一筋の光、降り注ぐ光。

人生はなかなかに試練が多くて。7回転んでも8回起き上がるために、私に力をくれたモノたちを記録します。

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素敵な方と隣り合って暮らしていた、そんな幸せ

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その人は時々、ベランダで空を見ていた。手すりに肘をあずけて、あるいは頬杖をついて。どこか物憂く、寂しそうな表情にも見えれば、うっとりと夢見ているようにも見えた。

 

隣に住む私は、隔て板の向こうの彼女に気付くと、いつも声を掛けようか迷った末、首を振ってベランダから部屋に戻った。

 

邪魔をしてしまう気がして。彼女の世界を乱してはいけないと思って。

 

当時の私は、確か40代前半。まだ子育ても終わっていなかったし、仕事も大変な時期だった。生きていくのに必死のバタバタした日常の中、マンションの階段でたまに出会う彼女は、落ち着いた穏やかな印象だった。

 

その方、Tさんはちょうど私と母親の中間くらいの年頃で、お連れ合いとふたり暮らしのご様子。そこに入居することになったご事情とか、家族構成とかは、世代の違いによる遠慮もあり特に伺うこともなく、挨拶をしたり軽く世間話をしたりする程度の間柄だった。

 

けれども人懐こい笑顔が素敵だし、ちょっと八千草薫似の品のいい美人さん。「なんか好きだなあこの方」って、会うたび思っていた。

 

そう、いつもニコニコとおしゃべりをしてくれるので、ベランダで見かけたら挨拶くらいできそうなものなのに、空を見ているTさんには、簡単には話しかけられないような、バリアといってもいいくらいの、近づきがたい独特の気配が漂っていたのを思い出す。

 


私は、新築のその集合住宅に、結婚と同時に入居した。私たち夫婦の住む部屋は、3本ある真ん中の階段の3階で、その階段を使うのは1階から4階まで、全部で8世帯だった。

 

入居した当時は、個性的な住人が多くて面白かったり怖かったり。何故怖かったかというと、ヤクザの親分さんも1階にご家族で住んでいたからだ。派手なスーツの子分さんたちが頻繁に出入りされていた。そして、その2階上には、警察官と民放テレビアナウンサーのご夫婦が住んでいたのだった。すごいよね。ドラマみたい。

 

ところで私の娘たち。生まれた時から住んでいたわけで、あのマンションにはふるさと的な、ある意味「私の家」的な気分があったのだと思う。

 

小さい頃は、強面の親分さんに階段で会い、元気いっぱいに挨拶して
・・・褒めてもらったり!(^^;
遊び友だちのおうちはもちろん、そうでない他所のお宅でも、許されればどんどん上がってしまう。まあ、牧歌的な時代だったのかもしれないけど。

 

そして、冒頭のTさんのお宅にも上がりこんだことがあった。引っ越してこられて早々、だったと思う。どういういきさつだったか、よく覚えていないのだけど、多分、鍵がなくて家に入れなかったとき、Tさんが気づいて招き入れてくれたのではなかったか。

 

恐縮する親の気持ちも知らずに、「本がたくさんあってね、玄関まで本棚がびっしり。おじさんは怖そうに見えたけど優しい人だったよ」なんてはしゃいでいた娘。長女だったか次女だったか、あるいはふたりまとめてだったか。

 

でも、それをきっかけに、Tさんとはよく言葉を交わすようになったし、無口なお連れ合いさんにも「おはよう!」と声を掛けてもらえるようになった。

 

ちょっと上から目線ぽいようなこの方、大学教授だと後に知り、なるほど学者さんなのねと納得。下駄を履いてコンビニに行ったりする姿も、どこかユーモラスで憎めなかった。

 


27年近くもあそこで過ごしたから、その間に住人はどんどん入れ替わっていった。ヤクザさん一家もいつの間にかいなくなり、警察官カップルの次の次、くらいに入居したTさんご夫婦も、7年ほどで転居して行ってしまった。

 

その退去のご挨拶にいらしたとき、少し長めにTさんとおしゃべりができ、ある程度のご事情を教えてもらったのだった。

 

Tさんご夫婦にはお嬢さんがふたりいて、どちらも大学入学や留学などで、10代で家を出られていること。その後、一軒家を建てようと土地を買ったが地盤が悪いことがわかり、契約を破棄したら莫大なキャンセル料を取られた出来事。ひとまず、ということでこのマンションに移り住んだのだと。

 

不運を嘆きながらの入居だったが、鳥が好きなお連れ合いは、ここで野鳥が多く見られることに気を良くされたそう。Tさんもここでの暮らしに慣れていき、住み心地も良く感じるようになったそうだ。

