一筋の光、降り注ぐ光。

人生はなかなかに試練が多くて。7回転んでも8回起き上がるために、私に力をくれたモノたちを記録します。

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実家の片付けは難しい―断捨離は急がずに

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母が亡くなり、清水の実家には父ひとりになった。威張りん坊だった父がものすごくしょげかえってしまい、見ていられない。父には反発することが多く、度々反抗的な態度をとってきた私だったが、最近は本当に父に優しくしている。可哀相すぎて・・・

 

区役所や年金事務所に出向いての各種手続き(本当にやることが多い!高齢化社会ではもっと簡素化すべき!)をサポートしたり、新盆(清水は7月盆)の来客対応などを手伝ったり、家の火災保険の新規契約に立ち会ったり。7月に入ってからも、清水通いは続いている。年を取り、事務処理能力にすっかり自信を失っている父を励ますのも、私の大きな仕事のひとつだ。

 

本当は、母の遺品の整理もそろそろ始めたい。それ以前に、実家に大量に溜めこまれている不要なガラクタたちを、少しでも処分したい。いつも、そう思って清水に行くのに、全然手を付けられずに帰って来る。父が抵抗するからだ。

 

「片付けなきゃいかんなあ。わかっちゃいるんだが」

 

父は辛そうにうなだれる。2月まで母はここで普通に暮らしていた。3月になって歩けなくなり、坂道を転がり落ちるように加速度がついて容体は悪化していった。そんな母が、振り返ればまだそこにいるようで、父は母のものに手が付けられずにいる。

 

例えば下着類などは、誰ももらってくれないことはわかっているから、一番処分しやすいかと思っていた。しかし父は、引き出しをあけると、母が丁寧に畳んでいた様子が思い出されて、その思い出で動けなくなるのだと言う。

 

「見てみろよ。こんなに綺麗に畳んであるんだ。足が痛くて苦しんでいたのに、一生懸命丁寧にやってたんだよ。『そんなの適当にしておけよ。俺がやっとくよ』って言ってやったのに、お父さんが畳むの下手だから、自分でやったんだ」

 

リアルに目に浮かび、泣き笑いになる。父に下着を畳まれるのは嫌だったんだろう、母は。そして、四十九日が過ぎたとはいえ、父の心の傷口からは、今も生々しく出血が続いている。

 

「お父さん、無理してお母さんのものを処分しなくていいよ、まだ無理だよ。もっと時間が必要なんだよ。『捨てる』っていう行為が嫌なら、私が持って帰ってうちで処分してもいいよ」

 

そう言ってみたが、それすらもう少し考えたいみたい。目に入ってくれば辛いくせに、なくなるのも嫌なのかもしれない。

 


実家ではあるものの、私はここで暮らしたことはない。だから、どこに何があるかよく知らなかった。母がいたときは、あちこち見ることに遠慮もあったし。

 

それでも、この家のモノの多さには気づいていた。古い家具も雑貨も食器も、服も靴もバッグも。どうしてこんなモノをずーっととっておくんだろうと、首を傾げることも多かった。私が幼稚園のときに使っていたアルミのお弁当箱まである。いらんでしょ。

 

そういえば、母も片付けたがっていたっけ。なかなか手が付けられないと言っていた。母が生きているうちに、断捨離を手伝ってあげておけば良かったな。

 

母が亡くなり、各種手続きに必要なものを探すために、家のあちこちの扉や引き出しを開けることになって、こんなのとっくに捨てられているべきでしょう?と呆れてしまうようなモノが、思ってた以上に溢れていることを知った。そして、そんなモノですら今の父には捨てられないだろうなと、痛みを伴って実感したのだ。

 

実は、父だけではない。私がいつも泊まる2階の和室には、母の嫁入り道具の三面鏡がある。多分、30年使っていない。母はこの家ではいつも、洗面所でお化粧をしていたから。

 

でもその三面鏡は、私には思い出があり過ぎる。子どもの頃、毎朝この鏡の前で、母が私の髪を結んだり編んだりしてくれた。若かった母が口紅を引くのを、横からうっとりと眺めていた。

 

うわあ、これ、手放せるかな、私に・・・

 

多分、父にはそんなモノばかりなのだろう。普段使わないものを溜め込んでいる2階の洋室は、本当は断捨離の候補の山だったはずなのに、今では思い出の宝庫となってしまった。私は何度もこの部屋に入ったが、毎回諦めて下に降りてきた。

 

実家の片付けは、難しい。自分の住む家の断捨離だって難しいのに、両親の思い出の品々を、古いとか、もう役に立たないとかの理由で、強引に処分するなんてできない。時間をかけて少しずつ、やっていくしかないのかな。

 

ただ、ひとり暮らしとなった父が、母との思い出の中に浸るだけの家にはしたくない、という気持ちがあって。家も、そう望んでいる気がして。

 

ちょっとずつだけど家事能力が上がってきている父が、日常生活をする上で動きやすいように、父の動線に合わせて部屋の模様替えをしてみたり、キッチンの道具の配置を変えてみたり、そんな提案をしていけたら、と思う。それなら手伝っていても楽しいし。不用品にサヨナラを言うチャンスも訪れるかも。

 

住まいは、人が動くことで呼吸をして生きているような気がする。そして、生きたがっているように感じる。

 

父にはまだまだ元気でいてほしい。母とふたりで暮らしてきた愛する住まいで、まだまだ動き回っていてほしい。少しずつ、少しずつ、新しい風を入れながら。

 

実家に行った折は、普段できていない掃除を中心に家のこともしてくる。キッチンや洗面所をピカピカに磨いてあげるのだけど、賞味期限がとっくに切れてる乾物や、開封されて半分飛び出していた滅菌ガーゼなどをこっそり捨てることも。捨てられるもの、これだけ?と我ながら可笑しくなる。それでもちょっとはスッキリする。

 


できるだけ清潔に、清々しい気持ちで暮らしたい。でも、掃除はあまり得意ではないし、苦手意識もある。モノが多いとメンテナンスもその分増えるし、ホコリは容赦なく降り積もる。気になりだすとあちこち拭きまくったり、洗ったり磨いたり。で、一日が終わってしまう。他のことが何もできなくなってしまう。

 

だから私は、モノは最小限に抑えたいし、好きでないモノは手放していきたい。それが私にとっての「断捨離」だ。そこは、ブレないでいたい。

 

ただ、それはあくまでも“私にとって”、だから。

 

父の家は父のものだ。父の気持ちが最優先。つい自分の論理を振りかざして手伝いたくなってしまうけれど、その衝動は控えよう。父のタイミングに合わせよう。心が辛くなる断捨離はしてはいけない。

 


「エアコンやテレビのつけっぱなしなんて、全然気にしなくていいけど、火の元と戸締りだけは気を付けてね」

 

毎回、そんな言葉を残して私は清水の実家を後にする。姿が見えなくなるまで見送ってくれる父に、振り返って何度も手を振る。手を振り返す父の姿はいつも寂しそうで、とても切なくなる。

 

「後ろ髪ひかれる思いをせずに帰れる日が、いつかは来るのでしょうか」

 

最寄り駅の手前。足を止めて、梅雨空の向こうにあるはずの富士山に、父を残して帰る後ろめたさや不安な思いを打ち明けた。
・・・もちろん、空の上の母にも。

 

「見守っていてね、お母さん」

 

今日は母の2回目の月命日。
あの日から、2か月がたつ。

 

 

「ありがとう」と言われた気がした―母のことをもう少しだけ

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清水の実家にはお仏壇がない。理由は聞いていないが、父は次男だし、結婚してからは転勤族となり、引っ越してばかりだったから、だと思う。薄給の公務員だったし。

 

ただ、父の家の先祖代々の霊を祀る紙と、母のお父さん(私の祖父)の戒名を書いた紙(紙位牌?)が貼られた木箱(多分みかん箱)が家にはあり、香炉とりん、花立、燭台など、小さな仏具も備えていた。

 

我が家ではそれを「のーのさん」と呼んでおり、私も時々はお線香をあげていた。受験の日の朝とかね。「のーのさん」は父が清水に家を建ててからも、そのまま和室に置かれていた。

 

最近になって知ったのだが、母は生まれた赤ちゃんの夜泣きに悩み、この「のーのさん」をこしらえて、祈り始めたそうだ。生まれた赤ちゃん・・・私か!!

