一筋の光、降り注ぐ光。

人生はなかなかに試練が多くて。7回転んでも8回起き上がるために、私に力をくれたモノたちを記録します。

母の入院で事態は急展開―遠距離介護が始まった

f:id:tsukikana:20200330235509j:plain

 

母が歩く夢を見た。

 

退院した母が、土間のような場所に立ち、そこから明るい外を見て
「あらぁ」
と嬉しそうに、ゆっくりと、薄桃色の紗がかかったような春の庭に出て、表の道を歩き出した。
杖もなしで、父の肩に手を掛けて。

 

「待って」
と私は慌てて追いかけ、母の手を取った。

 

「お母さん、歩いているじゃない、すごい!」
と私が驚くと、微笑んだ母。
「良かったぁ。治ったんだね。もう歩けないかと思ったよ。怖かったよ」
と私は涙ぐむ。母の手を両手で包む。

 

良かった・・・という自分の声がもう一度、私の口から出かかったとき、眠りの淵からこちらに戻ってくる感覚がわかり、私は絶望を感じた。

 

いやだ。目覚めたくない!
ずっと、夢の中にいたかった。

 


寝つきの悪い日が続いている。明け方、ようやく眠れても、妙な夢を見て目覚めることが多くなった。しかし、母の夢は初めてだ。淡い光に包まれた母は、とても綺麗だった。

 

現実の母は、病院にいる。父母の暮らす静岡市の清水に、私は3月に3回、行っている。ここ数年、年に1回帰るか帰らないか、のペースだったのに。

 

「深刻な話じゃないんだけどさ」と弟から電話があったのが2月の25日。母の足の痛みがひどくなり、もう杖をついても歩行が困難になった。車椅子や介護ベッド、手摺を導入することになったから来てくれと、父から弟にSOSが来たという話だった。明後日、行ってくるよと。

 

私も3月1日に弟と入れ替わりで駆け付けて、家のことを手伝ったり、母を元気づけたりしてきたが、あの頃はまだ、本当にこんなに深刻になるとは思っていなかった。2階から1階に寝室が移り、生活パターンの変化に慣れるまでは大変かな、くらいな感じだった。

 

3月12日。手摺設置の立ち合い等で、弟が岐阜から静岡に行ったその日、ケアマネージャーの勧めで、母は7泊のショートステイに入所となった。父の腰痛がひどく、母を介護するのが困難だと思われたための選択。

 

私はむしろ、ほっとした。父の腰の養生ができる時間がもらえたわけだし、介護のプロに母をお任せできるのは安心だと思ったから。

 

ところが、16日に事態は一変した。ショートステイ先で食事にほとんど手を付けなかった母は、脱水症状を心配され急遽診察を受け、入院となったのだ。今度は父から私にSOSが来た。

 

慌てて新幹線で静岡へ。不安なまま病院に到着すると、母は「おなかがすいた」と言っている。「だって朝から何も食べてないんだもの」と。「あなたが拒否してたんでしょうー」と力が抜けたが、ともかくほっとして、売店でパンとおにぎり、リンゴジュースを買ってくる。

 

しかし、医師から別室で聞かされた母の容体は、ステージ4。母はかつて膀胱癌と大腸癌の摘出手術をしており、その後癌は肺に転移していたが、医師からは「今すぐどうこうなるという進行ではない」と言われている、と私は両親から聞いていた。

 

進行、していたのだ。多分、年末くらいから。あの足の痛みは腰椎からではなく、癌のもたらす痛みだったのだ。

 

急性期病院であるため、母が入院できるのは最長60日まで。退院後はどうするか、つまり自宅で療養するか、療養型病院に転院するか、家族で話し合ってください、と言われた。高齢の父では介護力が足りないと思われるので、療養型病院をお勧めしたい、とも。

 

父の世代は皆、そうなのだろうか。療養型病院に対する偏見がすごい。巷では「姥捨て山」と呼ぶ人もいる、などと言い、絶対にそんな所へ入れるのは嫌だと顔をしかめた。「死なばもろともで俺が看る」と。

 

弟とも相談しようと、その日は父をなだめて帰ったのだが、母の現状を知ったショックの上、今後迫られる判断の厳しさに、私は頭を抱えた。加えて、父の動揺と憔悴への対応。

 

弟はもちろん「お父さん一人で看るなんて絶対無理。説得しなくちゃ」と電話で言った。23日に市の介護認定の調査がもともと予定されており、場所は自宅から病室に変更になったとはいえ、私も弟夫婦も揃うので、その日に相談しようということになった。

 

入院騒動で慌てて駆け付けたが、とにかく3日間、父のそばにいた。そして、ショックを受けた者同士がその後の時間を少しでも共有することは、とても大事なことのような気がした。

 

「お母さん、だいぶ悪そうだぞ。やばいかもな」
「うん、私もそう思った。・・・怖いね」
「そうだな。怖いな」

 

とても受け入れられないと思ったことでも、受け入れなければならないことがあるのだと、人は時間をかけて自分を納得させ、覚悟をしていくものなのかもしれない。

 

23日は夫も仕事を休んで、一緒に清水に行ってくれた。ケアマネと病院の相談員、看護師を交えての話し合いが行われ、父は療養型病院に母を入れることを承知してくれた。ケアマネから、自宅介護の具体的な内容を聞き、訪問看護や訪問診療、介護サービスがあっても、夜間などの不安が現実問題として実感できたようだった。

 

しかし、とても家に帰りたがっている母の願いを、私も叶えてあげたい。そこで、1週間でも5日でも、一度家で過ごしてもらい、その後で療養型病院に入院することにしてはどうかという、ケアマネの提案に賛成した。その間、私が泊まり込み、父をサポートするということで。もう、それしかない、という感じだった。頑張ろう、悔いを残したくない、と。

 

25日の朝、父は療養型病院に電話をし、その日の午後に面談の予約を入れてくれた。母の見舞いを済ませ、私は人工膀胱のケアのレクチャーを受け、父とともに転院先となるその病院に向かった。

 

さまざまな聞き取りと、入院手続きの説明を受けた。病院側の受入日が決まったら連絡をもらい、そこから逆算して自宅療養期間を取り、今入院している病院を退院する日が決まるという流れ。母の現状を思えば早い方がいいな、と思っていたのだが、ここで思わぬお知らせを聞くことになる。

 

「申し訳ないのですが、新型コロナウィルス感染防止のため、現在、ご家族であっても一切の面会をお断りしているのです」

 

私と父は面食らい、絶句した。確かに、今の世の中は、そういうことを了承しなくてはいけない状況だ。でも・・・

 

私の脳裏に「姥捨て山」という言葉がよみがえる。誰も会いに行かなかったら、母は本当に「捨てられた気持ち」になってしまうのではないか?

 

今入院している病院は、不要不急のお見舞いはご遠慮くださいとは言っているが、現状、面会できている。母を早く退院させるということは、母に会えなくなる日も早めてしまうということになるのだ。

 

むしろゆっくりの方が良いのか。母の早く帰りたいという願いを叶えることは、果たして良いことなのか。頭が混乱した。コロナめ!と心底憎んだ。しかし。

 

「この新型コロナ禍で苦しんでいる人がどれだけいることか。それを考えると、こうした状況もお母さんの、そして私たちの、受け入れなくてはならない運命なのかもしれないね」と隣の父に言うと、「そうだな」と頷いた。病院サイドのご都合日に従う、ということにした。

 

帰り道、バスを降りて、父たちが少年時代、青年時代を過ごした街を歩いた。思い出をたくさん、聞かせてくれた。初めて聞く話がほとんどで、とても興味深くて。ああ、お父さんは本当に清水っ子で、清水が好きなんだね、と、今の苦しみを脇に置いておけるくらい、優しい気持ちに浸ることができた。

 

入院した日、おなかがすいたと言って私たちを笑わせてくれた母は、しかしその後、どんどん食が細くなっている。病院食はほとんど手を付けない。リンゴやチョコレートをほんの一かけら、口に入れてくれたけど、もう結構と言われてしまった。

 

「食べて、点滴がはずれるようになったら、退院できるんだよ」と、母に食事をさせようとする父の目は悲しそうで、直視できなかった。

 

85歳なんだもの、何が起きてもおかしくない。頭ではわかっていても、心がついてこない。母にはもっと生きていてほしい。ベッドで私の手を力なく握り、そのままウトウトしてしまった母の顔は、少女のようだった。私は、自分がどんなに母を愛しているかを悟った。

 

「お母さん、お願い、食べて・・・」

 

清水から帰ってからずっと、そう願っていた。毎日、祈っていた。

 

昨夜、義妹(弟の連れ合い)からラインで、弟の高知県の友人が作っているミニトマトを送ったら、母が昨日は3粒、今日は6粒食べたよと、父から電話があったことを教えてくれた。

 

じわじわと、嬉しさがこみあげてきた。弟に、義妹に、高知の彼に、そして誰にともなく、トマトにまで感謝の気持ちがあふれてきて、昨夜はひとり、夜更けまで泣いてしまった。