 

そして、隣に住む私たち一家のふたりの娘を見て、お嬢さんたちを育てていた頃を懐かしく思い出したとおっしゃる。

 

遠く離れて暮らすことになるなら、もっとあの頃を楽しんでおけば良かったと思い、今後、暮らすならお嬢さんたちのそばに住みたい、と考えるようになったと。それで、東京で暮らすお嬢さんのご近所へ行こう、ということになったそうだ。

 

なんと。うちの娘たちの存在が、あのご夫婦のお引越しを決意させてしまったのか。

 

それから、Tさんはずっと源氏物語を研究されていて、好きが高じてカルチャーセンターで講師を務めるまでになったというお話も聞いた。どおりで雅で知的な雰囲気が漂っていたわけだ。

 

そうか、ベランダで空を見ていたときは、光源氏のことを思っていたのかな。いや、それもあるかもだけど、多分、ふたりのお嬢さんのことを思っていたのだろう。

 

空の青さ。飛ぶ鳥の美しさ。季節は移ろって・・・

 

早くに巣立ってしまったのだなあと、可愛らしかった幼いお嬢さんたちの姿を、きっと改めて思い出したのだ。寂しさ、愛おしさ、切なさが日に日に募っていったのかもしれない。そばで暮らせるものなら、そりゃあそうしたいよね。

 

元々、Tさんは東京の大学(女子大の最高峰)を出ていらっしゃるから、彼の地で暮らすことにも抵抗はなかったのだろう。むしろ、懐かしさの方が大きかったかも。

 

いろいろ納得して、幸せを祈りながらお別れしたのだった。でも、もっと仲良くしてたくさんおしゃべりをしておけば良かったなあと、そのとき私は心から思った。

 


5年前に、私たちもあの集合住宅を去った。思い出があり過ぎて、引き渡しのときはさすがに万感胸に迫るものがあったなあ。

 

たくさんの方にお世話になって、幸せな子育て時代を送ることができたと、今も感謝とともに思い出す場所である。

 

Tさんとは、この10年あまり、年賀状での交流が続いている。今ではカルチャーセンターの講師のみならず、大学の非常勤講師もされていて、ご活躍が眩しく嬉しい。

 

昨年は母が亡くなったため、年賀状は書かず喪中はがきを出した。すると、ほどなくしてTさんから長いお手紙をいただいた。思いやりに溢れた、優しく温かいお手紙を。

 

崩し字の達筆。ああ、母と同じだ。

 

どことなく母との共通点があるな、と、実はかねてから思ってはいたのだが、その字を見て、文章を読んで、私の母とやはり少し似ているのだと感じた。

 

Tさんとは全く面識のない母だけど、なんだか紹介したくなってしまい、母の遺影の前にそのお手紙を置いた私。

 

一昨日、拙い字の横書きだけど、お返事の寒中見舞いをTさんに出した。私のことももっと知ってほしくなり、長い長い手紙になった。少しだけ、母に手紙を書いている気分にもなった。

 


人生は出会いと別れの繰り返し。でも、この年齢になってくると、もう出会う数より別れる数の方が多くなっている気がしてならない。

 

そして、ご縁があって出会った人はたくさんいるが、出会った人全てが好きになるわけではもちろんない。また、出会って好きになった人全てに、好きになってもらえるわけでもない。

 

そんな中で、ほんのり相思相愛とも言える、うっすらとでも何か惹かれ合っている人とのご縁がある。しかもそれが続いている。

 

これって人生に彩りと輝きを与えてくれる、ひとつの宝物なのではないだろうか。
大事に、したい。

 


大変な世の中になってしまっていて、暗く沈みそうになりがちだけど、小さくても力をくれるもの、光を当ててくれるものは、日々の中に必ずある。また、小さくても誰かに力をあげられるもの、光を当ててあげられるものも、自分の中にきっとあるはず。

 

見落としがちな小さな小さな宝物。幸せのかけら。楽しみの種。見つけて大事にしていけば、明日はもっと良くなっていく。

 

信じて、口角を上げて、今日も機嫌よく生きようと思う。

 

 

今年の初投稿です。久し振りの更新となってしまいました。
喪中のため新年の明るいご挨拶は控えますが、本年もどうぞよろしくお願いいたします。
コロナ禍がおさまらず、また厳しい寒さが続く日々ですが、どうぞ皆さま、心身ご自愛くださいませ。
からだもこころも、大事にしましょう。守りましょうね。

 

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