 

母が亡くなり葬儀を終えて、私は少しの間、清水に残った。葬儀社が実家に設置した簡易祭壇には、母の遺影とお骨に加え、「のーのさん」にあった小さな仏具たちも並んだ。傍らには花があふれるほど置かれ、果物、お菓子、弔電に添えられたプリザーブドフラワー・フレームもお供えされ、私の刺しゅうや薔薇のポストカードも飾ってもらった。

 

綺麗で賑やかで、まるで三段飾りのお雛様みたいだと思った。遺影の母は明るい色の服を着て微笑みをたたえている。この可愛らしい祭壇に満足しているように、私には見えた。

 

親戚や父母のお友達。ご近所の皆さん。たくさんの方に、良い遺影を選んだねと、褒めていただき嬉しい。

 

そう、この微笑みはとても良い。少しソフトフォーカスで表情が曖昧なのも功を奏して、話し掛ける度に、様々な返答をしてくれるように見えるのだ。

 

清水の実家では、一日に何度もこの祭壇の前に座り、母に話し掛けていた。そこにいると少しだけ悲しみが和らぎ、心が落ち着いたのだ。それは写真の母が、必ず返事をしてくれるように感じたからだった。

 

「うん、うん。いいよ。わかってるよ」
「悪いねえ。迷惑かけてるねえ」
「あんた疲れたでしょう。2階に行って休んでおいで」
「大丈夫だから。あんまり心配しなさんな」

 


母と会話する場所が、私の家にも欲しい。そう思って、自宅に帰ってから、小さいサイズに焼き増ししてもらった遺影をフォトフレームに入れ、最初は本棚の上に置いてみた。花も添えたけど、少し寂しい気がした。

 

やがて、お線香代わりにと、お香を買って焚いてみた。初お香。実はお香には苦手意識があって、それは、かつて入ったアジアンな雑貨屋さんで焚かれていたものが、私には強烈な匂いだったことに由来する。

 

ところが、私が買ったお香は刺激も少なく、とても上品な良い香り。最初はコーン型のものを焚いていたが、すぐにスティック型も購入。ちょっと洒落たインセンススタンドに立てて、毎日香りを楽しんでいる。あれ、お線香代わりとか言ってたのに、これってお線香だ。

 

ちなみに、私が買ったのは日本香道の「かゆらぎ」シリーズ。百貨店に入っているショップで薦められた「藤」のコーンが気に入って、次にネットで「薔薇」のスティックを購入。他にも「石榴」や「金木犀「桜」茉莉花」など、試してみたい香りがいろいろあり、多分これからも買ってしまうだろう。笑

 

そんな風にお香も焚かれ、高低差をつけるために小さな台も置かれ、ロウソクならぬキャンドルも添えられた母の遺影のコーナー。フォトフレームは白でパールが散りばめられているし、傍らに今はひまわりの明るい花が飾られている。

 

母には仏壇ぽい感じよりも似合うんじゃないかな、と、どんどん明るく可愛いコーナーに育っていくけど、大丈夫かな。きっと眉をひそめる人もいるだろう。でも、私の祈りの場所なので、好きにさせてもらおう。

 

母は、どう思っているだろう。呆れているような喜んでいるような、微妙な笑顔だ。私はやっぱり、この笑顔が好き。本当にこの写真を選んで良かった!

 

遺影を選んだあの晩、母に「ありがとう」と言われた気がした。その後も、母はたくさんの「ありがとう」を私に言ってくれている。

 

棺を選ぶとき。白ではなく、薄桃色に品の良い柄が入ったものにしてもらった。副葬品に、母の好きだったフラダンスの衣装を加えたのだけど、母の体にそっと掛けてもらうドレスは、淡い藤色の上品なものに。真っ赤なドレスは畳んで足元に置いた。

 

親戚やお友達が、さいごのお別れを言いに棺の中の母を見てくださる。そのときの母には綺麗であってほしいし、母もそう望んでいるはず。

 

だから、湯灌のときも、シャンプー・シャワーの後のお化粧や髪形もきちんとオーダーした。特に眉は、母がいつも気にしていた部分だから、どうか形よく描いてあげてください、と。ヘアスタイルも、薄毛に悩んでいたからドライヤーでふっくら仕上げてあげてください、とも。

 

ねえ、お母さん、私、よくやったでしょう?ちょっと褒めてほしいなぁ。

 

葬儀で流すスライドショーの写真も、弟と一緒に選んだ。葬儀社の担当氏からはMAX20枚と言われていた。真剣になる。

 

アルバムをめくっていると、伯母たちが次々にのぞき込んで話し込み、前のページに戻ってなかなか進まないし、時間もない中で焦って大変だったけど(笑)、若き日の母の姿を見るのは楽しかったし、伯母たちの話す昔の母の様子も興味深かった。辛いというより、あのときは、うん、むしろ愉快で。

 

そして、プロに大変素敵なスライドショーに仕上げてもらったのだった。素敵過ぎて、当日は号泣してしまった。会場で、すすり泣きの声があちこちから。アメージンググレイスに乗せた5分ちょっとのスライドショーは、とても甘くロマンティックだった。そのとき、母の「おつかれさま。ありがとう」が聞こえてきた。

 

ピアニストさんには、童謡や唱歌を弾いてくださいとお願いしていた。母は昔から歌うことが好きで、コーラスのグループに所属したり、晩年は歌声喫茶によく行っていた。流行歌も歌っていたが、一番好きなのは唱歌だったようだ。

『花』
『故郷』
『朧月夜』
『春の小川』
 ・
 ・
 ・

 

葬儀の後、母の親友がピアニストさんにお礼を言いに行ったそうだ。
「彼女の好きな曲ばかり、弾いてくださってありがとう。涙が出たわ」
と。

 

母はきっと喜んでくれたよね。そしてきっと、母も一緒に歌っていたよね。

 


コロナ騒動の渦中でもあり、親戚と限られたお友達だけの、ほぼ家族葬のような温かで小規模のお通夜とお葬式だった。そのため、後日、生前お世話になった方に父が訃報の電話をかけ、場合によっては私も電話を替わった。

 

そのうちのひとつの電話は、母が最期を迎えた療養型病院。いつも優しく仲良くしてくれていたという作業療法士のIさんにつないでもらった。

 

この方は、父が出す手紙に返事を書けなかった母のために、母の話すことを代筆して手紙を出してくださったのだ。それも2回。

 

私は感動して、Iさん宛てにお礼の手紙を出した。もちろん、お返事無用と書いて、お礼のみ。負担をかけてはいけないからね。

 

ただ、母は歌が好きだということ。母のバッグにそっと歌集を忍ばせてあるので、可能ならば母の手の届く所に置いていただきたいという旨を、遠慮がちに書き添えたのだった。

 

直接話したことのないIさんは、どんな方なのだろう。母が好きになる人だから、きっと物腰の柔らかい可愛らしい感じの人だろうな、と思っていた。

 

果たして、電話に出てくれた彼女は、その通りの印象だった。ただ、涙声になってる?

 

 お手紙ありがとうございました。
 どんなに嬉しかったか。一生私の宝物です。
 アヤコさん(母の名前)と過ごす時間が、いつも楽しみでした。
 素敵な毎日でした。
 本当に素敵な方でした。
 お優しくて、いつも私の方が癒してもらっていました。

 

そんな風に話してくれて、私も声が震えてしまった。お母さん、さすがだ。
「ありがとうございます。歌は・・・歌集は見てましたか?」

 

 ええ!一緒に歌ってくれたんですよ。
 歌集の中から、
 『浜辺の歌』と『みかんの花咲く丘』を。
 「いいお声ですね」と言ったら
 笑ってくれたんです。
 「また来週も歌いましょうね」と言っていたのに。
 日ごとに、だんだん反応がなくなってしまって・・・

 

母の残り僅かな時間を、優しく見守ってくれていたIさんに、もっと母の話を聞きたかった。でも、胸がいっぱいになってしまい、それ以上は難しかった。

 

ありがとう。Iさん。
そして、母を癒してくれた歌たち。

 

『浜辺の歌』。
それは、母が丘の上の療養型病院に入院する前日、自宅ベッドに私と並んで腰かけて、一緒に歌った曲だ。父も、ちょうど買い物から帰ってきた弟も、一緒になって歌った。母は病院で、その歌を選んだのだ。

 

そして、今生最期に歌ったのは『みかんの花咲く丘』。
私も大好きなこの歌は、母が昔から、そう、私の幼い頃から、よく台所で歌っていた曲。三拍子で、聞いていると自然と首を左右に振ってしまう優しいメロディ。伊豆の海をイメージして詩が付けられたと聞いたことがある。

 

病床の母に一度、「お母さんは死ぬのが怖くないの?」と訊ねたことがあった。
あのとき、「全然」と答えた母。
「向こうで待ってくれてる人が増えたから?おばあちゃんに会えるから?」と私は重ねた。
「そうね」と母は遠い目をして微笑んだ。

母は、優しい祖母に、もう会えただろうか。

 

 

 みかんの花が 咲いている
 思い出の道 丘の道
 はるかに見える 青い海
 お船がとおく 霞んでる

 黒い煙を はきながら
 お船はどこへ 行くのでしょう
 波に揺られて 島のかげ
 汽笛がぼうと 鳴りました

 何時か来た丘 母さんと
 一緒に眺めた あの島よ
 今日もひとりで 見ていると
 やさしい母さん 思われる

   (作詞:加藤省吾 作曲:海沼実)

 

 

50'sの恋人たち―母の青春時代

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私の知っている母は、当然ながら私がもの心ついてからの人物で、それ以前は未知の人だ。若き日の母は、古いアルバムの中でしか知らず、それは子どもの私にとってすでにセピア色だった。

 

少女の頃、私は、母によく若い頃の話をしてほしいとねだった。どんな女の子だったの?