 

この義妹が、よくできた人で。可愛くて優しくてさっぱりしていて気が利いて、私は昔から大好きだった。

 

もう10年以上会っていなかったのがここ最近で2度会って、ラインでやり取りが活発になってからは、ますます好きになっている。父の腎臓病のこともずっと心配してくれて、今度は父の要支援認定の申請をしようと動いてくれている。

 

私と弟と、夫と義妹。義妹が用意してくれたグループラインで今、情報を共有しつつ、相談しながら、勉強しながら、皆で遠距離介護を始めた。

 

遠く離れて暮らす老親のために、何ができるのか。忙しい中、それぞれが自分のできる最善を尽くし、皆で協力をするということを、初めて経験させてもらっている。それはもしかしたら、母からのギフトなのかもしれない。

 

既に両親を見送っている夫、お父さまを亡くしている義妹に、どんなことを大切に考えたら良いか、指南してもらいながら、私も弟も、父母のために今できることをしたいと思っている。

 

・・・母に、桜を、見せてあげたいなあ。

 

 


前回、もう少し頻度を上げて書いていきたいと言っておきながら、また日があいてしまいました。申し訳ないのですが、しばらくこんな状態が続くかもしれません。各方面、不義理をしてしまっている方も。。。この場を借りてお詫びします。ごめんなさい。

 

次郎長親分と南岡町

f:id:tsukikana:20200312090010j:plain

 

手を洗い過ぎて手荒れが大変。ハンドミルクの減りが激しい、ここ数週間。ニューコロナ関連の日々のニュースには本当に気が滅入る。明るい兆しが早く見えないものか。

 

前回の記事で、明るい気分で3月を迎えたい、と書いたけれど、なかなかそうは問屋が卸してくれない。母の様態が思わしくなく、先週、静岡の実家に行ってきた。

 

頸椎から足を痛め、杖を使っていた母が、いよいよそれでも歩くのが困難になり、車椅子と介護ベッド、家の各所に手摺を導入することに。

 

先行して弟が行ってくれていたが、交代で私が4日間。初日は夫も来てくれて、キッチンのシンク周りを磨くなど、一生懸命協力してくれた。

 

私も母の通院に同行する他、2階のトイレを掃除したり、網戸と窓を拭いたり、洗面所やバスルーム、キッチンの排水口を掃除したり。長い間、放っておかれたようだった。あの綺麗好きな母がこの状態を許してしまうほど動けなくなっていたとは、と、こみ上げるものがあった。

 

父は以前は全く家事をしなかったが、母の足が悪くなってから、買い物や洗濯もの干しなど、進んでしてくれるようになったようだ。簡単な食事作りもできるようになっている。家事力が上がったのは素晴らしいことだが、やはり掃除系は後回しらしい。

 

近くに住んでいたら、毎日のように手伝いに来られるのに・・・

 

考えても仕方のないことを、つい考えてしまう。弟も私も遠方に住んでいて、駆け付けるにしても3~4時間はかかるのだった。

 

私は静岡県清水市(今は合併して静岡市)で生まれた。しかし、父が転勤族だったため、清水に住んだのは生まれてからの数年と、小学校2年の秋から5年の秋まで。だから、この町は父母にとってはふるさとでも、私にとっては「生まれた町」「住んだことのある町」としか言えない。

 

父は私が結婚した後、定年を迎え、清水に家を建てた。つまり、父母の住む今の家に私は住んだことがない。遊びに行くだけだった。

 

でも、娘たちが小さい頃は、年に数回家族で訪れた家。お世話になった家。

 

だから、愛情と感謝を込めて、話しかけるように掃除をしてきた。そして、父と母を守ってねと、お願いをしてきた。

 

子ども時代は引っ越しが多くて、私は幼稚園3つ、小学校4つに在籍した。清水は一番長く小学生をやった町だ。努めて目立たないようにしていた転校生だった私だが、自宅周辺ではノビノビと遊んでいた記憶がある。富士山を、日常的に仰ぎ見て暮らしていたあの頃。

 

清水滞在の2日目の夕方。一人で買い物に出た私は、父から指定されたそのスーパーが、昔住んでいた場所に近いことに気づき、遠回りして懐かしい町を歩くことにした。

 

目立ったのはコンビニ、ドラッグストア・・・もちろん半世紀前にはない。笑

 

はじめのうちは、まるで知らない町になってしまったとガッカリした。でも、懐かしい八幡神社、稲荷神社はそのままだった。学校帰りの寄り道コースだった細い道も、まだ残っていた。

 

メリーポピンズみたいに飛べないかなと、傘を広げて飛び降りた石垣もそのまま。足首を痛めたっけ。笹舟を作って流した側溝には、蓋がしてあった。初めて鬼ボウフラを見て、その動きに見入っていたドブはこのあたりだったかな。変なことばかり思い出す。

 

曲がりくねった道だが、迷いなく歩くことができた。覚えているものだね。ミッション系保育園の十字架の塔は、今も目印になる。従妹が住んでいた集合住宅もまだ残っていて驚いた。築60年くらいになるんじゃないかな?

 

あいにくの曇り空で富士山は拝めなかったけれど、短い散策の間中、沈丁花の香りがあちらこちらから漂ってきた。

 

翌日の昼。母が大根のおでんが食べたいと言うので、父が「次郎長通りに買いに行こう」と私を誘った。美味しいお店があるらしい。アシスト付き自転車2台で、またまた懐かしいエリアへ。

 

「ここが橘寮があったとこだ」

 

自転車で前を行く父が右手で示す。一瞬で通り過ぎたが、そうか、ここだったんだ、私が住んでいたのはと、耳のあたりが熱くなった。もう跡形もなかったけど。

 

南岡町の橘寮。公務員だった父が、出張者を泊める寮に、一時期、管理者を兼ねて家族と住んでいた寮の名前だ。子どもの私にはとにかく広くて、部屋数が多くて、芝生の庭があって、こんな大きな家に住めるなんて嬉しいな、と単純に喜んでいたっけ。

 

当時は町中が塀でつながっていたように覚えている。私は猫のように塀の上を歩き、隣町までだって探検した(ように思う)。そして、猫がたくさんいる「バインジ」がお気に入りの場所だった。

 

それが「梅蔭寺」であり、清水次郎長菩提寺である「梅蔭禅寺」のことだったと知るのは、転校して清水を離れてからのことだ。

 

梅蔭禅寺、次郎長通り。私は次郎長親分のゆかりの町で、3年ほど暮らしていたんだね。

 

清水次郎長(しみずのじろちょう)。
幕末の博徒で、海道一の大親分と呼ばれたことで知られる。侠客、いわゆるヤクザさんなんだけど、清水のヒーローだ。何故?

 

侠客であるものの幕末の混乱期に地域の治安を守る自警団を担い、戊辰戦争で官軍の先鋒を務めながら敵軍の戦死者を手厚く弔ったりし、山岡鉄舟榎本武揚の知己を受ける。後に私財を投じて、富士の裾野の開墾や船会社の創設に尽力するなど、地元に貢献。

 

ざっくりと調べてみると、そんな名士像が浮かび上がる。でも、きっと大政小政や森の石松などの子分を従えて暴れまわってた頃の武勇伝、多くの人に慕われる人柄や、奥さんとの人間臭い逸話などが講談や浪曲の題材になり、義理人情に篤い「清水一家」の物語が、清水の人たちにとってご当地自慢のひとつになっていったのではないだろうか。

 

Wikipediaによると、任侠(にんきょう、任俠)とは本来、仁義を重んじ、困っていたり苦しんでいたりする人を見ると放っておけず、彼らを助けるために体を張る自己犠牲的精神や人の性質を指す語。とある。まさに、任侠の人だったのだろう。

 

ふと、父やその兄弟の顔が浮かぶ。それぞれ堅い仕事をしていたが、子ども時代は近所で知らぬ者はいない悪ガキ兄弟だったと、いろいろな人から聞かされた。すこぶる喧嘩が強かったらしいが、"強きを挫き弱きを助く"連中だったと。あらま、任侠精神?

