一筋の光、降り注ぐ光。

人生はなかなかに試練が多くて。7回転んでも8回起き上がるために、私に力をくれたモノたちを記録します。

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母の入院で事態は急展開―遠距離介護が始まった

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母が歩く夢を見た。

 

退院した母が、土間のような場所に立ち、そこから明るい外を見て
「あらぁ」
と嬉しそうに、ゆっくりと、薄桃色の紗がかかったような春の庭に出て、表の道を歩き出した。
杖もなしで、父の肩に手を掛けて。

 

「待って」
と私は慌てて追いかけ、母の手を取った。

 

「お母さん、歩いているじゃない、すごい!」
と私が驚くと、微笑んだ母。
「良かったぁ。治ったんだね。もう歩けないかと思ったよ。怖かったよ」
と私は涙ぐむ。母の手を両手で包む。

 

良かった・・・という自分の声がもう一度、私の口から出かかったとき、眠りの淵からこちらに戻ってくる感覚がわかり、私は絶望を感じた。

 

いやだ。目覚めたくない!
ずっと、夢の中にいたかった。

 


寝つきの悪い日が続いている。明け方、ようやく眠れても、妙な夢を見て目覚めることが多くなった。しかし、母の夢は初めてだ。淡い光に包まれた母は、とても綺麗だった。

 

現実の母は、病院にいる。父母の暮らす静岡市の清水に、私は3月に3回、行っている。ここ数年、年に1回帰るか帰らないか、のペースだったのに。

 

「深刻な話じゃないんだけどさ」と弟から電話があったのが2月の25日。母の足の痛みがひどくなり、もう杖をついても歩行が困難になった。車椅子や介護ベッド、手摺を導入することになったから来てくれと、父から弟にSOSが来たという話だった。明後日、行ってくるよと。

 

私も3月1日に弟と入れ替わりで駆け付けて、家のことを手伝ったり、母を元気づけたりしてきたが、あの頃はまだ、本当にこんなに深刻になるとは思っていなかった。2階から1階に寝室が移り、生活パターンの変化に慣れるまでは大変かな、くらいな感じだった。

 

3月12日。手摺設置の立ち合い等で、弟が岐阜から静岡に行ったその日、ケアマネージャーの勧めで、母は7泊のショートステイに入所となった。父の腰痛がひどく、母を介護するのが困難だと思われたための選択。

 

私はむしろ、ほっとした。父の腰の養生ができる時間がもらえたわけだし、介護のプロに母をお任せできるのは安心だと思ったから。

 

ところが、16日に事態は一変した。ショートステイ先で食事にほとんど手を付けなかった母は、脱水症状を心配され急遽診察を受け、入院となったのだ。今度は父から私にSOSが来た。

 

慌てて新幹線で静岡へ。不安なまま病院に到着すると、母は「おなかがすいた」と言っている。「だって朝から何も食べてないんだもの」と。「あなたが拒否してたんでしょうー」と力が抜けたが、ともかくほっとして、売店でパンとおにぎり、リンゴジュースを買ってくる。

 

しかし、医師から別室で聞かされた母の容体は、ステージ4。母はかつて膀胱癌と大腸癌の摘出手術をしており、その後癌は肺に転移していたが、医師からは「今すぐどうこうなるという進行ではない」と言われている、と私は両親から聞いていた。

 

進行、していたのだ。多分、年末くらいから。あの足の痛みは腰椎からではなく、癌のもたらす痛みだったのだ。

 

急性期病院であるため、母が入院できるのは最長60日まで。退院後はどうするか、つまり自宅で療養するか、療養型病院に転院するか、家族で話し合ってください、と言われた。高齢の父では介護力が足りないと思われるので、療養型病院をお勧めしたい、とも。

 

父の世代は皆、そうなのだろうか。療養型病院に対する偏見がすごい。巷では「姥捨て山」と呼ぶ人もいる、などと言い、絶対にそんな所へ入れるのは嫌だと顔をしかめた。「死なばもろともで俺が看る」と。

 

弟とも相談しようと、その日は父をなだめて帰ったのだが、母の現状を知ったショックの上、今後迫られる判断の厳しさに、私は頭を抱えた。加えて、父の動揺と憔悴への対応。

 

弟はもちろん「お父さん一人で看るなんて絶対無理。説得しなくちゃ」と電話で言った。23日に市の介護認定の調査がもともと予定されており、場所は自宅から病室に変更になったとはいえ、私も弟夫婦も揃うので、その日に相談しようということになった。

 

入院騒動で慌てて駆け付けたが、とにかく3日間、父のそばにいた。そして、ショックを受けた者同士がその後の時間を少しでも共有することは、とても大事なことのような気がした。

 

「お母さん、だいぶ悪そうだぞ。やばいかもな」
「うん、私もそう思った。・・・怖いね」
「そうだな。怖いな」

 

とても受け入れられないと思ったことでも、受け入れなければならないことがあるのだと、人は時間をかけて自分を納得させ、覚悟をしていくものなのかもしれない。

 

23日は夫も仕事を休んで、一緒に清水に行ってくれた。ケアマネと病院の相談員、看護師を交えての話し合いが行われ、父は療養型病院に母を入れることを承知してくれた。ケアマネから、自宅介護の具体的な内容を聞き、訪問看護や訪問診療、介護サービスがあっても、夜間などの不安が現実問題として実感できたようだった。