 

中学・高校時代はソフトボールの選手で、セカンドを守っていたこと。高校卒業後は、幼稚園の先生をしていたこと。洋裁学校に通い、服を作っていたこと。フォークダンスや社交ダンスが得意だったこと。

 

父とはそのダンスを通じて高校生のときに知り合い、長くグループ交際をしていたのだとか。父との馴れ初めを話すときの母の表情を、今も思い出す。少し照れたような、でもちょっと誇らしいような。

 

私が高1くらいだっただろうか。ファッション雑誌で1950年代の特集を読み、母の青春時代の服装がとても素敵だと思った。

 

ウエストを絞ったサーキュラースカート。オードリー・ヘプバーンの映画で大流行したサブリナパンツ。大きなボタンが付いたコート。母のアルバムを開いては、この服カワイイ!と興奮していた。

 

同じ頃、オールディーズや、それに合わせて踊るジルバやツイストなども好きになり、ダンスが得意な両親に手ほどきを受けもした。

 

父母が青春時代を送った50年代。
「タイムスリップして行ってみたいな!」

 

そんな憧れも、20歳で家を出て上京してからは、私自身の青春のひとつの記憶として、遠くセピア色になっていった。

 


3月は10日間、4月は7日間。
私が清水に滞在した日数だ。こんなに頻繁に、実家に帰ったことはかつてなかった。自粛要請中だったが、不要不急の用件ではなかったため許してほしい。

 

母は、急性期病院を4月6日に退院し、5日間の自宅療養期間を経て、4月10日に療養型病院に入院した。そして、5月28日、帰らぬ人となった。享年85歳。

 

新型コロナウイルスのためにできなかったこと。

遠距離移動の制限のため、5月は母が亡くなる日まで、私も弟も清水に行けなかった。
病院のある清水に暮らす父でさえ、感染対策のため母を見舞うことが許されなかった。
基礎疾患のある高齢者の参列が多い葬儀になるため、母がこよなく愛した孫たちも、他府県からの参列を自粛する他なかった。首都圏に暮らす弟や妹や姪たちも、ニューヨークの妹やオーストラリアの甥も、もちろん来られなかった。

 

仕方がないことなのだけど、とても悔しい。でも、私の悔しさなど霞んでしまうほど、父の無念さ、やりきれなさは、激しかった。

 

丘の上に建つ療養型病院に、父は頻繁に出向いていた。会えないと知っていても、手紙や差し入れを届け、看護師さんに母の様子を聞いていた。きっといつも病院の下から、母の病室の窓を見上げていたのではないだろうか。

 

手紙の返事が、父のもとに舞い込んだ。母が話す内容を、病院の作業療法士さんが代筆してくださったのだ。親切で優しい人たちが母の周りにいてくれて、本当にありがたいと思った。

 

でも、その手紙には「どうか一日も早く私をここから連れ帰ってください」という母の言葉が。父はどんなに辛かっただろう。

 

5月になって、病院のロビーと病室をつないでタブレット面会ができるようになった。予約を入れなければならないし、時間も10分程度なのだけど、父は喜んで伯母(父の兄嫁)と出掛けた。しかし、画面越しに見る、車椅子にすら座れずベッドに横たわる母の弱々しい姿に、茫然としたと言う。

 

5月18日、薬を誤嚥した母は発熱し、血中酸素濃度が著しく低下。酸素吸入と点滴治療が始まり、翌日、父は病院へ。医師の説明を受け、その後医師の計らいで数分だけ母に直接会うことができた。そのときは会話や握手もでき、父の顔を見た母は、顔色が良くなったようだと、担当の看護師さんに言われたそうだ。心配しながらも、父は会えたことを喜んだ。

 

「やっぱり、会って励ませば違うんだよ。家族に会えないことが一番、病人にはこたえるんだ」

 

父からはほぼ毎日、電話があった。病院からの報告に一喜一憂し、覚悟はしているが奇跡が起きてくれるかも、そうだったらどんなに嬉しいかと話し、私を切なくさせた。

 

父と伯母は22日にまたタブレット面会ができたが、そのときはちょっと手を振っただけでとても反応が悪かったそうだ。今度は比較的意識がしっかりしている時間帯に予約を入れましょうと、看護師さんに言われたらしい。

 

26日に病院に電話をした父は、微熱が続き、まだ酸素吸入と点滴がはずせない母を心配し、再度、「直接会いたい」と申し出る。医師から承諾を得た27日、数分間の面会をするが母は反応がなく、そんな母を見ているのがとても辛かったと父。

 

そして、28日。夜間看護しやすい病室へ移動したと病院から連絡。ほどなく危篤を知らせる電話があり・・・

 

間に合わなかった。私も弟も、父さえも、母の最期に間に合わなかった。

 

6月に入ればもう、県をまたいでの移動もきっと緩くなるよねと言っていたのに。5日に弟と病院を訪れ、医師の説明を受ける予定を立て、その折には直接、母に会わせてもらえる手筈になっていたのに。

 

待っていてほしかったよ、お母さん。

 

取る物も取り敢えず清水に駆け付けたけど、母はもう、病院から自宅に帰っていた。冷たい、からだ。でも、眠っているようにしか、見えなかった・・・

 

おかえりなさい。
ようやく、家に帰ってこられたね。
寂しかったね。
ずっと、誰にも会えなくて、どんなに寂しかっただろうね。
ごめんね。もっと何かできたかもしれないのに。
でも、おかあさん、本当によく頑張ったね。
さすが、西高セカンド。根性見せたね。
かっこいいよ、お母さん。

 

もう、痛みから解放されたんだね。
人工膀胱の、パウチ装着の不自由さからも。
歩けない辛さからも。
お父さんに会えない寂しさからも・・・

 

でもお母さん、寂しいよ、私。
まだ信じられない。
どうしたらいいの?


末期癌でステージ4と聞いた瞬間から、この日が遠くないことを覚悟していたけれど、父と毎日電話で話しているうちに、本当に奇跡が起きるのではないか、そうだったらどんなに嬉しいだろうと、どこかで期待している自分がいたのだった。本気で祈っていたのだった。
ああ、馬鹿げているのだろうか。

 

葬儀会社との打ち合わせ、電話や来客対応、食事作りや洗濯、掃除、お通夜、お葬式と、寝る間もないような日が続き、夫や弟夫婦が帰ってからも父のそばでしばらく過ごし、清水には9日間滞在した。父が時折見せる、激しい悲しみとやるせなさを共有しながら。

 

それから1週間がたつが、本当の喪失感はきっと、これから襲ってくるに違いない。寂しがり屋の父は、毎日のように電話してくる。来週、また清水に行く予定だ。

 


梅雨に入った。今の気がかりはもちろん父だけど、雨を眺めながら、気が付けば母のことばかり、ぼんやり考えている私。

 

特にあの5日間。自宅療養期間の。
ようやく退院できて喜んでいる母に、すぐまた別の病院に入院するのだということを告げなければならず、どう切り出せばいいのか模索する、とても重たい気持ちの5日間だった。

 

それに、あの期間もすごく忙しかった。毎日訪問看護師さんやヘルパーさんが来てくれて、契約書を取り交わしたり指示に従って動いたり。お見舞いに来てくださる方も多く、来客対応しながら要介護5の母の介護、食事や薬のお世話をしつつ家事もして、目が回りそうだった。

 

でも、あの日々、私は幸せだったのだ。夕刻のほんのひととき、父が仮眠を取っている間、ベッドの母とふたりきりで過ごす少し落ち着いた温かな時間が、とても幸せだった。

 

ようやく母のために何かをしてあげられている実感が持てたことと、なんというか、母を初めて独り占めできたような気がして。

 

「お母さん、大好きだよ」

 

夕暮れの、障子を通した幻想的な光の中で、手をつないだ母に、何回もそう言うことができた。小さな声で母も言ってくれた。

 

「私もよ。大好きよ」

 

急性期病院に入院中のときの、あるシーンについても何度も思い出す。日記を見ると、3月18日。ベッドに横たわる母の手を擦っていたら

 

「あんたの手、あったかいねえ」

 

と弱々しく私の手を握った母。そのまま、手を離さないままでウトウトと眠りに入っていった。その安心しきったような寝顔。

 

神様、どうかまだ母を連れていかないでくださいと祈りながら、私は母を失いかけている恐ろしさと共に、母を得た幸せをも感じるという、不思議な経験をしていた。

 


雨が降り続く。
私はスマホを手に取るが、清水で撮ってきた写真ばかりを繰り返し見ている自分に気づく。SNSももう何日、覗いていないことか。

 

少しずつ、ゆっくりと自分のペースで、日常を取り戻していけばいいよね。
雨を見る。心はまた、母に戻っていく。

 

弱っていく日々、母は病院のベッドでどんなことを考えていたのだろう。どんなことを思い出していたのだろう。

 

なんとなくだけど、母は父との恋愛時代を思い出していたような気がする。ウエストをキュッと絞った裾広がりのスカートをはいて、父とダンスを踊っていた、笑顔輝く青春の頃を。きっとそうだ。そうだといいな。

 

娘としては、子育て時代を思い出してほしい気もするが、今の父を見ていると、もう永遠に恋人同士でいなさいよと、言ってあげたくなる。

 

ワンマンで数えきれないほどあなたを苦しめてきたお父さんだけど、あなたを失ってこんなに悲しみ、出会った頃のエピソードを何回も、娘の私に聞かせてくれているよ。女の子たちの中で、あなたが一番可愛かったそうよ。

 

丘の上のあの病院に通い続けたお父さん。たとえあなたに会えなくても、そばに行きたくて通っていたんだよ。

 

そんなお父さんを、どうかずっと見守って、これからも愛し続けてあげてね。
お願いよ、お母さん。私の大好きなお母さん。

 


 天に在らば願はくは比翼の鳥、地に在らば願はくは連理の枝とならん
     ――――白居易『長恨歌』より

 

平和はわたしから―ハーブとホ・オポノポノの力を借りて

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昨日、駅前のスーパーマーケットまで、ハーブを買いに自転車を飛ばした。イタリアンパセリとディル。ここのハーブは新鮮でお値打ちなのだ。どうしても欲しかったディルは最後の1パック。入手できてほっとした。

 

このディルに加え、ベランダからローズマリーとチャイブ、タイムの葉を摘んできて、これらを細かく刻み、室温に戻したクリームチーズに混ぜ込む。キッチン中に、青い爽やかな香りが満ちる時間。私は大きく深呼吸した。

 

ハーブの力を借りよう!

