一筋の光、降り注ぐ光。

人生はなかなかに試練が多くて。7回転んでも8回起き上がるために、私に力をくれたモノたちを記録します。

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点描曼荼羅の世界を覗いて

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この美しい絵は何だろう?
Face Bookの友達のページで見かけた画像に、私の目は釘づけになった。そのとき初めて、曼荼羅アートというものがあるのを知った。確か、去年の今頃だったと思う。

 

この夏に再び、黒地に細かい点打ちをした曼荼羅画を目にして、やっぱりドキドキした。自分でも描いてみたいと強く思って探してみると、近所でワークショップの開催があると知り、思わず申し込んだ私である。そして昨日、念願かなっての点描曼荼羅体験をすることができた。

 

まずは座学で曼荼羅とは何か、黒い紙に点描で描くことの意味、宇宙の理(ことわり)などについて、講師の先生からざっと説明を受けた後、点描の練習をしていよいよ本番!用意していただいた15cm四方の黒い上質紙に定規とコンパスを用いて下絵を描く。

 

コンパスなんて、何十年ぶりに触ったことか。おっかなびっくりだったが、テキストに従って直線や円を引いていくのは気持ちが引き締まるようで心地よかった。一番の基本は「楽しむこと」だそうで、それは大丈夫みたい。線の交点に正しくコンパスの芯を置けるかとか、交点と交点を結ぶ線が正しく引けているかとか、私の場合、そういったところがとても怪しいのだが。

 

次に点描で色を入れていく。点の密度でグラデーションを付けるのも、思ったより難しくはなかった。色を選ぶとき、自分の直感を大切にしてあまり考えない方が良いらしい。この組み合わせは変なのでは?と思っていても、不思議なことにだんだんまとまりを持って美しく見えてくる。これが調和というものか。

 

ゆったりとしたヒーリングミュージックが流れる中、受講生4人が黙って点を打ち続ける。とても静かだ。

 

黒い紙に向かってひたすら色の点を置いていると、何も考えなくなっていることに気付くときがあった。知らぬ間に無心状態でいる面白さ、黒い世界に光の粒を並べていく楽しさに、軽い浮遊感を覚えた。また、時間の感覚も消えていくようだった。

 

目の前にあるのは小さな黒い紙のはずなのに、どこか、宇宙と向き合っているような広がりを感じる。曼荼羅画が持つ精神世界というものがあるらしいのだが、直感、波動、潜在意識という、これまでちょっと斜めに見ていたものが、素直に信じられる瞬間だった。

 

このワークショップの名前は「願いを叶える点描曼荼羅画」。描くことで引き寄せの力が働き「願いが叶う」という効果が生まれると言う。私はしかし、そこに重きを置いたわけではなかった。単純に美しいから描いてみたいと思って近づいたのだ。でも、直感で「これ、良いな!」と感じて動いたわけだから、この出会いはあるいは「引き寄せ」だったのかもしれない。

 

この体験は、大切にしたいと思っている。意識を手放す瞑想に似た境地は、心にも良い働きかけをするだろう。執着からの解放という考え方も、今の私に必要な気がする。それに「願いが叶う」というのは夢があって、ちょっとロマンチックではないか。

 

2時間半ほどで仕上げた作品は、粗さが目立つものの私が想像していた以上の出来栄えだった。初めてでもここまで描けたのかと、まずは嬉しい。そして、自分なりの世界観が表現できている気がするのと同時に、まだまだ表現しきれていないという気持ちもある。

 

さてと。点描曼荼羅……もう少し、もうちょっと、深入りしてみようかな。

 

TOCO TOCO とただ歩くだけ

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身の危険を感じるほどの暑さが収まって、早くも秋の訪れを思わせる長雨と肌寒さだ。それでも昨日、今日は久々に青空が広がり、大物の洗濯ができて気持ちがいい。そろそろ、また歩こうか。

 

私の数少ない趣味のひとつが散歩である。しかし、真夏の間はパスしていた。散歩のパスどころか、買い物を含め、誰かとの約束以外ではあらゆる外出を疎んでいたので、引きこもり状態が続いてしまった。1ヶ月半ほど在宅のライター仕事をしていたのだが、これが引きこもりに拍車をかけた。締め切りに対して量が多過ぎる。外出は必要最低限にしなければ間に合わなかったのだ。

 