 

しかし、とても家に帰りたがっている母の願いを、私も叶えてあげたい。そこで、1週間でも5日でも、一度家で過ごしてもらい、その後で療養型病院に入院することにしてはどうかという、ケアマネの提案に賛成した。その間、私が泊まり込み、父をサポートするということで。もう、それしかない、という感じだった。頑張ろう、悔いを残したくない、と。

 

25日の朝、父は療養型病院に電話をし、その日の午後に面談の予約を入れてくれた。母の見舞いを済ませ、私は人工膀胱のケアのレクチャーを受け、父とともに転院先となるその病院に向かった。

 

さまざまな聞き取りと、入院手続きの説明を受けた。病院側の受入日が決まったら連絡をもらい、そこから逆算して自宅療養期間を取り、今入院している病院を退院する日が決まるという流れ。母の現状を思えば早い方がいいな、と思っていたのだが、ここで思わぬお知らせを聞くことになる。

 

「申し訳ないのですが、新型コロナウィルス感染防止のため、現在、ご家族であっても一切の面会をお断りしているのです」

 

私と父は面食らい、絶句した。確かに、今の世の中は、そういうことを了承しなくてはいけない状況だ。でも・・・

 

私の脳裏に「姥捨て山」という言葉がよみがえる。誰も会いに行かなかったら、母は本当に「捨てられた気持ち」になってしまうのではないか?

 

今入院している病院は、不要不急のお見舞いはご遠慮くださいとは言っているが、現状、面会できている。母を早く退院させるということは、母に会えなくなる日も早めてしまうということになるのだ。

 

むしろゆっくりの方が良いのか。母の早く帰りたいという願いを叶えることは、果たして良いことなのか。頭が混乱した。コロナめ!と心底憎んだ。しかし。

 

「この新型コロナ禍で苦しんでいる人がどれだけいることか。それを考えると、こうした状況もお母さんの、そして私たちの、受け入れなくてはならない運命なのかもしれないね」と隣の父に言うと、「そうだな」と頷いた。病院サイドのご都合日に従う、ということにした。

 

帰り道、バスを降りて、父たちが少年時代、青年時代を過ごした街を歩いた。思い出をたくさん、聞かせてくれた。初めて聞く話がほとんどで、とても興味深くて。ああ、お父さんは本当に清水っ子で、清水が好きなんだね、と、今の苦しみを脇に置いておけるくらい、優しい気持ちに浸ることができた。

 

入院した日、おなかがすいたと言って私たちを笑わせてくれた母は、しかしその後、どんどん食が細くなっている。病院食はほとんど手を付けない。リンゴやチョコレートをほんの一かけら、口に入れてくれたけど、もう結構と言われてしまった。

 

「食べて、点滴がはずれるようになったら、退院できるんだよ」と、母に食事をさせようとする父の目は悲しそうで、直視できなかった。

 

85歳なんだもの、何が起きてもおかしくない。頭ではわかっていても、心がついてこない。母にはもっと生きていてほしい。ベッドで私の手を力なく握り、そのままウトウトしてしまった母の顔は、少女のようだった。私は、自分がどんなに母を愛しているかを悟った。

 

「お母さん、お願い、食べて・・・」

 

清水から帰ってからずっと、そう願っていた。毎日、祈っていた。

 

昨夜、義妹(弟の連れ合い)からラインで、弟の高知県の友人が作っているミニトマトを送ったら、母が昨日は3粒、今日は6粒食べたよと、父から電話があったことを教えてくれた。

 

じわじわと、嬉しさがこみあげてきた。弟に、義妹に、高知の彼に、そして誰にともなく、トマトにまで感謝の気持ちがあふれてきて、昨夜はひとり、夜更けまで泣いてしまった。

 

この義妹が、よくできた人で。可愛くて優しくてさっぱりしていて気が利いて、私は昔から大好きだった。

 

もう10年以上会っていなかったのがここ最近で2度会って、ラインでやり取りが活発になってからは、ますます好きになっている。父の腎臓病のこともずっと心配してくれて、今度は父の要支援認定の申請をしようと動いてくれている。

 

私と弟と、夫と義妹。義妹が用意してくれたグループラインで今、情報を共有しつつ、相談しながら、勉強しながら、皆で遠距離介護を始めた。

 

遠く離れて暮らす老親のために、何ができるのか。忙しい中、それぞれが自分のできる最善を尽くし、皆で協力をするということを、初めて経験させてもらっている。それはもしかしたら、母からのギフトなのかもしれない。

 

既に両親を見送っている夫、お父さまを亡くしている義妹に、どんなことを大切に考えたら良いか、指南してもらいながら、私も弟も、父母のために今できることをしたいと思っている。

 

・・・母に、桜を、見せてあげたいなあ。

 

 


前回、もう少し頻度を上げて書いていきたいと言っておきながら、また日があいてしまいました。申し訳ないのですが、しばらくこんな状態が続くかもしれません。各方面、不義理をしてしまっている方も。。。この場を借りてお詫びします。ごめんなさい。