 

辛いことが続き、内面が傷ついたまま治癒していないと自覚したとき、私はハーブづくしの食卓にしたくなる。まさに、薬草を求めるように。

 

昨夜はこのハーブチーズを石窯焼きのバゲットのスライスに塗っていただいた他、ミートボールのクリーム煮にイタリアンパセリを散らしたもの、スモークサーモンとアスパラのカルパッチョにディルをたっぷり添えた一皿を、結婚記念日の夕食とした。

 

質素で派手さはないけれど、体と心を優しく癒してくれる食卓になったと思う。夫と、31年前のこの日を思い出し、穏やかにおしゃべりをすることができた。人とのつながりの不思議、生きている間に再会したい人、など、話題が広がり楽しかった。

 

ハーブよ、ありがとう。

 


みんな、疲弊している。

新型コロナウイルス。私の住む地方では、緊急事態宣言は解除されたが、とてもではないが、まだ安心してなんて外に出られない。おっかなびっくりだ。人に会うのも怖い。

 

離れて暮らす家族にも会えない。会いたい人に会えない。大切に思うからこそ、会うことを控える。そんな非日常がもうずっと、何か月も続いている。みんな、辛いね。

 


 ごめんなさい
 許してください
 愛しています
 ありがとう

 

ホ・オポノポノの4つの言葉を、毎日、何度も口にしている。自分の中のウニヒピリ(潜在意識)にも、ずっと話しかけている。

 

以前はひとりの時にだけ声に出していたけど、最近は道を歩きながら小さな声で唱えたりすることも増えた。マスクの中だと、それができるのだ。緑道で立ち止まり、植物に触れながら「アイスブルー」とつぶやいても、誰も気づかない。ちょっとぐらい涙が流れていたとしても、誰も気づかない。

 

アイスブルーは、霊的、物理的、経済的、物質的な痛みの問題や、痛ましい虐待に関する記憶をクリーニングし、解放に導いてくれる言葉。「アイスブルー」と唱えながら植物に触れたり、自分が抱える問題に対して心の中でつぶやく。

 

HA(ハー)の呼吸も、自分の中に居心地の悪さを発見するたび、行っている。「HA」はハワイ語で「聖なる霊感」「息」という意味だそうだ。私のウニヒピリはこの呼吸法がとても好きみたい。自分の内面の波立ちがゆっくり収まっていくのを感じるとき、小さな驚きを伴いつつほっと安堵する。

 

焦りや動揺は、自然な歩みを止め、怒りや憎しみは、幸せを遠ざける。自分がいつもゼロの状態でいること、本当の意味での自由になることを、私は選び続けたい。難しいけど。

 

ホ・オポノポノのクリーニング・ツールのひとつ、ブルーソーラーウォーターも、今年から作るようになった。料理や洗濯、掃除にも使うことを習慣にすると良いそうだが、今のところ、飲料水にするだけ。それでも、飲むだけでクリーニングが行われているというのは、なんだかシンプルで素敵だ。

 

ブルーソーラーウォーターは、ウニヒピリが再生する記憶のほか、情報、リウマチ、筋肉の張り、痛み、憂鬱な気分などのクリーニングに効果的なのだとか。(『はじめてのウニヒピリ』宝島社、より)

 

この水の作り方は、ブルーのガラス瓶に水道水を入れて、日光に15分から1時間程度あてるだけ。曇りでも雨でも大丈夫だし、白熱灯の光でもOKとのこと。ただし、金属製の蓋は避け、プラスティックやコルクに(ラップでくるんでも良い)。あと、生水なので早めに使い切ること。

 

私はスーパーで見つけたリースリングのワイン(とっても安かった)を買い、そのボトルを利用している。とても綺麗なブルーで、光の中に置くとうっとりするほど美しい。蓋はいろいろ試したけど、「紅茶花伝」のペットボトルのものがちょうど良く、愛用中。

 

我が家のベランダは東向きなので、午前中にブルーソーラーウオーターを作る。そして備長炭入りの水筒に入れて冷蔵庫へ。これが私と夫の飲料水となる。水道水とは思えないくらい美味しいと思う。

 

さて。
ホ・オポノポノも緩~く続けていて、そろそろ5年になるのかな。最初は4つの言葉を唱えるだけだったのに、使うクリーニングツールもいろいろ増えてきたなあと、ちょっと可笑しくなる。実は、ロッテのグリーンガムも時々、買っている。「え?それもクリーニングツールなの?なんで?」って、知ったときは笑ってたくせにね。

 

ホ・オポノポノには、何度も、本当に何度も助けてもらったと実感があるので、こうして続けているのだ。ただ、今回の新型コロナ禍は、私が頑張ってどうこうできるものじゃないよね。そう思うのが当たり前だ。もちろんわかっている。

 

でも、ポノでは「平和はわたしから」と教えている。また、「すべては私の責任」という考え方もある。まだまだ素人の私には解釈が難しいのだけど、もしかしたらこの世界は自分が創ったもの(ひとりひとりに世界がある)かもしれない、となんとなく思い始めてもいて、そんな私は、こんな状況下だからこそ毎日、ホ・オポノポノのクリーニングをせずにはいられない。

 

外出自粛で会いたい人に会えないのも、規制が多くて不便なのも、もちろん辛いけど。もっと辛いのは、この騒ぎの中で誹謗中傷とか差別とかが続出し、人の心の醜さが暴かれていくのを立て続けに見せられることだ。

 

他人事ではない。失業した人や学業継続を諦めた人の話を見聞きした後で、家にずっと夫や子供がいて3食作るのが大変、みたいな話を聞くと、「そんなことくらい」なんてうっかり思ってしまっている自分がいる。あの人たちの大変さに比べたらあなたたちの苦労なんて大したことない、みたいに考えることを批判していたくせに、だめだね、私。せっせとクリーニングを重ねよう。

 

療養型病院に入院中で、病床で毎日寂しいと言っているらしい母のことを案じる日々。母のことばかり考えて眠れなくて苦しくなって、週に一度手紙を書いても落ち着かなくて。一人、清水の自宅に残された父のことも心配で苦しくて、それでも電話で話すと途方もなく疲れてしまって、1日おきに胃が痛くなって。会えなくて辛いけど、会えるようになっても辛いよねと、悲観的に考える自分が情けなくて、先のことを考えるのが怖くって。

 

そんな体験をしていることも、ホ・オポノポノではクリーニングの機会が与えられたと考える。体験は全て「記憶」の再生。私の中のどの記憶がこの体験を生み出しているのか。それを問い(答えを探す必要はない、というかそれは不可能)、クリーニングする。この苦しみの原因である記憶を手放します、と。

 

毎日、毎日、クリーニングしている。何かが解決し、安堵して、また新たに問題が発生してクリーニングする。その繰り返しだ。

 

心のかさぶたが取れないままに、次の傷ができていく。何かを楽しむことは母に申し訳ない気がするというのもあって、毎日が憂鬱と悲しみの色に染められていく。私の大好きな5月なのに、今年はこのまま終わっていってしまうのね。

 

そんな気分はどうしようもないのだけど、ちょっとぐらいの癒しでは、すぐにまた元に戻ってしまうのだけど、それでもベランダに出れば初夏の日差しはきらめいて、風はかぐわしく、ハーブたちは生命力にあふれており、ブルーボトルは希望の美しい光をまとっている。

 

母の病院の作業療法士さんが言ってくれてたそうじゃない、私の送った家族写真や刺しゅうを、「何度も眺めていらっしゃいますよ」って。まごころはきっと、届いているよ・・・そう自分に言い聞かせる。私が会いに行くまで、命の灯よ、お願い消えないで。

 

今日もお腹が痛いけど、私は幸せなんだ。そう思う。
コロナ騒ぎが収束しても、もう世界は元通りにはならないけど、囁かれるニューノーマルには小さな光も見え隠れしてる。
いろいろ・・・諦めたくない。

 

 Peace begins with me.
 平和はわたしから始まる

 

母の入院で事態は急展開―遠距離介護が始まった

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母が歩く夢を見た。

 