 

もしかしたら次郎長親分、天国からうちの父たちを面白がって眺めてくれていたかもしれない。そんな考えが浮かび、少し楽しくなる。ついでに、梅蔭寺で猫と遊んでいた、友達の少ない小学生の女の子のことも、見守ってくれていたかなあ。

 

このエリアで最も大きい商店街、次郎長通りは、梅蔭寺から少し清水港寄りの場所にある。おでんを買った「梅の家」近くには、次郎長生家が残っている。

 

食が細くなっていた母が、この日はよく食べてくれて、夕方たくさんおしゃべりすることもできた。足をマッサージしてあげたら、すごく喜んでくれた。

 

運動が得意だった母。足が悪くなっても、自転車に乗ればさっそうと遠くまで出かけられた母。動けなくなってどんなに悔しいだろう。もうこのまま・・もしかしたらもうこのまま、どんどん動けなくなってしまうのだろうか。好きだったいろいろなことを、諦めていくしかないのだろうか。

 

口数が少なくなっている母。笑いながらしゃべってくれたのは束の間で、また悲観の思考に沈んでいく。そして、父はそんな母を支え続ける自信をなくし始めている。父のメンタルもとても心配だ。

 

清水を去る最後の日。玄関先を掃いた後、私は庭のオリーブの木から一枝切り取った。新聞紙に包み、自宅に持ち帰ろうと。何故、そんなことを思いついたのかわからない。あの家で生きているものをひとつ、自分のそばに置いておきたかったのかも。

 

後ろ髪を引かれる思いで帰ってきて、1週間がたつ。今日はまた弟が向こうに出向いてくれている。手摺の設置の立ち合いと、介護支援専門員との話し合いのために。

 

いよいよ、介護の新たなステップを上る。行政と介護のプロの力を借りて、遠距離で親を看ていくステップだ。自分の無力が情けないけど、今できることからやっていくしかない、と思う。

 

父が弱っていることも辛かった。去年、私を怒鳴ったあの勢いはない。よく衝突してしまう父と私。父は私が嫌いなのかなと思ったこともあったのだけど、帰り際に見えた父の携帯電話の待ち受けは、私の写真だった。胸が詰まった。

 

親分。次郎長親分。南岡町にいたつきかなです。
どうか父と母を見守っていてください。

 

今朝、WHOが新型コロナウイルスパンデミックと認めた。世の中はどうなってしまうのか。希望がほしいと、切に思う。できるだけ、笑顔でいよう。

 

どんな状況にあっても、幸せな気持ちでいられることを諦めたくない。

 

 

ブログをお読みいただきありがとうございます。ゆっくりペースで続けてきましたが、この記事がようやく100本目となるようです。200本目に向かって、今後もマイペースで(もう少し頻度はあげたいですが)書いていこうと思っております。引き続きお立ち寄りいただけますと幸いです(*^-^*)

 

自分の中に変化を感じた2月―刺しゅうの可能性にときめく日々

f:id:tsukikana:20200224233218j:plain

 

 今年は閏年だから29日まであるけれど、2月はやっぱり短くて、だからこそ大切にしてあげたくなる特別な月だ。柔らかな日差しは春の近さを感じさせ、時折吹く良い香りを乗せた風は、楽しい予感のようなものまで連れてくる。

 

ふと気づいたことがある。最近の私、「楽しかったー!」と言うことが増えたみたい。他にも「なんて可愛いの!」とか「嬉しい、ありがとう」「もー大好き♡」とか、素直な喜びの声が、臆面もなく口から飛び出している。もちろん良いことなんだけど、ちょっと驚いている。笑

 

PCが壊れて買い替えなければならなくなった等々、相変わらず金銭的な危機は繰り返しやってくるのだけど。それでも友情や家族の絆を感じる局面が多くなったし、そうそう、次女に勧められて応募した「セリアde川柳」は33,000を超える作品中の35作品としてノミネートしていただいた。グランプリは逃したけれど、やっぱり嬉しい。

 

先日は弟夫婦が遠くから遊びに来てくれた。義妹に会うのは何年ぶりだろう!とても楽しいひとときが過ごせて、今も胸が温かい。

 

外出も増えた私。街なかへ出るのがずっと億劫だったのに、年末に次女に連れ出されたのをきっかけに、結構な頻度で都心部に行くようになっている。

 

「54字の物語」を作ってみようという、氏田雄介さんのワークショップに行ってみたり、西城秀樹さんの写真集『HIDEKI FOREVER blue』出版記念パネル展にも(もちろん)出向いた(4回ね)。新聞社勤務時代からの飲み友おじさんたちから久々にお誘いがあり、笑いっぱなしの再会も楽しんだ。

 

そして、一昨日は「布博in名古屋」へ。"布"にまつわる作家さんたちの作品群が見られるとあって、雨の中、ワクワクしながら出掛けて行った。

 

一番のお目当ては、大好きな刺しゅう作家のatsumiさん。会場内ステージでのトークがあると知って、これだけでも入場料払って行く価値がある、と思ったのだった。

 

とても興味深いお話が聞けたし、想像通り素敵な方で嬉しかった。刺しゅうの魅力、その表現の可能性について、楽しく思いを遊ばせてもらえる時間だったと思う。

 

サテンステッチがお好きとのこと。私は苦手なの。でもそうだなあ、練習して好きになりたい。頑張ろう。「刺しゅうは好きなんだけど縫製は得意じゃない」というくだりには共感です!笑

 

会場を巡ると、オリジナルの服、生地、布小物、ニット、刺しゅうアクセサリーなどなど、今をときめく作家さんたちの自信作が山盛り。本当に素敵なものがいっぱいで、見ているだけで幸せな気持ちになれたし、自分の創作時に参考にしたくなるヒントをたくさん拾わせてもらえた。

 

中でも一目惚れで、その場から動けなくなってしまったのが、片山邦子さんのnico*iro (にこいろ)。染めたオーガンジーに優しい色味のビーズ刺しゅうを施した、とっても繊細で愛らしいアクセサリーの数々にびっくり仰天。

 

綺麗すぎる。
どうやったらこんな素敵なものが作れるの?
私にもできる?
教えてもらえたらどんなに素敵だろう。
やっぱり刺しゅうってすごいわ!

 

・・・恋に近いときめき。

 

布と布雑貨では、温かみのあるお洒落なデザインを手捺染という技法を使って丁寧に染め上げ、手作業で縫製しているというnocogouさんが、私には特に印象的だった。とにかく、図柄が可愛い。それでいて上品で、ナチュラル、心地よい。森をデザインした布と、レモンとローズマリーをモチーフにしたマスキングテープを購入。

 

世の中にはお洒落で可愛くて素敵なものが、どんどん生まれているんだね。と、たくさんの実物を前に、感嘆しきりの一日だった。本当に行って良かった。

 

さて、この経験を私はどこまで活かせるかな?

 


ところで。
刺しゅうに関心を持つようになってからというもの、私はさまざまな「模様」に目が向くようになってきた。例えばTVで知ったイングランドの陶器デザイナー、スージー・クーパーのティーカップの模様。アステリを並べただけなのに、なんでこんなに可愛いんだろう、とときめいた。これ、刺しゅうで絶対再現してみたい!と。

 

マスキングテープの色柄や、包装紙のイラストにも、ときめくデザインを見つけては模写をする日々。道を歩いていても草花の形状や、見上げる木の枝のレースのような繊細さに感動し、スマホで撮影して参考にさせてもらう。

 

なかなか技術が追い付かないが、刺しゅうで試してみたいものがどんどん増えていく。この頃では風景などをゆるいタッチで描いてみたいな、という気持ちが膨らんでいて。

 

どこかで見た景色とか、何かで見た街角の絵や写真、映像。なんとなく懐かしいような、優しい気持ちになれるような風景を、スケッチ風に刺しゅうできたらいいな、と。

 

先日、まずは絵筆の使い方を教えてもらうような気持ちで、桜井一恵さんの図案集から海辺の景色を選んで刺してみた。麻布にシンプルに。糸の色数を抑え、細めの線もあえて真っ直ぐにせず。こういう表現も面白いなと思い、刺してる間中、楽しかった。次は、自分のデザインで描いてみたいなあ、と思う。

 

レモンイエローのスイートピーが視界に入る。優し気な姿に心が和む。

 

「楽しかったー!」をいっぱい乗せて、生まれ月なのでひとつ年齢も重ねて、甘い花の香りとともに2月も去っていこうとしている。3月もこのまま、明るい気分のままで春の訪れを喜べますように、と願いながら空を見上げた。

 

世の中には不安なニュースもあり、新型コロナウィルス感染拡大など本当に情勢が気になるけれど、どうか早く終息に向かいますようにと祈りつつ、とにかく予防、健康管理に気を付けたい。早く安心して日常生活を送りたいですね。

 

ビックリハウスに住んでいる?

f:id:tsukikana:20200205152723j:plain

 

一年で一番寒いはずのこの時期。春のような温もりが部屋に満ちている。レースのカーテン越しにパステルブルーの空が広がり、遠く聞こえるヘリコプターの飛行音が眠気を誘う。

 

一昨日のこと。穏やかな昼下がりに、次女の寝顔を見下ろした。まだ熱が残っているようだ。

 

12月にひとり暮らしを始めた次女。しっかり自炊もして会社にお弁当も持って行ってるようで、元気に頑張っているねと安心していたのだが。

 

出張の帰りに突然具合が悪くなり、吐き気がするため新幹線で多目的室を使わせてもらい、降車した名古屋駅でもスタッフの方に親切にしてもらったらしい。そのままひとりの部屋に帰るのが不安で、私に「おうちに帰ってもいい?」と連絡してきた。

 

倒れ込むように玄関に入った彼女を布団に寝かせて、もうだいぶ落ち着いたよ、という言葉に一度は横になったのだけど。一晩中、何度もうなされて苦しそうで、私も夫もほとんど眠れぬ夜を過ごした。

 

翌朝、まだ病院に行ける状態ではなく、夕方になりようやく、起き上がってもふらつかなくなったので、近所の診療所まで送っていった。

 

この時期、インフルやノロ新型肺炎など不安材料が満載で、怖い病気でないと良いけどと心配していたが、胃腸風邪だったようで少し安心。おかゆを食べられるようになった彼女の顔を見て、「回復する」ということのありがたさを噛みしめていた。

 

その翌日も次女は会社を休んで、夕方までこの家で寝ていた。私は、我が腕の中に戻ってきた娘を介抱しながら、胸に広がる甘い気持ちはなんなんだろう、と訝っていた。幸福感にも似た寂しさ、諦念感に近い愛情。

 

病気になったのは可哀想だし心配だけど、私たちの元へ帰る判断をしてくれたのは嬉しい。それはもちろん、自分の部屋に帰ったならどうなっていたかと想像し、焦る気持ちがあるからだろう。

 

でも、それよりも・・・頼ってもらえたのが親として嬉しい、という気持ちが強いかもしれない。また、子どもを看病するという行為への懐かしさ、感傷的な気分が、きっとあったのだ。

 

早春の窓辺。風邪をひいた幼い頃の娘たちと、私との親密性。そして遠い昔の小さな私と、看病してくれた若い母・・・

 

ミシッ。バチン。パンッ!