しかし、それも終わった。今は次を考えながら心身を整える時期。だから、そろそろ歩こうと思っている。散歩、ウオーキング、散策。何でもいいのだ、とにかくただ、トコトコと歩くだけ。

 

時には買い物帰りに少し足をのばして知らない道を探検。時には電車で遠い駅まで行き、初めての町をさまよう。目的地を決めずに「今日は南の方へ」などと歩き出すこともある。一人のこともあれば、家族の誰かと一緒だったことも。長さも時間もスピードも体調と気分次第で、スタイルは決めていない。だから楽しい。

 

そう、歩くことは楽しい。目に映るもの、耳や鼻に届くもの、皮膚に感じる空気の質感、全てが脳に働きかけてくる。頭がどんどん冴えてきて、ものごとを考えているときも考えていないときも、心地よい回転でまわっている気がする。

 

ずっと昔、家にあった母の足踏みミシンを思い出す。右手をハンドルにかけ、左手を針脇の布に添え、前後に置いた足をそっと踏み出し、調子よく回り出したときの、あの感じ。乗ってきたときのあの感じ。

 

歩いていると、ときどきポンッと何かを思いつくことがある。小さな悩みの小さな解決法であったり、ちょっとした企画のアイディアであったり、たまに大きな謎解きであったりと、それはいろいろなのだけど、多分、家でじっと考えていても出てこないのだと思う。歩いて、足踏みミシンのように脳が回転を始めて、初めて手に入れることができた思いつきなのではないだろうか。

 

もちろん、歩いたってそんなご褒美が全くないときもある。むしろ、ないことがほとんどだ。でも、何かの予感に駆られてふと曲り道を折れたとき、思いもかけない景色に出合うことがある。息を飲むほどの美しさだったり、既視感を覚えるような不思議な懐かしさだったり。それはもう、ご褒美としか言いようがないくらい楽しくて、私はしばし立ち止まりしっかりと心に焼き付ける。いったいこれは、偶然なのだろうか。それとも動き出した脳が私を導いたのだろうか。

 

トコトコと、ただ歩く。それはまた、心にも酸素を送り込む作業になっている。瑞々しい気持ちがよみがえり、ふさいでいた重しが軽くなっていることがある。何も思いつかなくても、目新しい景色との出合いが得られなくても、やはり歩くことは楽しい。そして、一息つくときのお水の美味しいこと!

 

歩きたいから歩く。それでいいのだ。さて、この秋もトコトコと、どこを歩こうかな。

 

再会の旅は、夏の軽井沢

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28年ぶりの集合だった。新卒で入社したアパレル企業は神戸の会社だったが、私は東京本社に配属された。そのときの同期東京チームの女子4人組は、それぞれ20代のうちに退社し別々の道を歩んだが、今も交流が続いている。ただし、居住地も変わり、子育てなどで忙しい時期もあり、全員で会うという願いはこれまでかなわなかったのだ。

 

LINEでグループを作り、やり取りできるようになったおかげだろう。「会おうよ」という話はどんどん具体的になり、「せっかくなら皆で旅行しよう!」という流れになっていった。そして7月、ついに私たちは集合した。旅行先は軽井沢。

 

台風の影響が心配されていて、実際当日は霧に包まれたり小雨に降られたりしたが、翌日と翌々日は見事な晴天で、野鳥の森や雲場池などの散策も快適。晴れ女がいたのかな。

 

30年近く会っていない子(このトシで子、もないのだが、人、というのはあまりにもよそよそしく感じられるのでこう言わせてもらう)もいたので、少し構えてしまう気持ちもあったのだが、あらら不思議、会ったとたん、私たちは20代の女の子に戻ってしまった。少し目尻にシワが刻まれた、少し老眼の女の子

 

とにかく元気なのである。そしてよく笑う。キャリーバッグをロッカーに預け、アウトレットモールを闊歩した。お洒落で綺麗な彼女たちはとても50代には見えないけれど、程よく「おばさん力」も身に付けているから一緒にいてとても心強い。1人ではなかなか入れない高級ブランドの店だって臆することなく足を踏み入れる。買えないけど。

 