退院した母が、土間のような場所に立ち、そこから明るい外を見て
「あらぁ」
と嬉しそうに、ゆっくりと、薄桃色の紗がかかったような春の庭に出て、表の道を歩き出した。
杖もなしで、父の肩に手を掛けて。

 

「待って」
と私は慌てて追いかけ、母の手を取った。

 

「お母さん、歩いているじゃない、すごい!」
と私が驚くと、微笑んだ母。
「良かったぁ。治ったんだね。もう歩けないかと思ったよ。怖かったよ」
と私は涙ぐむ。母の手を両手で包む。

 

良かった・・・という自分の声がもう一度、私の口から出かかったとき、眠りの淵からこちらに戻ってくる感覚がわかり、私は絶望を感じた。

 

いやだ。目覚めたくない!
ずっと、夢の中にいたかった。

 


寝つきの悪い日が続いている。明け方、ようやく眠れても、妙な夢を見て目覚めることが多くなった。しかし、母の夢は初めてだ。淡い光に包まれた母は、とても綺麗だった。

 

現実の母は、病院にいる。父母の暮らす静岡市の清水に、私は3月に3回、行っている。ここ数年、年に1回帰るか帰らないか、のペースだったのに。

 

「深刻な話じゃないんだけどさ」と弟から電話があったのが2月の25日。母の足の痛みがひどくなり、もう杖をついても歩行が困難になった。車椅子や介護ベッド、手摺を導入することになったから来てくれと、父から弟にSOSが来たという話だった。明後日、行ってくるよと。

 

私も3月1日に弟と入れ替わりで駆け付けて、家のことを手伝ったり、母を元気づけたりしてきたが、あの頃はまだ、本当にこんなに深刻になるとは思っていなかった。2階から1階に寝室が移り、生活パターンの変化に慣れるまでは大変かな、くらいな感じだった。

 

3月12日。手摺設置の立ち合い等で、弟が岐阜から静岡に行ったその日、ケアマネージャーの勧めで、母は7泊のショートステイに入所となった。父の腰痛がひどく、母を介護するのが困難だと思われたための選択。

 

私はむしろ、ほっとした。父の腰の養生ができる時間がもらえたわけだし、介護のプロに母をお任せできるのは安心だと思ったから。

 

ところが、16日に事態は一変した。ショートステイ先で食事にほとんど手を付けなかった母は、脱水症状を心配され急遽診察を受け、入院となったのだ。今度は父から私にSOSが来た。

 

慌てて新幹線で静岡へ。不安なまま病院に到着すると、母は「おなかがすいた」と言っている。「だって朝から何も食べてないんだもの」と。「あなたが拒否してたんでしょうー」と力が抜けたが、ともかくほっとして、売店でパンとおにぎり、リンゴジュースを買ってくる。

 

しかし、医師から別室で聞かされた母の容体は、ステージ4。母はかつて膀胱癌と大腸癌の摘出手術をしており、その後癌は肺に転移していたが、医師からは「今すぐどうこうなるという進行ではない」と言われている、と私は両親から聞いていた。

 

進行、していたのだ。多分、年末くらいから。あの足の痛みは腰椎からではなく、癌のもたらす痛みだったのだ。

 

急性期病院であるため、母が入院できるのは最長60日まで。退院後はどうするか、つまり自宅で療養するか、療養型病院に転院するか、家族で話し合ってください、と言われた。高齢の父では介護力が足りないと思われるので、療養型病院をお勧めしたい、とも。

 

父の世代は皆、そうなのだろうか。療養型病院に対する偏見がすごい。巷では「姥捨て山」と呼ぶ人もいる、などと言い、絶対にそんな所へ入れるのは嫌だと顔をしかめた。「死なばもろともで俺が看る」と。

 

弟とも相談しようと、その日は父をなだめて帰ったのだが、母の現状を知ったショックの上、今後迫られる判断の厳しさに、私は頭を抱えた。加えて、父の動揺と憔悴への対応。

 

弟はもちろん「お父さん一人で看るなんて絶対無理。説得しなくちゃ」と電話で言った。23日に市の介護認定の調査がもともと予定されており、場所は自宅から病室に変更になったとはいえ、私も弟夫婦も揃うので、その日に相談しようということになった。

 

入院騒動で慌てて駆け付けたが、とにかく3日間、父のそばにいた。そして、ショックを受けた者同士がその後の時間を少しでも共有することは、とても大事なことのような気がした。

 

「お母さん、だいぶ悪そうだぞ。やばいかもな」
「うん、私もそう思った。・・・怖いね」
「そうだな。怖いな」

 

とても受け入れられないと思ったことでも、受け入れなければならないことがあるのだと、人は時間をかけて自分を納得させ、覚悟をしていくものなのかもしれない。

 

23日は夫も仕事を休んで、一緒に清水に行ってくれた。ケアマネと病院の相談員、看護師を交えての話し合いが行われ、父は療養型病院に母を入れることを承知してくれた。ケアマネから、自宅介護の具体的な内容を聞き、訪問看護や訪問診療、介護サービスがあっても、夜間などの不安が現実問題として実感できたようだった。

 

しかし、とても家に帰りたがっている母の願いを、私も叶えてあげたい。そこで、1週間でも5日でも、一度家で過ごしてもらい、その後で療養型病院に入院することにしてはどうかという、ケアマネの提案に賛成した。その間、私が泊まり込み、父をサポートするということで。もう、それしかない、という感じだった。頑張ろう、悔いを残したくない、と。

 

25日の朝、父は療養型病院に電話をし、その日の午後に面談の予約を入れてくれた。母の見舞いを済ませ、私は人工膀胱のケアのレクチャーを受け、父とともに転院先となるその病院に向かった。

 

さまざまな聞き取りと、入院手続きの説明を受けた。病院側の受入日が決まったら連絡をもらい、そこから逆算して自宅療養期間を取り、今入院している病院を退院する日が決まるという流れ。母の現状を思えば早い方がいいな、と思っていたのだが、ここで思わぬお知らせを聞くことになる。

 

「申し訳ないのですが、新型コロナウィルス感染防止のため、現在、ご家族であっても一切の面会をお断りしているのです」

 

私と父は面食らい、絶句した。確かに、今の世の中は、そういうことを了承しなくてはいけない状況だ。でも・・・

 

私の脳裏に「姥捨て山」という言葉がよみがえる。誰も会いに行かなかったら、母は本当に「捨てられた気持ち」になってしまうのではないか?

 

今入院している病院は、不要不急のお見舞いはご遠慮くださいとは言っているが、現状、面会できている。母を早く退院させるということは、母に会えなくなる日も早めてしまうということになるのだ。

 

むしろゆっくりの方が良いのか。母の早く帰りたいという願いを叶えることは、果たして良いことなのか。頭が混乱した。コロナめ!と心底憎んだ。しかし。

 

「この新型コロナ禍で苦しんでいる人がどれだけいることか。それを考えると、こうした状況もお母さんの、そして私たちの、受け入れなくてはならない運命なのかもしれないね」と隣の父に言うと、「そうだな」と頷いた。病院サイドのご都合日に従う、ということにした。

 

帰り道、バスを降りて、父たちが少年時代、青年時代を過ごした街を歩いた。思い出をたくさん、聞かせてくれた。初めて聞く話がほとんどで、とても興味深くて。ああ、お父さんは本当に清水っ子で、清水が好きなんだね、と、今の苦しみを脇に置いておけるくらい、優しい気持ちに浸ることができた。

 

入院した日、おなかがすいたと言って私たちを笑わせてくれた母は、しかしその後、どんどん食が細くなっている。病院食はほとんど手を付けない。リンゴやチョコレートをほんの一かけら、口に入れてくれたけど、もう結構と言われてしまった。

 

「食べて、点滴がはずれるようになったら、退院できるんだよ」と、母に食事をさせようとする父の目は悲しそうで、直視できなかった。

 

85歳なんだもの、何が起きてもおかしくない。頭ではわかっていても、心がついてこない。母にはもっと生きていてほしい。ベッドで私の手を力なく握り、そのままウトウトしてしまった母の顔は、少女のようだった。私は、自分がどんなに母を愛しているかを悟った。

 

「お母さん、お願い、食べて・・・」

 

清水から帰ってからずっと、そう願っていた。毎日、祈っていた。

 

昨夜、義妹(弟の連れ合い)からラインで、弟の高知県の友人が作っているミニトマトを送ったら、母が昨日は3粒、今日は6粒食べたよと、父から電話があったことを教えてくれた。

 

じわじわと、嬉しさがこみあげてきた。弟に、義妹に、高知の彼に、そして誰にともなく、トマトにまで感謝の気持ちがあふれてきて、昨夜はひとり、夜更けまで泣いてしまった。

 

この義妹が、よくできた人で。可愛くて優しくてさっぱりしていて気が利いて、私は昔から大好きだった。

 

もう10年以上会っていなかったのがここ最近で2度会って、ラインでやり取りが活発になってからは、ますます好きになっている。父の腎臓病のこともずっと心配してくれて、今度は父の要支援認定の申請をしようと動いてくれている。

 

私と弟と、夫と義妹。義妹が用意してくれたグループラインで今、情報を共有しつつ、相談しながら、勉強しながら、皆で遠距離介護を始めた。

 

