて面白い。

 

✻刺し子ブログも書き始めています↓

tsukikana2.hatenablog.com

 


ここ数年、ニュアンスカラーとかくすみカラーと呼ばれる色味に、人気があるようだ。ちょっとスモーキーな、グレイがかったような中間色。刺し子糸にもよくある。柔らかで上品な印象で、昔から目にしていたはずだが、何故か新鮮に感じる。

 

最近は衣料系だけでなく、例えば文具などでもよく見掛けるようになり、私も数か月前、100円ショップでくすみカラーの色画用紙と付箋、丸シールを衝動的に買った。この手の商品のビビッドな色の氾濫に、ちょっと疲れているのかもしれない。

 


色のトーンや輝きによって、気分というものはある程度コントロールできるようだ。

 

例えばスマホのカメラで撮影をするとき、私はほぼ毎回、ワントーン明るめに設定する。その方が心地良いからだ。

 

物撮りをするときは、照明を使わなくて済むように、できるだけ自然光の中に置くのだが、あまりに光が強いと影が濃く出てしまう。そんなときは、レースのカーテン越しの光にして、設定のコントラストを下げ、明るさを上げるようにすると、望んでいた表情に近づく。

 

時にはワントーンどころか「白飛び」と思われるくらい、明度を上げてしまうこともある。が、それがその時の気分だったり、狙いだったりすることもあるので、それもまた良しとする。

 

最近、トンボのABTでいたずら描きみたいなイラストを描くことが増えたのだけど、これも水筆を使って、ワントーン明るく、淡くしてみると、自分が欲しかった表現に近づく。

✻私のお気に入りのABTはノルディックの6色セット↓

トンボ鉛筆 筆ペン デュアルブラッシュペン ABT 6色セット ノルディック AB-T6CNR

 

今の私、ワントーン明るめが好みのようだ。
そうか。この際、気持ちの方もワントーン上げるように心掛けよう♪

 


ところで。
今年2022年のトレンドカラー(流行色)は、「ジョリー・コーラル」と「ベリー・ペリ」なのだとか。ん?どんな色?ってなるのは、私だけじゃないと思う。笑

 

ジョリー・コーラルは、JAFCAという“色”にまつわる事業を行っている協会が選んだトレンドカラーで、オレンジをベースとした、優しい蛍光色カラーとのこと。カラーコードが付いていたので、ちょっと再現して貼ってみる。

Jolly Coral(#F18D5F)の画像

Jolly Coral(#F18D5F)

新型コロナウイルスやそれによって制限された生活に不安を感じていた2020年、2021年。先行きの見えない社会で生きる私たちを労り、前へと導いてくれる、という意味が込められた色である。

 

そして、ベリー・ペリは、PANTONEという世界的な色見本帳を出している企業が選んだカラー・オブ・ザ・イヤーで、初の新色とのこと。少し紫がかった淡いブルーだ。

Very Peri(#6667AB)の画像

Very Peri(#6667AB)

このカラーは、すべての青のなかで最も幸せで温かみがあり、同時に新しさや力強さをもたらす色だ、と同社は言う。

 

✻「Workship MAGAZINE」などを参照

goworkship.com

 


私たちの未来に新しい光を照らし、導いてくれる。そんな今年のトレンドカラーを、生活の中に取り入れてみるのも良さそうだ。

 

で、私はそれをやっぱり、ワントーン明るくしようかな、と思う。いや、たっぷりと明るくしてみようかな。ワントーンのワンというのは、非常に曖昧だけど、融通がきくとも言えて、便利かもしれない。笑

 

私の中でも、2022年が動き出している。
明るく優しく柔らかい色たちに力を貸してもらえば、毎日がもっと素敵になるのではないか。
そんな気がする。

 


✻遅くなりましたが、本年初の更新です。2022年も、どうぞよろしくお願いいたします。
本当に、明るい光に照らされるような年になってほしいですね。
厳しい寒さが続きますが、心身、どうぞご自愛ください。

 

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