 

眠っている娘のそばで静かに自分の内面を見つめていると、そんな私を笑うかのように、家が音を立てた。

 

築30年を超える古マンションは、4年前に引っ越してきたときから、あちらこちらで音がする。当初は気味悪がったものだが、すっかり慣れてしまった。また鳴ってるわ、てなもんだ。

 

吊戸棚が突然落ちてきた事件もあったし、リビングのドアノブが動かなくなったことも。そのたび大騒ぎしたものだが、私はこのオンボロマンションが、結構好きになってしまっている。

 

「今日はよく鳴っているね」と起きてきた次女と笑い合う。次女はこの家を「ビックリハウス」と呼び、面白がる。そう呼ぶと、不思議と楽しく可愛く思えるものだ。

 

すぐにでも引っ越したいと思った頃もあったが、今はちょっと違う。もちろん、いつまでも住む家だとは思っていないけど、ご縁があってここへ導かれた気がして仕方ない。

 

私がこの家を愛することで、この家のもつ負の記憶が浄化される、そんな思いを持つようになった。今はその最中であり、それが終わったら自然な流れで、私はここを出て行くのだろう、きっと。

 

この町に来たのも、何か大きなものに導かれた気がしてならない。そしてきっと、そう遠くない日に、私はこの町ともお別れするだろうな、と感じる。

 

「ふるさと」と呼べるものがないに等しい私が、「ふるさと」に縛られることを嫌う夫と出会い結婚したのも、ただの偶然ではない気がする。根無し草、という言葉が脳裏に浮かぶ。

 

それでも私は毎晩、眠りにつく前に枕に頬をうずめて、こうつぶやいているのだ。

 

 私はこの枕が好きよ、このお布団が好きで、このベッドも好き。
 この寝室が好きでこのおうちが好き。
 そしてこの町が好きよ。
 ありがとう。

 

外国人向けなの?と笑っちゃうくらい高い位置にある、物干し竿かけの金具。規格外に大きな窓ガラスは、既製品のカーテンでは覆えない。リビングドアを外側に開くと隠れてしまう玄関の照明スイッチは結局使いづらすぎて、電球ごと人感センサーライトに変えた。

 

数え上げればきりがないほど、使いにくい家。失敗作かと思える、住みにくい家。でも、愛着が湧いてくると、それほど住みにくいとも思えなくなってきて、むしろ居心地が良いくらいなのだから、面白いものだ。

 

「ああ、ここは落ち着くわー」と伸びをした次女は、驚異的な回復力で元気になり、昨日無事に帰って行った。

 

もしかしたら、ビックリハウスのおかげかもしれない。と、私は秘かに思っている。なんとなくだけど、このおうちの機嫌がとても良くなっているのを感じるのだ。

 

上手になりたい、とシンプルに思う。刺しゅうも、他のことも・・・

f:id:tsukikana:20200110211319j:plain

 

『一週間』という歌がある。ロシア民謡らしい。

 

 日曜日に市場へ出かけ
 糸と麻を買って来た
 テュリャ テュリャ・・

 

 月曜日にお風呂をたいて
 火曜日はお風呂に入り
 テュリャ テュリャ・・

 

 水曜日にあのこと逢って
 木曜日は送っていった
 テュリャ テュリャ・・

 

 金曜日は糸巻きもせず
 土曜日はおしゃべりばかり
 テュリャ テュリャ・・

 

 恋人よこれが私の
 一週間の仕事です
 テュリャ テュリャ・・

 

というのが歌詞。初めて聞いた小学生の頃、なんて変わった人なんだろうと思った。

 

やること少ないんだなあ。暇なのかなあ、のんきなのかなあ。こんな人が恋人だったら、いくらテュリャテュリャ・・~♪って歌われても嫌になっちゃうんじゃないかなあ、なんて心配したものだ。

 

2020年が始まり、10日が過ぎた。去年から持ち越しの問題を抱えており、のんきにしていてはいけないとはわかっているのだけど、ちょっと今、具体的にどうしたらいいのかわからない状態。軽く金縛り状態。

 

で、『一週間』という歌を思い出してしまうくらい、最近の私はこの歌詞に似た暮らしをしている。この効率重視の世の中で、真逆のように時間を掛けてひとつひとつの仕事をし、続きを明日の自分に託して早めに休んでしまう。

 

分刻みで日々を多忙に駆け抜けている人たちには、眉をひそめられそうだ。そんな風に思えばなんだか申し訳なくなり、委縮して、余計にポジティブな思考から遠のく気がする。

 

なんでもかんでも詰め込んで忙しくすれば良いっていうものではない!そもそも「忙しい」は免罪符にはならない!と、考えるタイプの私だったはずなのに。忙しくしていないことに罪悪感を持つなんて、ちょっとモヤモヤするなあ。

 

こんなときこそ、手芸脳だ!

 

手芸には、脳の機能を活性化し、ストレス軽減、自尊心の向上、心を癒すなど、さまざまな効果があると言われている。リラックスし、創造性を発揮できる上、「やる気」になった脳のおかげで、次のパフォーマンスへの取り掛かりもスムーズになるというおまけ付き。

 

そうだ、刺しゅうをしよう、と思い立った。小さな光が差した。

 

今年初の刺しゅうは、キーチャーム。わけあって「6」をデザインした。

 

やっぱり刺しゅうは楽しい。綺麗な色の糸を扱うことが気持ち良く、癒される。刺し進めて出来上がりが見えてくると、ワクワクしてくる。幸せホルモンが出ているのかな。

 

でも、思うのだ。ステッチがまだまだ下手だなあ、と。

 

糸がねじれて光沢が半減している。サテンステッチは糸の方向がなかなか揃わない。あれ、コーチングステッチが中途半端になっている。フレンチナッツステッチの間隔がまちまちだな。

 

・・・仕上がれば嬉しいのだけど、少し残念な気持ちもあって。たまにしかやってないし、素人なんだから、気にしなくていいんだよと自分を慰めたりする。笑

 

でもね、今年はもっと上手になりたい。もっと気分よく仕上げられるようになりたい。もう少し頻度を上げて刺しゅうをすれば、上達するんじゃないかな。ちゃんと練習を重ねてみようかな。そう思った。

 

新しい年に新しく何かを始める。それも素敵なのだけど、今、私の心を占め始めているのは、「上手になりたい」という気持ち。

 

刺しゅうだけではない。字も、絵も、雑念にさらわれがちな瞑想も、上手になりたい。

 

他にもいろいろあるな。料理の盛り付けや花あしらいも上手になりたい。それから、やりくりも、人付き合いも、親とのコミュニケーションも・・・なんてね。どさくさか?

 

七夕の短冊に書く願い事――「ピアノがもっと上手になりたい」とか「習字が上達しますように」とか書かれているものを見ると、「プロ野球選手になりたい」や「アイドルになれますように」などと比べて地味だけど、私はなんだかすごく好感が持てる。ちょっとそれに似た気持ちなのだった。

 

「よーし」と声が出た。手芸脳のおかげで、「やる気」のスイッチが入ったみたい。

 

「上手になりたい」と思うものの中で、経験値を上げることで上達できそうなものは、とにかく繰り返しやってみよう。上手にできなくても、上手になるための道のりだと思えば、自分にがっかりすることもないだろう。多分。

 

実は、今回作ったキーチャームを付けるのは、12月にひとり暮らしを始めた次女の部屋の鍵。次女は、鍵をひとつ、私たちに預けてくれたのだった。

 

鍵を親に預けるって、普通のことなのかな。でもそんなことが、私はなんだかとても嬉しくて、その鍵を大切に扱いたかった。「6」の刺しゅうでキーチャームを作ってよ、と私に頼んだ夫も、同じ思いだったのかな。(何故、6かは秘密です・笑)

 

もう少し上手に刺しゅうができるようになったら、今度は夫にも作ってあげよう。嫌がるかな。でも渡そう。数字じゃなくてイニシャルがいいね。お守りがわりにしてもらえたら嬉しい。

 

その頃には、抱えている問題が解決に向かって動き出していますように、と願いながら、そのためにも私は健全な自己肯定感を持ち続けなくてはね、と苦笑する。

 

手芸脳の力も借りつつ、自分にできることをやっていこう。不安との向き合い方も、上手になりたいね。いろいろ、上手になりたい!