遠く離れて暮らす老親のために、何ができるのか。忙しい中、それぞれが自分のできる最善を尽くし、皆で協力をするということを、初めて経験させてもらっている。それはもしかしたら、母からのギフトなのかもしれない。

 

既に両親を見送っている夫、お父さまを亡くしている義妹に、どんなことを大切に考えたら良いか、指南してもらいながら、私も弟も、父母のために今できることをしたいと思っている。

 

・・・母に、桜を、見せてあげたいなあ。

 

 


前回、もう少し頻度を上げて書いていきたいと言っておきながら、また日があいてしまいました。申し訳ないのですが、しばらくこんな状態が続くかもしれません。各方面、不義理をしてしまっている方も。。。この場を借りてお詫びします。ごめんなさい。

 

次郎長親分と南岡町

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手を洗い過ぎて手荒れが大変。ハンドミルクの減りが激しい、ここ数週間。ニューコロナ関連の日々のニュースには本当に気が滅入る。明るい兆しが早く見えないものか。

 

前回の記事で、明るい気分で3月を迎えたい、と書いたけれど、なかなかそうは問屋が卸してくれない。母の様態が思わしくなく、先週、静岡の実家に行ってきた。

 

頸椎から足を痛め、杖を使っていた母が、いよいよそれでも歩くのが困難になり、車椅子と介護ベッド、家の各所に手摺を導入することに。

 

先行して弟が行ってくれていたが、交代で私が4日間。初日は夫も来てくれて、キッチンのシンク周りを磨くなど、一生懸命協力してくれた。

 

私も母の通院に同行する他、2階のトイレを掃除したり、網戸と窓を拭いたり、洗面所やバスルーム、キッチンの排水口を掃除したり。長い間、放っておかれたようだった。あの綺麗好きな母がこの状態を許してしまうほど動けなくなっていたとは、と、こみ上げるものがあった。

 

父は以前は全く家事をしなかったが、母の足が悪くなってから、買い物や洗濯もの干しなど、進んでしてくれるようになったようだ。簡単な食事作りもできるようになっている。家事力が上がったのは素晴らしいことだが、やはり掃除系は後回しらしい。

 

近くに住んでいたら、毎日のように手伝いに来られるのに・・・

 

考えても仕方のないことを、つい考えてしまう。弟も私も遠方に住んでいて、駆け付けるにしても3~4時間はかかるのだった。

 

私は静岡県清水市(今は合併して静岡市)で生まれた。しかし、父が転勤族だったため、清水に住んだのは生まれてからの数年と、小学校2年の秋から5年の秋まで。だから、この町は父母にとってはふるさとでも、私にとっては「生まれた町」「住んだことのある町」としか言えない。

 

父は私が結婚した後、定年を迎え、清水に家を建てた。つまり、父母の住む今の家に私は住んだことがない。遊びに行くだけだった。

 

でも、娘たちが小さい頃は、年に数回家族で訪れた家。お世話になった家。

 

だから、愛情と感謝を込めて、話しかけるように掃除をしてきた。そして、父と母を守ってねと、お願いをしてきた。

 

子ども時代は引っ越しが多くて、私は幼稚園3つ、小学校4つに在籍した。清水は一番長く小学生をやった町だ。努めて目立たないようにしている転校生だった私だが、自宅周辺ではノビノビと遊んでいた記憶がある。富士山を、日常的に仰ぎ見て暮らしていたあの頃。

 

清水滞在の2日目の夕方。一人で買い物に出た私は、父から指定されたそのスーパーが、昔住んでいた場所に近いことに気づき、遠回りして懐かしい町を歩くことにした。

 

目立ったのはコンビニ、ドラッグストア・・・もちろん半世紀前にはない。笑

 

はじめのうちは、まるで知らない町になってしまったとガッカリした。でも、懐かしい八幡神社、稲荷神社はそのままだった。学校帰りの寄り道コースだった細い道も、まだ残っていた。

 

メリーポピンズみたいに飛べないかなと、傘を広げて飛び降りた石垣もそのまま。足首を痛めたっけ。笹舟を作って流した側溝には、蓋がしてあった。初めて鬼ボウフラを見て、その動きに見入っていたドブはこのあたりだったかな。変なことばかり思い出す。

 

曲がりくねった道だが、迷いなく歩くことができた。覚えているものだね。ミッション系保育園の十字架の塔は、今も目印になる。従妹が住んでいた集合住宅もまだ残っていて驚いた。築60年くらいになるんじゃないかな?

 

あいにくの曇り空で富士山は拝めなかったけれど、短い散策の間中、沈丁花の香りがあちらこちらから漂ってきた。

 

翌日の昼。母が大根のおでんが食べたいと言うので、父が「次郎長通りに買いに行こう」と私を誘った。美味しいお店があるらしい。アシスト付き自転車2台で、またまた懐かしいエリアへ。

 

「ここが橘寮があったとこだ」

 

自転車で前を行く父が右手で示す。一瞬で通り過ぎたが、そうか、ここだったんだ、私が住んでいたのはと、耳のあたりが熱くなった。もう跡形もなかったけど。

 

南岡町の橘寮。公務員だった父が、出張者を泊める寮に、一時期、管理者を兼ねて家族と住んでいた寮の名前だ。子どもの私にはとにかく広くて、部屋数が多くて、芝生の庭があって、こんな大きな家に住めるなんて嬉しいな、と単純に喜んでいたっけ。

 

当時は町中が塀でつながっていたように覚えている。私は猫のように塀の上を歩き、隣町までだって探検した(ように思う)。そして、猫がたくさんいる「バインジ」がお気に入りの場所だった。

 

それが「梅蔭寺」であり、清水次郎長の菩提寺である「梅蔭禅寺」のことだったと知るのは、転校して清水を離れてからのことだ。

 

梅蔭禅寺、次郎長通り。私は次郎長親分のゆかりの町で、3年ほど暮らしていたんだね。

 

清水次郎長(しみずのじろちょう)。
幕末の博徒で、海道一の大親分と呼ばれたことで知られる。侠客、いわゆるヤクザさんなんだけど、清水のヒーローだ。何故?

 

侠客であるものの幕末の混乱期に地域の治安を守る自警団を担い、戊辰戦争で官軍の先鋒を務めながら敵軍の戦死者を手厚く弔ったりし、山岡鉄舟や榎本武揚の知己を受ける。後に私財を投じて、富士の裾野の開墾や船会社の創設に尽力するなど、地元に貢献。

 

ざっくりと調べてみると、そんな名士像が浮かび上がる。でも、きっと大政小政や森の石松などの子分を従えて暴れまわってた頃の武勇伝、多くの人に慕われる人柄や、奥さんとの人間臭い逸話などが講談や浪曲の題材になり、義理人情に篤い「清水一家」の物語が、清水の人たちにとってご当地自慢のひとつになっていったのではないだろうか。

 

Wikipediaによると、任侠(にんきょう、任俠)とは本来、仁義を重んじ、困っていたり苦しんでいたりする人を見ると放っておけず、彼らを助けるために体を張る自己犠牲的精神や人の性質を指す語。とある。まさに、任侠の人だったのだろう。

 

ふと、父やその兄弟の顔が浮かぶ。それぞれ堅い仕事をしていたが、子ども時代は近所で知らぬ者はいない悪ガキ兄弟だったと、いろいろな人から聞かされた。すこぶる喧嘩が強かったらしいが、"強きを挫き弱きを助く"連中だったと。あらま、任侠精神?

 

もしかしたら次郎長親分、天国からうちの父たちを面白がって眺めてくれていたかもしれない。そんな考えが浮かび、少し楽しくなる。ついでに、梅蔭寺で猫と遊んでいた、友達の少ない小学生の女の子のことも、見守ってくれていたかなあ。

 

このエリアで最も大きい商店街、次郎長通りは、梅蔭寺から少し清水港寄りの場所にある。おでんを買った「梅の家」近くには、次郎長生家が残っている。

 

食が細くなっていた母が、この日はよく食べてくれて、夕方たくさんおしゃべりすることもできた。足をマッサージしてあげたら、すごく喜んでくれた。

 

運動が得意だった母。足が悪くなっても、自転車に乗ればさっそうと遠くまで出かけられた母。動けなくなってどんなに悔しいだろう。もうこのまま・・もしかしたらもうこのまま、どんどん動けなくなってしまうのだろうか。好きだったいろいろなことを、諦めていくしかないのだろうか。

 

口数が少なくなっている母。笑いながらしゃべってくれたのは束の間で、また悲観の思考に沈んでいく。そして、父はそんな母を支え続ける自信をなくし始めている。父のメンタルもとても心配だ。

 

清水を去る最後の日。玄関先を掃いた後、私は庭のオリーブの木から一枝切り取った。新聞紙に包み、自宅に持ち帰ろうと。何故、そんなことを思いついたのかわからない。あの家で生きているものをひとつ、自分のそばに置いておきたかったのかも。

 

後ろ髪を引かれる思いで帰ってきて、1週間がたつ。今日はまた弟が向こうに出向いてくれている。手摺の設置の立ち合いと、介護支援専門員との話し合いのために。

 