大はしゃぎしたままのノリでホテルに入り、フレンチの食事で少しワインもいただくと、ますます気分がハイになってしまった私たち。ロビーのソファや螺旋階段で撮った写真を見れば、あのときどんなに嬉しい気持ちでいたかが皆の笑顔でよくわかる。「やっと会えたね」という思い。それは、皆がこれまでどんなに人生を頑張ってきたかを知っているからこその、再会の喜びなのだった。

 

決して順風満帆ではなかった、私たちのこれまでの人生。でも皆、本当によく荒波を乗り越えてきたと思う。家族のこと、親のこと、仕事のこと、今だってそれぞれ悩みは尽きないけど、あの若い日々、ボーイフレンドのことを聞いてもらったのと同じくらいの気安さで打ち明けられるし、それをまた皆、温かく受け止める。それぞれが苦労人だから、ちょっとやそっとの話では驚かない。年の功も発揮し、前向きになれる方向に話題の舵を切る。

 

「えー! こんなにラクに話せるんだ、この子たちとは今も」
そのことがどれほど宝物であるか、しみじみ実感した。社会人になる瞬間からの数年間を共に過ごした私たちである。あの頃の失敗だらけの恥ずかしい姿をみんな知っているから、そしてどんなに思いやりに溢れた時間を共有したかもよく覚えているから、何十年も会わなくても結びつきは深いのだろう、きっと。

 

そして、これからまだ少し人生は続くと思うけど、彼女たちが今も誰かのことを心配しながら人生を頑張っている、と考えるだけで、少なくとも孤独に感じることはないだろう。しょっちゅう会えなくても、自分のことより人のことで一生懸命になってしまう彼女たちのまごころを、ずっと近くに感じていけるだろう。

 

夏の日差しに輝く森や林を、歌いながら歩いた4人組。スマホで何十枚も写真を撮りあった。澄んだ藍色の空に、浅間山が映えていた。これまで何度か訪れている軽井沢だが、今回はまた特別な意味を持つ場所になった気がする。

 

リスペクトできる友人がいるというのはなんと幸せなことだろう。
彼女たちと出会えて良かった。本当に私は運がいい。

 

夏が終わろうとしている今、改めて深く思う。幸せは感謝となり、明日を生きるための小さな勇気につながる。道標のない人生には、絶対に必要な勇気に。

 

心にも効くハーブの香り

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我が家のベランダには毎年春、バジルの苗が植えられる。ローズマリーはもう何年も、挿し木を繰り返して生き続けてくれている。ハーブとの付き合いは長いのだけど、さほど深いものではなかった。

 

ところが今年はちょっと様子が違う。春先に園芸店で求めた苗は、バジルだけではなかった。セージ、コモンタイム、ディル、チャイブ、セルフィーユ(チャービルのフランスでの名前)。ここにいつものスイートバジル、そして新しいローズマリーの苗も買った。

 

なぜ、今年に限ってこんなにいろいろな種類を育てようと思ったのだろう。多分、助けて欲しかったのだ、ハーブたちに。その頃の私は、心を明るく保ちたくてもどうにも上手くいかなかったから。

 

去年の秋、肩と足を同時に痛め、思うように動けない日々が続いた。メンタル面でも回復期ではあったけれど不安定な状態だった。長女の結婚が決まり、お祝いムードの中にも寂しさが募る日々でもあった。

 

今年になり、そうだ、ハーブだ!と思い立ち、気づいたらはまっていた。関連本を買ったり、苗を寄せ植えするコンテナを探したり、ハーブハーブと口ずさむ日々。何かに夢中になるなんてこと、本当に久しぶりだった。そして夢中になれたのが嬉しくもあった。

 

寄せ植えをするときの土の匂い。水を受けた葉のきらめき。触れるたび香気を放つハーブたちは本当に可愛らしい。

 

少し育ってくると、料理にも活用した。素晴らしい香りの効用を発揮して料理をワンランクアップさせてくれるのも有難かったが、収穫のときから元気を与えてくれるのには驚いた。摘むことで香りの成分が勢いよく鼻孔に届き、生命力が最も清らかな姿で私のからだに沁みわたってくるようだった。眠たがっていた心が目を覚ました。

 

ハーブを育てることで、私は救われたと思っている。瑞々しい香りと親しむことは、多分心にも効くのだろう。ハーブは花も食べられるし、どの花も本当に可憐で愛らしい。虫がつきにくい種類や栽培が簡単な種類が多いのも、私にはぴったり。次はどんなハーブと出会えるのか、とても楽しみだ。