 


ところで、冒頭の歌。
気になって少し調べてみると、19世紀末、ロシア革命前夜の混乱した時代に生まれた民謡のようだ。

 

麻糸で布を作る仕事と地味な家事で、単調な毎日を過ごしている女性の、年末年始の一週間を綴った歌。年末だから仕事はあまりはかどらず、恋人が家に挨拶に来てくれて泊まっていった。金曜日は1月1日で皆、仕事を休み、土曜日は内乱で亡くなった人や祖先に供養をした。

 

夢のない退屈な生活と、続く内乱、暗い世情。鬱屈した毎日から、この町から、恋人よ、早く私を連れ出して!

 

そんな素朴で、かつ切実な、田舎町のひとりの娘さんのお話だったようなのだ。ひとつの解釈ではあるけれど、それを読み心が痛んだ。歌の生まれた時代背景と地域について、小学生の自分に教えてやりたい。

 

のんきだなんて言って、ごめんなさい!

 

遠き恋人の君を想う―西城秀樹さんとクリスマス

f:id:tsukikana:20191223010859j:plain

 

冬の花火大会(花火劇場と言うらしい)を見てきた。アンデルセンの「マッチ売りの少女」のストーリーに、音楽と花火を連動させたイベントだった。

 

最初のうちは、ナレーションの語り口に乗れなかったり、パラパラと上がる花火を少し物足りなく感じたりしながら見上げていたが、物語の節目でドドドドッと大輪の花々が打ち上げられることが繰り返され、だんだん陶酔していった。

 

華麗でカラフル。迫力もあるけどロマンティックで、さながら天空のイルミネーションといった風情。クライマックスのゴージャスな演出には思わず「おお!」と声が出てしまった。

 

周囲を見渡すと、当然ながらカップルが多い。今年のクリスマスイブは平日なので、一番近いこの週末にクリスマスデートする人たちが多いんだろうね。

 

来場者数見込み約8万人と聞いたが、どうだったんだろう。確かにすごい人数だった。

 

真冬の大空を彩る美しい花火のショー。見上げていた大勢の人たちは、皆それぞれ、どんな風にこの夜のことを記憶に刻んでいくのだろう。幸せそうな笑顔が、あちらにもこちらにも見えたけれど・・・

 


 君に贈りたかった
 銀の指輪のように、
 約束も果たせずに
 その若さが目映いほど
 今でも君は笑っている

 

西城秀樹さんの『遠き恋人の君』のメロディーが、心に流れてきた。2008年にプライベートで制作された未発表曲で、幻の名曲と言われていたものだ。今年5月に発売された『HIDEKI UNFORGETTABLE-HIDEKI SAIJO ALL TIME SINGLES SINCE1972』(CD+DVD BOX)に収録されたことが話題になり、この春、私も初めて聴いた。

 

そしてクリスマスシーズンが近づいてくる中、この曲を度々耳にするようになり、柔らかく切ない歌詞とメロディーラインが、頭の中で繰り返し再生されるようになった。好きなクリスマスソングは山ほどあるのだけど、何故かこの曲ばかり。

 

クリスマスの恋人たち・・・自分や友人たちの体験だけでなく、小説や映画、ドラマなどでも数えきれないほど見てきたが、幸せ一色、というものはほとんどない。迷いや悩みもエッセンスにして、冬の恋は輝くのかもしれない。

 

遠い日に別れてしまった恋人を、クリスマスの華やぎや、あるいは聖なる雰囲気の中で、ふと思い出す人も多いんじゃないかな。出会いから別れまでの出来事を、星座のように辿ることもあるかもしれない。若かったなあと、懐かしさに少しの悔いを混ぜ込みながら。

 

この曲は、HIDEKIの遠い昔の恋を歌ったものだと聞いた。作詞はかねてから交流のあった歌手の沢田知可子さんで、HIDEKIがクリスマスソングを作りたいと依頼したそうだ。そのお話の中で、若い日の恋のことを、大切な思い出として打ち明けたのだろうか。

 

 あれはまだ世の中に
 携帯電話がなかった頃のクリスマス
 人目に触れぬ隠れ家をみつけて
 僕ら 待ち合わせた

 

そんな出だしを聴くと、あの美しき若ヒデキを知っているファンとしては複雑な思いになるが(マアイワユルシットデスカネ)、

 

 離れ離れに生きて・・
 心の奥 生き続けて
 遠き恋人の君
 美しく蘇らせて
 Merry X'mas

 

と優しく穏やかな声で歌われると、綺麗で上質な物語を聞かせてもらえたように、うっとり夢見心地になる。

 

そして、人気絶頂のアイドルだった頃、どんな思いで恋人と別れたのだろうか、大病をして壮絶なリハビリをして復帰した彼が、どんな思いで遠い日の恋人を語り、歌ったのだろうかと、何度聴いても泣きそうな気分になる。

 

ドラマティックなこの歌を、病に倒れる前の、あの猛烈に歌が上手かった頃のHIDEKIの声で聴けたらどうだったろう。そう思ったこともあった。

 

でも、思い直した。言葉に尽くせぬほどの大変な経験をした、50代の、本物の大人のHIDEKIが歌うからこそ、きっとこんなに優しく、ストレートに心に響いてくるんだよね。

 

そして彼は、本当に私たちの「遠き恋人の君」になってしまった。辛いけど、このタイトルがもうすでにドラマティック、なのだった。ああ!

 


最近、昔の夢をよく見る。年賀状に、古くからの友人たちへ一言コメントを書いていたので、さまざまな思い出がよみがえったせいだと思う。

 

10代、20代、30代、40代・・・
ドラマティックではないが、私にもそれなりの出会いと別れの歴史があるらしい。小さいけれど美しい花火も、何度か上がった気がする。

 

残念ながら、古い恋はまだ夢に出てこないが、私の場合はその方がいいかな。お馬鹿さんだったからね、痛い痛い。笑

 

恋人たちにはクリスマスがよく似合う。失恋中でも絵になるし、ひとりもまた楽しいよね。もちろん、家族や友だちと過ごすクリスマスも素敵。

 

これまでのご縁に感謝して、出会ってきた人たちの幸せを改めて祈る季節。心から平和を願う季節。

 

遠き恋人のHIDEKIに、そして全ての人たちに・・・Merry X'mas

 

 

※ちなみに『遠き恋人の君』の作曲は、ミュージシャンの宅見将典さん(西城さんの甥だそうです)で、西城さんのコーラスを20年以上勤めてきたMILKのRieさんとのデュエットとして完成されています。

 

娘の巣立ちに揺れたけれど

f:id:tsukikana:20191214003607j:plain

 

次女が家を出てから2週間になろうとしている。

 

この秋、7人で暮らし、MAX8人いた日もあった家に今、夫婦ふたり。この落差!

 

娘のチェストや棚、そして大量の服と靴が消えた。この引越しに乗じて私も少し断捨離。まだ片付けは完全に終わらせていないが、ずいぶん広くなったと感じる。うちってこんなに広かったかしら。

 

いろいろあって、前の家から引越してきたのが4年前のこと。それから3人で頑張ってきた。本当に仲良く頑張ってきたよねと、思い出せばまた涙が出そうになる。大変だったけど楽しかった。次女のおかげだ。

 

4年9ヶ月前の長女に続き、私の大切な宝物がまたひとり、手元から巣立っていった。

 

25歳。決して遅い独立ではない。私は20歳で家を出ている。前からひとり暮らしに憧れていた次女には、「いつでも出て行っていいんだよ」と伝えていた。

 

自立したいという気持ちは大切だし、応援しようと思ってきた。今だってそう思っている。

 

でもなんだろう、この痛みは。「本当に出て行っちゃった」と、どこかで驚いている。なんだか力が抜けている。これが、空の巣症候群というやつか?

 

冬の朝、よく一緒に東の窓の前に立ち、森の樹々をきらめかせながらのぼってくる朝日を見て、その美しさに感動したっけ。玄関を出て西の空が燃えるような夕焼けになっていれば、どちらからか声を掛けて、長い時間一緒に眺めていたっけ。

 

メイクの度に占領していた洗面所。イラストを描いていた勉強机。夜遅くにケーキを焼いていたキッチン。突如、女子会が始まるダイニングテーブル。

 

この家の中のあちらこちらに、ついあの子の姿を置いてみてしまう。振り向けばそこにいそうな気がする。この家にいなかったはずの、幼い日の彼女まで現れてしまう。なんで?