いよいよ、介護の新たなステップを上る。行政と介護のプロの力を借りて、遠距離で親を看ていくステップだ。自分の無力が情けないけど、今できることからやっていくしかない、と思う。

 

父が弱っていることも辛かった。去年、私を怒鳴ったあの勢いはない。よく衝突してしまう父と私。父は私が嫌いなのかなと思ったこともあったのだけど、帰り際に見えた父の携帯電話の待ち受けは、私の写真だった。胸が詰まった。

 

親分。次郎長親分。南岡町にいたつきかなです。
どうか父と母を見守っていてください。

 

今朝、WHOが新型コロナウイルスをパンデミックと認めた。世の中はどうなってしまうのか。希望がほしいと、切に思う。できるだけ、笑顔でいよう。

 

どんな状況にあっても、幸せな気持ちでいられることを諦めたくない。

 

 

ブログをお読みいただきありがとうございます。ゆっくりペースで続けてきましたが、この記事がようやく100本目となるようです。200本目に向かって、今後もマイペースで(もう少し頻度はあげたいですが)書いていこうと思っております。引き続きお立ち寄りいただけますと幸いです(*^-^*)

 

自分の中に変化を感じた2月―刺しゅうの可能性にときめく日々

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 今年は閏年だから29日まであるけれど、2月はやっぱり短くて、だからこそ大切にしてあげたくなる特別な月だ。柔らかな日差しは春の近さを感じさせ、時折吹く良い香りを乗せた風は、楽しい予感のようなものまで連れてくる。

 

ふと気づいたことがある。最近の私、「楽しかったー!」と言うことが増えたみたい。他にも「なんて可愛いの!」とか「嬉しい、ありがとう」「もー大好き♡」とか、素直な喜びの声が、臆面もなく口から飛び出している。もちろん良いことなんだけど、ちょっと驚いている。笑

 

PCが壊れて買い替えなければならなくなった等々、相変わらず金銭的な危機は繰り返しやってくるのだけど。それでも友情や家族の絆を感じる局面が多くなったし、そうそう、次女に勧められて応募した「セリアde川柳」は33,000を超える作品中の35作品としてノミネートしていただいた。グランプリは逃したけれど、やっぱり嬉しい。

 

先日は弟夫婦が遠くから遊びに来てくれた。義妹に会うのは何年ぶりだろう!とても楽しいひとときが過ごせて、今も胸が温かい。

 

外出も増えた私。街なかへ出るのがずっと億劫だったのに、年末に次女に連れ出されたのをきっかけに、結構な頻度で都心部に行くようになっている。

 

「54字の物語」を作ってみようという、氏田雄介さんのワークショップに行ってみたり、西城秀樹さんの写真集『HIDEKI FOREVER blue』出版記念パネル展にも(もちろん)出向いた(4回ね)。新聞社勤務時代からの飲み友おじさんたちから久々にお誘いがあり、笑いっぱなしの再会も楽しんだ。

 

そして、一昨日は「布博in名古屋」へ。"布"にまつわる作家さんたちの作品群が見られるとあって、雨の中、ワクワクしながら出掛けて行った。

 

一番のお目当ては、大好きな刺しゅう作家のatsumiさん。会場内ステージでのトークがあると知って、これだけでも入場料払って行く価値がある、と思ったのだった。

 

とても興味深いお話が聞けたし、想像通り素敵な方で嬉しかった。刺しゅうの魅力、その表現の可能性について、楽しく思いを遊ばせてもらえる時間だったと思う。

 

サテンステッチがお好きとのこと。私は苦手なの。でもそうだなあ、練習して好きになりたい。頑張ろう。「刺しゅうは好きなんだけど縫製は得意じゃない」というくだりには共感です!笑

 

会場を巡ると、オリジナルの服、生地、布小物、ニット、刺しゅうアクセサリーなどなど、今をときめく作家さんたちの自信作が山盛り。本当に素敵なものがいっぱいで、見ているだけで幸せな気持ちになれたし、自分の創作時に参考にしたくなるヒントをたくさん拾わせてもらえた。

 

中でも一目惚れで、その場から動けなくなってしまったのが、片山邦子さんのnico*iro (にこいろ)。染めたオーガンジーに優しい色味のビーズ刺しゅうを施した、とっても繊細で愛らしいアクセサリーの数々にびっくり仰天。

 

綺麗すぎる。
どうやったらこんな素敵なものが作れるの?
私にもできる?
教えてもらえたらどんなに素敵だろう。
やっぱり刺しゅうってすごいわ!

 

・・・恋に近いときめき。

 

布と布雑貨では、温かみのあるお洒落なデザインを手捺染という技法を使って丁寧に染め上げ、手作業で縫製しているというnocogouさんが、私には特に印象的だった。とにかく、図柄が可愛い。それでいて上品で、ナチュラル、心地よい。森をデザインした布と、レモンとローズマリーをモチーフにしたマスキングテープを購入。

 

世の中にはお洒落で可愛くて素敵なものが、どんどん生まれているんだね。と、たくさんの実物を前に、感嘆しきりの一日だった。本当に行って良かった。

 

さて、この経験を私はどこまで活かせるかな?

 


ところで。
刺しゅうに関心を持つようになってからというもの、私はさまざまな「模様」に目が向くようになってきた。例えばTVで知ったイングランドの陶器デザイナー、スージー・クーパーのティーカップの模様。アステリを並べただけなのに、なんでこんなに可愛いんだろう、とときめいた。これ、刺しゅうで絶対再現してみたい!と。

 

マスキングテープの色柄や、包装紙のイラストにも、ときめくデザインを見つけては模写をする日々。道を歩いていても草花の形状や、見上げる木の枝のレースのような繊細さに感動し、スマホで撮影して参考にさせてもらう。

 

なかなか技術が追い付かないが、刺しゅうで試してみたいものがどんどん増えていく。この頃では風景などをゆるいタッチで描いてみたいな、という気持ちが膨らんでいて。

 

どこかで見た景色とか、何かで見た街角の絵や写真、映像。なんとなく懐かしいような、優しい気持ちになれるような風景を、スケッチ風に刺しゅうできたらいいな、と。

 

先日、まずは絵筆の使い方を教えてもらうような気持ちで、桜井一恵さんの図案集から海辺の景色を選んで刺してみた。麻布にシンプルに。糸の色数を抑え、細めの線もあえて真っ直ぐにせず。こういう表現も面白いなと思い、刺してる間中、楽しかった。次は、自分のデザインで描いてみたいなあ、と思う。

 

レモンイエローのスイートピーが視界に入る。優し気な姿に心が和む。

 

「楽しかったー!」をいっぱい乗せて、生まれ月なのでひとつ年齢も重ねて、甘い花の香りとともに2月も去っていこうとしている。3月もこのまま、明るい気分のままで春の訪れを喜べますように、と願いながら空を見上げた。

 

世の中には不安なニュースもあり、新型コロナウィルス感染拡大など本当に情勢が気になるけれど、どうか早く終息に向かいますようにと祈りつつ、とにかく予防、健康管理に気を付けたい。早く安心して日常生活を送りたいですね。

 

ビックリハウスに住んでいる?

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一年で一番寒いはずのこの時期。春のような温もりが部屋に満ちている。レースのカーテン越しにパステルブルーの空が広がり、遠く聞こえるヘリコプターの飛行音が眠気を誘う。

 

一昨日のこと。穏やかな昼下がりに、次女の寝顔を見下ろした。まだ熱が残っているようだ。

 

12月にひとり暮らしを始めた次女。しっかり自炊もして会社にお弁当も持って行ってるようで、元気に頑張っているねと安心していたのだが。

 

出張の帰りに突然具合が悪くなり、吐き気がするため新幹線で多目的室を使わせてもらい、降車した名古屋駅でもスタッフの方に親切にしてもらったらしい。そのままひとりの部屋に帰るのが不安で、私に「おうちに帰ってもいい?」と連絡してきた。

 

倒れ込むように玄関に入った彼女を布団に寝かせて、もうだいぶ落ち着いたよ、という言葉に一度は横になったのだけど。一晩中、何度もうなされて苦しそうで、私も夫もほとんど眠れぬ夜を過ごした。

 

翌朝、まだ病院に行ける状態ではなく、夕方になりようやく、起き上がってもふらつかなくなったので、近所の診療所まで送っていった。

 

この時期、インフルやノロ、新型肺炎など不安材料が満載で、怖い病気でないと良いけどと心配していたが、胃腸風邪だったようで少し安心。おかゆを食べられるようになった彼女の顔を見て、「回復する」ということのありがたさを噛みしめていた。

 

その翌日も次女は会社を休んで、夕方までこの家で寝ていた。私は、我が腕の中に戻ってきた娘を介抱しながら、胸に広がる甘い気持ちはなんなんだろう、と訝っていた。幸福感にも似た寂しさ、諦念感に近い愛情。

 

病気になったのは可哀想だし心配だけど、私たちの元へ帰る判断をしてくれたのは嬉しい。それはもちろん、自分の部屋に帰ったならどうなっていたかと想像し、焦る気持ちがあるからだろう。

 

でも、それよりも・・・頼ってもらえたのが親として嬉しい、という気持ちが強いかもしれない。また、子どもを看病するという行為への懐かしさ、感傷的な気分が、きっとあったのだ。

 

早春の窓辺。風邪をひいた幼い頃の娘たちと、私との親密性。そして遠い昔の小さな私と、看病してくれた若い母・・・

 

ミシッ。バチン。パンッ!