 

・・・まあでも。多分、時間がたてば落ち着いてくるのだろう。子離れできない親にはなりたくないなと、ずっと思ってきたのだし。毎日のようにラインで連絡してくれるおかげで、彼女の元気な様子が手に取るようにわかるのだから。

 

彼女はとても張り切っている。新しい自分の巣づくりに夢中なのだ。なるべく我が家と同じ小物で揃えようとしている様子が可笑しいし、微笑ましい。

 

カーテンとか食器とかラグとか。彼女の部屋づくりのための買い物に、何度か付き合って街に出た。最近の私は人混みがますます苦手になり、都心部へ出掛けるのがとても億劫になっているのだけど。ましてや師走の週末の喧騒に飛び込むことなんて、もうないだろうと思っていたのに。

 

でも、昔はよく遊んだのだった。勤め先も都心部だったから、仕事帰りに買い物もしたし、仲間と飲み歩きもした。お気に入りのお店だってたくさんあった。

 

小さかった娘たちを連れて、暮れの繁華街を歩いたこともある。何度もある。

 

次女は夫に肩車してもらったことを覚えていた。「もう疲れたから自分で歩いてって、下ろされたのは嫌だったな」と笑う。ちびっ子だったんだねえ。

 

「どこも混んでる都心部だけど、あまり知られていない穴場のカフェがあるんだよ」

 

まさかそんな風に、素敵なお店に連れて行ってもらう日が来るとは。クリスマスのディスプレイに彩られた賑やかな通りを、次女に導かれて歩く私。感慨深い。

 

大きくなったんだね。そして、もう家に帰ってもあなたはいないんだね。

 


長女が結婚で家を離れた日のことを思い出す。新幹線のホームで、泣き虫のあの子が見せた表情は忘れようがない。

 

これまでずっと一緒に暮らしてきた家族と、初めて離れる不安、寂しさ。そして、大好きな人と一緒になれる幸せ、自分たちの新しい家庭を築いていくという決意。もうね、瞳がキラキラしていて・・・本当にいとおしかった。

 

去っていく新幹線を見送った夫と次女と、私。口数の少なかった帰り道。雨が降り出した。

 

でも、長女に新しい生活が始まったように、あのとき「残された私たち」にも、新しい生活が始まったのだった。夜が明け、「これからも楽しくやろうね」と3人で新しい朝を迎えたのだった。

 

そして、そのときのメンバーだった次女が、今度は夫と私を置いて、羽ばたいていった。瞳をキラキラさせて・・・

 

「新しさ」は、寂しさを優しく補ってくれる気がする。残された夫と私は、あくる朝、あのときと同じように「さあ、楽しくやろうね」と微笑み合った。

 

朝はいつも新しいけれど、特別に新しい朝。長女からも温かいメッセージが送られてきた。離れていても良いチームだなあと、また胸が熱くなった。

 


娘たちの幸せを願う気持ちは同じ質量だと思うけど、多分、私以上に寂しがっている夫と、これからふたりの生活を温かいものにしていきたい。「新しさ」を前向きに受けいれて、毎日を丁寧に楽しんでいきたい。

 

・・・できるかな?できるよね?

 

窓と網戸を拭き、カーテンを洗い、鏡や食器棚のガラス戸をピカピカに磨く。ベランダを綺麗にする。大掃除っぽいことを始めた。ちょうどシーズンだしね。

 

不要なモノの処分も始めた。ミニマリストにはなれそうにないが、私はできるだけすっきりと、シンプル&コンパクトに暮らしたい。そこを頑張ってみることが、私の「新しさ」のひとつかも。

 

他にも、新しくやってみたいことがいくつか思い浮かぶ。そう、いつまでも寂しがってる場合じゃないわ!(私ももうけっこうなおトシですから、時間があまりないのです笑)

 

でも、クリスマスイブに次女が泊まりに来ると聞き、それが今一番の楽しみである私って、自分で言うのもなんだけど、なかなか可愛い母親なのではないだろうか。へへ。

 

ウニヒピリ、いつも一緒だよ―ホ・オポノポノ手帳2020

f:id:tsukikana:20191121134236j:plain

 

今年も残すところ・・・なんて言葉をよく聞く季節になってしまった。毎年、師走の気忙しさを先取りして落ち着かない気分になっていた私だけど、今年はヘビー級の気忙しさが既に一段落したせいか、何となく例年よりのんびりしている。

 

先月入手した「ホ・オポノポノ手帳2020」(これが5冊目となる)も、時々ゆっくりとめくり、来年もこの手帳を相棒に日々クリーニングしていこうと、穏やかな気持ちで思う。

 

手帳の表紙カバーには、こんなコピーが載っていた。

 

ハワイに伝わる教えと癒し
「ありがとう」「愛しています」「許してください」「ごめんなさい」
4つの言葉で、この瞬間しかない素晴らしい体験が訪れます。

毎日をクリーニングすると
◎過去のしがらみから解放される
◎最高のタイミングで出会いがやってくる
◎本当の自分を取り戻せる
◎インスピレーションがわいてくる

 

そして、この手帳の4つの特徴も。

 

①ヒューレン博士とKR女史の対談『ウニヒピリの再教育をはじめよう』を収録!
②本手帳オリジナル!2020年の「クリーニングツール」を紹介!
③ヒューレン博士とKR女史の言葉を、月ごと、週ごとに掲載!
④「切り取れるメモ」で365日を、毎日、ゼロの状態に戻して、クリーニング!

 

一通り読んでから、そのカバーをはずした。表紙カバーはリバーシブルになっており、私は毎年、裏返して使うのだ。

 

カバー裏面。今年のデザインは、去年に続いてKAPAだった。樹皮を打ち伸ばしてつくるハワイの布だそうだ。落ち着いていて素敵だけど、私は2016年版や2018年版みたいな、美しい植物の写真や絵の方が好みかな。

 

そんな感想もクリーニングしながら、今年も、巻末のヒューレン博士とKRさんの対談を、アンダーラインを引きながら読んだ。この対談と、その年の手帳オリジナルのクリーニングツールが、いつも楽しみなのだ。

 

 ホ・オポノポノ手帳の去年の記事はこちら↓

tsukikana.hatenablog.com

 


今回の対談のタイトルは「ウニヒピリの再教育をはじめよう」だった。

 

教育、という言葉に少し違和感を覚えた。いつも愛を待っているインナーチャイルド、内なる子どもに対して、ちょっと強い言葉だな、と。で、その反応もすぐにクリーニングする。

 

対談を読み進めると、教育というのがマナーや作法、アカデミックな知識などではないとわかる。ウニヒピリの再教育とは、ウニヒピリを開放し、自由になってもらうこと、だった。

 

私の表面意識(ウハネ)と潜在意識(ウニヒピリ)の間にある絆の大切さをしっかりと自覚すること。その上で、膨大な記憶の蓄積に苦しんでいるウニヒピリを、暗い世界から救ってあげることこそが、親である私、ウハネの役目なのだと。

 

KRさんは語る。

自分が何かを体験しているときに、「今、まさに記憶が再生していること」、そして「その記憶を手放すことができること」を自分のウニヒピリに根気強く教えてあげましょう。そうすれば、ウニヒピリは自信を取り戻すことができるでしょう。

「そうか、こういう気持ちがあったんだね。見せてくれてありがとう。一緒にクリーニングしようね」とやさしくクリーニングの道に導いてあげるのです。

と。

 

クリーニングができるんだ!と気づいたウニヒピリは、ようやく本来の仕事をはじめることができる。ウハネと一緒に記憶のクリーニングをする。ウハネが眠っている間もクリーニングしてくれる。

 

そうして、神聖なる存在からのインスピレーションを受け取れるようになる。本当の自分を生きていくことができる。そう、ホ・オポノポノはウニヒピリの協力なしには成立しないメソッドなのだ。

 

私は・・・最初の頃に比べて、かなりウニヒピリとは仲良くなれていると思う。でもまだ、一緒にクリーニングしてもらっている実感はない。

 

「あ、今のはウニが見せてくれた記憶だね。忘れていた、というか封じ込めていた辛い思い出。わざわざ取り出して私に見せたのは、これをクリーニングしてよ、という意味なのね。わかった、ありがとう。愛してるよ。一緒にクリーニングしよう」

 

そういうシーンは、最近頻繁にあるのだけど(これ、嫌な記憶がよみがえって結構メンタルしんどいけど、感謝してクリーニングしています)、果たして4つの言葉をウニヒピリも唱えてくれているのだろうか。

 

うーん。期待もクリーニング、だね。判断もクリーニング。焦りもクリーニングだ。

 

 ごめんなさい
 許してください
 愛しています
 ありがとう

 

クリーニングツールとしての4つの言葉は、ただ唱えるだけで気持ちを込めなくても大丈夫、とのことだ。でもウニヒピリに語り掛けるときは、心を込めて優しくつぶやくようにしている。

 


ところで。
実は、ホ・オポノポノに関する記事を書くときは、ちょっと緊張する。私のような素人が、わかったようなことを書いてはいけないのではないか、と。間違ったことを書いてしまったらどうしよう、と。

 

それで、持っている本を読み直したり、他のベテラン?の方が書いたブログをあれこれ読んでみたりして。で、思いの外、長いこと読みふけってしまって、書き出すまでに時間がかかるのだけど。それはそれとして、ポノに対する理解を深めたり、クリーニングしていくことの大切さを改めて噛みしめる、良い機会にもなっている。

 

ただ、シンプルながら奥の深いホ・オポノポノなので、勉強するほどに自分の浅さを思い知る。どこか勘違いして書いている部分もあるかもしれません、悪しからず。

 


ポノに関しては解釈に今一つ自信が持てない私だけど、ウニヒピリの存在は感じ取れるようになっているし、守ってあげたいと思っている。

 

私の中の、もうひとりの私。小さな子ども。ずっと放っておかれて、愛されることを待ち望んでいた、私の中にいた本当の私。

 

その存在を知った今は、もう寂しい思いはさせたくない。ずっと寄り添っていたいし、いつも一緒だと感じていたい。ウニヒピリが「クリーニングしてほしい」と記憶を再生させたなら、素早く気づいて願いどおりにしてあげたい。

 

ウニヒピリの再教育は・・・私にはまだ、早いのかもしれない。でも、「いつも一緒だよ」と、毎日何度でも話しかけて、「こうしたいんだけどどう思う?」と相談したり、「楽しかったね」と笑い合ったりしたいな。今はそれでいいよね。

 

2020年の手帳には、きっと今年以上に、ウニヒピリと一緒に笑い合える出来事がたくさん書けるはず。そう信じたい。

 

暮れていこうとする今年と、近づいてくる新しい年を、2冊の手帳を手にクリーニングしている日々だ。

 

 

毎日を幸せにするホ・オポノポノ手帳2020

 

追記(11/26):ダ・ヴィンチニュースに、ホ・オポノポノに関するわかりやすくて素敵な記事が載っていました。

news.goo.ne.jp

お金も日常的なクリーニングの対象ですね。
私は日々、レジで支払いをするとき、取り出した紙幣に
「ありがとう、愛しています」
と伝え、もひとつおまけに
「行ってらっしゃい。お友達をたくさん連れて帰ってきてね♡」
とも、心で叫んでおります!笑

 

隙間時間でも達成感。ありがとう!「100ネエサン」刺しゅう

f:id:tsukikana:20191115205233j:plain

 

長女たちが帰ってから、急に秋が深まり寒くなった。毎日あんなに、暑い暑いと言っていたのに。

 

そう、2週間前は半袖で走り回っていた私。今日はカシミアのカーディガンを着ている。気温以上に、室温が下がったのかな。4人分の体温が消えて・・・

 

もう既に懐かしい。まるで子育て中の頃に戻ったかのような、慌ただしい日々だった。

 

忙しかったけど、自分に使える時間がまるでなかったという訳でもない。特に、長女が入院するまでの時期は、細切れだけど自由時間を作り出せる日もあった。

 

長女もちょこちょこと手芸をするのが好きで、一緒に刺しゅうしたことも数回。2歳児には、隣でお絵かきをしてもらったっけ。

 

楽しい思い出の時間が作れたのは、ある商品のおかげかもしれない。

 


ああ、隙間時間でちょっと何か作りたいなぁ。心が華やぐような、綺麗なものが作りたい。ただし、あまり作業スペースを取らず、すぐに片付けられる、という条件は外せないよね・・・

 

そんな風に考えていたとき、インスタグラムの広告が目に飛び込んだ。

 

 「100ネエサン」

 

シンプルなお姉さんたちがズラリと並んだプリント柄の布。そこに、ぬり絵のように自由に刺しゅうをして、彩っていく。

 

ただそれだけのものなんだけど、妙に惹かれる。妙に可愛い。「何かチクチクしたい!」という望みを、即、叶えてくれそうだし!

 

サイトを見ると、

手芸作家 中島一恵による「刺しゅうやペンでスタイリングできるぬりえみたいなファブリック」。
着せ替え気分で、ひとりひとりのネエサンの髪型や服、足元を刺しゅうや布ペンでスタイリングすれば、オリジナル作品ができあがります。

とある。3秒迷って衝動買い。

 

私が買ったのは、スターターセットというもの。刺しゅう糸、刺しゅう枠、針が付いて1980円(税別)と、お試しで始めるのに手頃感があった。糸も針も枠も既に持っていたけど、刺しゅうを始めたばかりの長女に針と枠をあげるつもりで買った。

 

届いて早速やってみたら、これ、思ってた以上に楽しくて!

 

服に合わせて髪の色を決めたり、イヤリングをビーズにしてみたりと、お洒落の工夫が気分を上げてくれる。

 

なんといっても、小さい刺しゅうなので、ネエサン一人分ならすぐに仕上げることができるのが魅力だ。完成したという達成感を、隙間時間で得られるのだから。

 

しっかりした生地なので、私は枠を使わなかった。下絵がプリントされているから、図案を写す手間もない。糸も指定がないから、手持ちの余り糸を好きに利用することができて、なんだか本当にお手軽。

 

小さな針山とハサミ、余り糸の入った小箱を木製のトレイにのせ、下絵の布を裏返しにかぶせて棚に置いておく。時間ができたら、そのトレイをひょいとダイニングテーブルに持ってきて、糸選びを楽しみつつ刺していく。散らからない!

 

仕上がったネエサンたちのスタイリングを眺めながら、
「次のネエサンのドレスは、どんな色・柄にしようかな」
などと考えるのも、ちょっとワクワクして。

 

ああ!自由だ!

 

刺しゅうは、なにもどこかや何かを飾るためだけにするものじゃないんだね。もちろん、ネエサンたちをひとつひとつ切り離してオーナメントやチャームにしてもいいし、そのまま額装したって、クッションやポーチに仕上げたっていいのだけど。

 

これまでは、好きな図案があると、これをどこに刺しゅうしようか。これを使って何を作ろうか、ということを、当たり前のように考えていた。考えるべきだと思っていた。舞台があっての刺しゅうだと思い込んでいたのだ。

 

でも、何にするあてもなく、ただチクチク刺しゅうがしたいというときもある。絵を描きたいのと一緒。100ネエサンは、そんな気分にもマッチしている商品なのだろう。

 

役に立たなくてもいい。上手にできなくてもいい。この手で何かを生み出すことで、ワクワクして満たされて、他のパフォーマンスにも気持ちが入っていくことは、手芸の効能のひとつだよね。

 

まあ、「そろそろ、役に立つものを上手に作りたいものだなあ」とは、一応、思ってはいるのだけど。少なくとも、誰かに喜んでもらえるものが作れたら、プレゼントできたら、素敵だよね。

 

もうすぐクリスマス。(自分にプレッシャー?)

 


100ネエサン(ルシアン オンラインショップ)

 

 

双子プロジェクト完了―寂しさと清々しさの中で

f:id:tsukikana:20191108161745j:plain

 

抜けるような青空。真白な雲。
美しい9月の朝に、双子は生まれた。
2歳児に、ふたりの妹ができた。

 

あの日から、2カ月がたつ。5日前、長女と長女の娘たちは、迎えに来た婿どのとともに、遠方の町へ帰っていった。
残された私と夫と次女は、一抹の寂しさとともに、やり切った清々しさの中にある。仰ぎ見る11月の空は、さらに深く青い。

 

5カ月と少しを一緒に暮らした2歳の孫娘。ママっこで人見知りだったから、最初、どうなることかと心配していたが、すぐに打ち解け、我が家にも慣れ、楽しく日々を過ごしてくれた。

 

1カ月ちょっとの娘の入院中、私が母代わりをしていたので、なんだか自分の3人目の娘のような気さえしている。寝かしつけで甘えてこられたときなど乳腺が張ってきたこともあり、我ながら母性の不思議に驚いた。
・・・別れるのはやはり、辛かった。

 

我が家に来たばかりのときを思うと、彼女の成長ぶりには驚くばかりだ。本当に大きくなった。賢くなった。優しくなった。次々と変わる環境の中で、パニックも起こさず、よく頑張ってくれたと思う。

 

私たちの双子プロジェクトは、3つのフェーズに分けて、それぞれの課題とミッションを掲げることから始まった。なかなか得難い経験だったので、今、ここに記録しておこうと思う。

 


まずは、ざっくりと背景を。

 

私は夫と次女と、東海地方に住んでいる。長女は4年半前に結婚し、関西に。婿どのと2歳児とネコと暮らしている。この春、双子妊娠がわかり、我が家の近くにある大学病院で出産(帝王切開)することになった。

 

当初は、出産日1カ月前からの管理入院に合わせて里帰りする予定だったが、検査結果の数値に不安点があったため、2カ月早めての里帰りとなった。

 

★第1フェーズ
長女が管理入院するまでの2カ月と4日間

 

ここでの課題は、2人が加わった5人家族の生活に、それぞれが慣れること。
母体の健康管理への協力と、2歳児との信頼関係の構築が、私のミッション。

 

双子妊娠には安定期はないそうで、一番大事なのは安静にして、赤ちゃんたちにできるだけ長くお腹にいてもらうこと。長女も主婦だがなかなか手伝いは頼めない。買い出し、食事作り、洗い物、洗濯・・・私の家事はざっくり2倍量になった。特に妊婦と幼児の食事には、禁じ手が多いので気を遣った。

 

でも、長女とあれこれおしゃべりしたり、2歳児の可愛らしい言動に笑ったり、我が家は楽しく華やかになったのは間違いない。夫も次女も、本当に嬉しそうな顔をすることが増えた。

 

ただ、この頃は皆、この先のことが心配でたまらなかった。とにかくリスクの多い双子妊娠と出産。無事、笑顔でその日を迎えられるように、祈るようにして暮らしていた。

 

実際、検診時に子宮頚管が短くなっていると指摘され、次回の検診でそのまま入院するかもしれないと、毎回覚悟していた。義父の三回忌があったが、諸々心配なため、夫一人で行ってもらった。不義理をしてごめんなさい!

 

ハラハラしたけれど、なんとか無事、予定通りの日に入院することができた。

 


★第2フェーズ
長女が管理入院し、出産を経て退院するまでの1カ月と9日間

 

ここでの課題は、ママ無しで過ごさなければならない2歳児に、寂しい思いをさせないこと。楽しく暮らしてもらうこと。私のミッションは、母親代わりを徹底することだ。

 

それから、猛暑の中、2歳児を連れて長女の入院先に通うことも、課題であり、ミッションだった。でも、これは私一人ではやはり難しく、それはまた、日々の買い出しで外出することすら難しいということで、夫の協力があってなんとかしのげた。目いっぱい年休を取ってくれたのだ。

 

食事は、妊婦がいなくなった分、気楽にはなった。長女の栄養面は、病院にお任せできて安心だわ、と思っていたのだが、入院食はひどく素っ気ないものだと聞いて苦笑。おやつの差し入れも私のミッションとなった。「早くお母さんの美味しいごはんが食べたい」という言葉に、甘やかな気持ちになる単純な母親。笑

 

このフェーズでは、お盆休みの婿どのが2歳児を5泊6日、預かってくれた(いや、こちらが預かっているのだから一時お返しか?)。彼のご実家はクルマで1時間以上かかるが同じ県内にある。孫娘はそちらにも台風をはさんで2泊お世話になり、戻るとき、彼のお母さんも長女の見舞いにわざわざ来てくださった。

 

明るくて、優しくて、さっぱりとしてていつもニコニコ。彼のお母さんが私はとても好きだ。お会いできたのも嬉しかったし、彼女もこのプロジェクトを一緒に成功させようとしてくれてる仲間なんだと、とても心強く思うことができた。

 

そして、9月6日、無事に双子は誕生した。今度は婿どののお父さんも、お母さんと共に遠方から来てくださった。狭い病室に大勢の笑顔がはじける。はしゃぐ2歳児。大仕事を成し遂げた長女は、幸せそうに微笑んでいた。

 

退院までは、ママ代わりの役どころが私の使命。2歳児は朝起きると「おばあちゃまー」と私を呼ぶ。「ママー」と呼んだのは長女が入院した最初の1日だけだった。我慢してた?それとも順応力が高いの?どちらにしても、私からは「ありがとう」だね。

 


★第3フェーズ
長女の退院から、彼女たちが帰って行くまでの1カ月と21日間

 

ここでの課題は、双子を迎え入れての生活に、全員が慣れること。赤ちゃんたちのお世話をすること。荷物が増えた狭い家で、(気持ちだけでも)風通し良く、仲良く暮らすこと。

 

産褥期の長女のケアと、また生活が変わってしまった2歳児のケア、5人分の食事と7人分の洗濯が、私のミッション。

 

これは正直、プロジェクトの初期から大変だろうと怖れていた。
だって、新生児1人だって大変なんだもの。それが2人いて、2歳児もいて・・・

 

沐浴も2人分。授乳もオムツ替えも2人分。泣き止まない赤ちゃんたちを抱き上げて、を繰り返す。遊んでほしがる2歳児の相手もする。ご飯を食べさせ、お風呂に入れて。1日中大騒ぎだ。

 

日記を読み返すと、みんな体調崩したり、腰を痛めたり、精神的に不安定になったり、疲労がたまって限界っぽい日が続いていた。双子はだんだん寝ている時間が少なくなり、泣き声も大きく激しくなってくるし、昼夜構わず交代で泣き続けるのだから、そりゃあみんな、疲弊するよね。

 

夫も次女も、仕事から帰っても休まらなかったことだろう。それでも、夜中も早朝も惜しみなく協力してくれた。それもこれも、長女を守りたい、小さい人たちを守りたい、という強い思いがあったから、なんだよね。それにやはり、双子の赤ちゃんは抜群に可愛いから。

 

体力的にもきつかったけど、精神的にも揺さぶられることの多かったこの5カ月ちょっと。たった1日でいい、ひとりで静かに過ごせる日が欲しい、と私は渇望したっけ。洗い物をしながら涙が出てしまったこともあった。なんで、こんなに長いこと大変な思いをしなくてはならないのか、と。そして、そんな風に思ってしまってはいけないのかな、自分は冷たい母親なんだろうかと落ち込んだ。

 

長期にわたるサポートだったから、頭も疲れていたのだろう。多胎妊娠、出産のリスク、育児の過酷さについて、全く知らなかったところから始まったことも、ここまで大変なのか、と精神的負担を感じた原因かもしれない。そして今も多くの人は、多分知らない。みんなきっと長女の苦労は想像できるけど(確かに長女は大変だ)、そこは実母が助けてくれるものでしょう、くらいに思っているんじゃないかな。

 

どうかあまり無理をしないでね。
実家に甘えられるうちにたっぷり甘えさせてもらいなよね。
・・・と。

 

以前の私でも、そう言いそうだ。おめでたいこと、幸せなこと、という事実の前に、受け入れ側の生活や時間の犠牲は些末なことと、世間に軽く扱われている気がする。

 

私は娘を愛しているからサポートした。夫も、次女も。でも、それを「実家なんだから、母親なんだから当たり前」と言われることは、なんだか釈然としない。

 

双子に限らず、里帰り出産の受け入れ側の苦労にも、もっと想像力を発揮してもらえたらいいなぁと思う。誰もが体力的、時間的、空間的、経済的に余裕があるわけではないのだから。

 

もちろん、長女は何度も心からのお礼を言ってくれた。改めて「ありがとう」と言われると、泣きそうになった。本当にいい子。「私こそありがとうだよ」という返事も、心からのものだ。素晴らしい経験をさせてもらった。幸せだった。それは、確かなのだ。

 

 

11月の晴天が続いている。
朝、駆け寄ってくる2歳児は、もうこの家にいない。外出先から帰っても、パタパタと走ってくる足音はしない。誰かが出掛けるとき、ハグの輪の真ん中に入って「ギュー」と言い、キラキラの瞳で見上げて「みんないるね」と笑う、あの子はいない。

 

抱き上げるとスッと泣き止んだ赤ちゃんたち。その軽さと温かさ。石鹸とミルクの匂い。この世で一番、大切に扱わなくてはいけないもの。

 

カップでもフレームでも、2つ並んでいるのは可愛いものだとずっと思っていたけれど、2つ並びの可愛さを、寝ている彼女たちにも感じた。同じ方向を向いていても、向き合っていても、そこにいるだけで幸せな気分にしてくれた。

 

長女といろいろな話をした。他愛ない話、真面目な話。お互いの「推し」の話も。笑
素直で優しい彼女には、悩みもいっぱい聞いてもらった。手を伸ばせば触れられる所に、何カ月もいたのに、今はもういない。

 

・・・ひとつひとつのシーンを思い出すたびに、まだ喉の奥がグッと詰まるけど、私は感謝して今日を、明日を新しく生きていきたい。

 

長女たち一家にとっては、双子プロジェクトの第4フェーズが始まっている。きっと、すごくすごく大変なはずだ。もっと預かってあげれば良かったのかもしれないと、何度も繰り返し思ってしまう。

 

でも、「頑張ってみる」と言った娘の意志を尊重したい。応援していくし、SOSがあれば飛んでいくつもりだ。

 

そして我が家には引き続き、大きなイベントがある。

 

今月末、次女が一人暮らしを始めるため、引っ越していくのだ。またまた寂しくなってしまうけど、親として彼女の成長を喜びたいし、エールを贈りたい。

 

2019年。長女と暮らせた夏を、孫娘と過ごせた夏を、私は忘れない。そして、次女と過ごせる残りわずかな日々を、一瞬一瞬を、大切にしようと思う。

 

思いは千々に乱れ、揺れるけど。
空を仰ぎ「清々しい」と感じた心のありようを、ずっと継続していけたらと、今、強く願っている。

 

 

・・・とても間があいてしまいましたが、久々に更新しました。
長いですよね、スミマセン。
次回は短くなると思います。
で、多分、わりとすぐに更新すると思います。多分・・・