 

眠っている娘のそばで静かに自分の内面を見つめていると、そんな私を笑うかのように、家が音を立てた。

 

築30年を超える古マンションは、4年前に引っ越してきたときから、あちらこちらで音がする。当初は気味悪がったものだが、すっかり慣れてしまった。また鳴ってるわ、てなもんだ。

 

吊戸棚が突然落ちてきた事件もあったし、リビングのドアノブが動かなくなったことも。そのたび大騒ぎしたものだが、私はこのオンボロマンションが、結構好きになってしまっている。

 

「今日はよく鳴っているね」と起きてきた次女と笑い合う。次女はこの家を「ビックリハウス」と呼び、面白がる。そう呼ぶと、不思議と楽しく可愛く思えるものだ。

 

すぐにでも引っ越したいと思った頃もあったが、今はちょっと違う。もちろん、いつまでも住む家だとは思っていないけど、ご縁があってここへ導かれた気がして仕方ない。

 

私がこの家を愛することで、この家のもつ負の記憶が浄化される、そんな思いを持つようになった。今はその最中であり、それが終わったら自然な流れで、私はここを出て行くのだろう、きっと。

 

この町に来たのも、何か大きなものに導かれた気がしてならない。そしてきっと、そう遠くない日に、私はこの町ともお別れするだろうな、と感じる。

 

「ふるさと」と呼べるものがないに等しい私が、「ふるさと」に縛られることを嫌う夫と出会い結婚したのも、ただの偶然ではない気がする。根無し草、という言葉が脳裏に浮かぶ。

 

それでも私は毎晩、眠りにつく前に枕に頬をうずめて、こうつぶやいているのだ。

 

 私はこの枕が好きよ、このお布団が好きで、このベッドも好き。
 この寝室が好きでこのおうちが好き。
 そしてこの町が好きよ。
 ありがとう。

 

外国人向けなの?と笑っちゃうくらい高い位置にある、物干し竿かけの金具。規格外に大きな窓ガラスは、既製品のカーテンでは覆えない。リビングドアを外側に開くと隠れてしまう玄関の照明スイッチは結局使いづらすぎて、電球ごと人感センサーライトに変えた。

 

数え上げればきりがないほど、使いにくい家。失敗作かと思える、住みにくい家。でも、愛着が湧いてくると、それほど住みにくいとも思えなくなってきて、むしろ居心地が良いくらいなのだから、面白いものだ。

 

「ああ、ここは落ち着くわー」と伸びをした次女は、驚異的な回復力で元気になり、昨日無事に帰って行った。

 

もしかしたら、ビックリハウスのおかげかもしれない。と、私は秘かに思っている。なんとなくだけど、このおうちの機嫌がとても良くなっているのを感じるのだ。

 

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上手になりたい、とシンプルに思う。刺しゅうも、他のことも・・・

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『一週間』という歌がある。ロシア民謡らしい。

 

 日曜日に市場へ出かけ
 糸と麻を買って来た
 テュリャ テュリャ・・

 

 月曜日にお風呂をたいて
 火曜日はお風呂に入り
 テュリャ テュリャ・・

 

 水曜日にあのこと逢って
 木曜日は送っていった
 テュリャ テュリャ・・

 

 金曜日は糸巻きもせず
 土曜日はおしゃべりばかり
 テュリャ テュリャ・・

 

 恋人よこれが私の
 一週間の仕事です
 テュリャ テュリャ・・

 

というのが歌詞。初めて聞いた小学生の頃、なんて変わった人なんだろうと思った。

 

やること少ないんだなあ。暇なのかなあ、のんきなのかなあ。こんな人が恋人だったら、いくらテュリャテュリャ・・~♪って歌われても嫌になっちゃうんじゃないかなあ、なんて心配したものだ。

 

2020年が始まり、10日が過ぎた。去年から持ち越しの問題を抱えており、のんきにしていてはいけないとはわかっているのだけど、ちょっと今、具体的にどうしたらいいのかわからない状態。軽く金縛り状態。

 

で、『一週間』という歌を思い出してしまうくらい、最近の私はこの歌詞に似た暮らしをしている。この効率重視の世の中で、真逆のように時間を掛けてひとつひとつの仕事をし、続きを明日の自分に託して早めに休んでしまう。

 

分刻みで日々を多忙に駆け抜けている人たちには、眉をひそめられそうだ。そんな風に思えばなんだか申し訳なくなり、委縮して、余計にポジティブな思考から遠のく気がする。

 

なんでもかんでも詰め込んで忙しくすれば良いっていうものではない!そもそも「忙しい」は免罪符にはならない!と、考えるタイプの私だったはずなのに。忙しくしていないことに罪悪感を持つなんて、ちょっとモヤモヤするなあ。

 

こんなときこそ、手芸脳だ!

 

手芸には、脳の機能を活性化し、ストレス軽減、自尊心の向上、心を癒すなど、さまざまな効果があると言われている。リラックスし、創造性を発揮できる上、「やる気」になった脳のおかげで、次のパフォーマンスへの取り掛かりもスムーズになるというおまけ付き。

 

そうだ、刺しゅうをしよう、と思い立った。小さな光が差した。

 

今年初の刺しゅうは、キーチャーム。わけあって「6」をデザインした。

 

やっぱり刺しゅうは楽しい。綺麗な色の糸を扱うことが気持ち良く、癒される。刺し進めて出来上がりが見えてくると、ワクワクしてくる。幸せホルモンが出ているのかな。

 

でも、思うのだ。ステッチがまだまだ下手だなあ、と。

 

糸がねじれて光沢が半減している。サテンステッチは糸の方向がなかなか揃わない。あれ、コーチングステッチが中途半端になっている。フレンチナッツステッチの間隔がまちまちだな。

 

・・・仕上がれば嬉しいのだけど、少し残念な気持ちもあって。たまにしかやってないし、素人なんだから、気にしなくていいんだよと自分を慰めたりする。笑

 

でもね、今年はもっと上手になりたい。もっと気分よく仕上げられるようになりたい。もう少し頻度を上げて刺しゅうをすれば、上達するんじゃないかな。ちゃんと練習を重ねてみようかな。そう思った。

 

新しい年に新しく何かを始める。それも素敵なのだけど、今、私の心を占め始めているのは、「上手になりたい」という気持ち。

 

刺しゅうだけではない。字も、絵も、雑念にさらわれがちな瞑想も、上手になりたい。

 

他にもいろいろあるな。料理の盛り付けや花あしらいも上手になりたい。それから、やりくりも、人付き合いも、親とのコミュニケーションも・・・なんてね。どさくさか?

 

七夕の短冊に書く願い事――「ピアノがもっと上手になりたい」とか「習字が上達しますように」とか書かれているものを見ると、「プロ野球選手になりたい」や「アイドルになれますように」などと比べて地味だけど、私はなんだかすごく好感が持てる。ちょっとそれに似た気持ちなのだった。

 

「よーし」と声が出た。手芸脳のおかげで、「やる気」のスイッチが入ったみたい。

 

「上手になりたい」と思うものの中で、経験値を上げることで上達できそうなものは、とにかく繰り返しやってみよう。上手にできなくても、上手になるための道のりだと思えば、自分にがっかりすることもないだろう。多分。

 

実は、今回作ったキーチャームを付けるのは、12月にひとり暮らしを始めた次女の部屋の鍵。次女は、鍵をひとつ、私たちに預けてくれたのだった。

 

鍵を親に預けるって、普通のことなのかな。でもそんなことが、私はなんだかとても嬉しくて、その鍵を大切に扱いたかった。「6」の刺しゅうでキーチャームを作ってよ、と私に頼んだ夫も、同じ思いだったのかな。(何故、6かは秘密です・笑)

 

もう少し上手に刺しゅうができるようになったら、今度は夫にも作ってあげよう。嫌がるかな。でも渡そう。数字じゃなくてイニシャルがいいね。お守りがわりにしてもらえたら嬉しい。

 

その頃には、抱えている問題が解決に向かって動き出していますように、と願いながら、そのためにも私は健全な自己肯定感を持ち続けなくてはね、と苦笑する。

 

手芸脳の力も借りつつ、自分にできることをやっていこう。不安との向き合い方も、上手になりたいね。いろいろ、上手になりたい!

 


ところで、冒頭の歌。
気になって少し調べてみると、19世紀末、ロシア革命前夜の混乱した時代に生まれた民謡のようだ。

 

麻糸で布を作る仕事と地味な家事で、単調な毎日を過ごしている女性の、年末年始の一週間を綴った歌。年末だから仕事はあまりはかどらず、恋人が家に挨拶に来てくれて泊まっていった。金曜日は1月1日で皆、仕事を休み、土曜日は内乱で亡くなった人や祖先に供養をした。

 

夢のない退屈な生活と、続く内乱、暗い世情。鬱屈した毎日から、この町から、恋人よ、早く私を連れ出して!

 

そんな素朴で、かつ切実な、田舎町のひとりの娘さんのお話だったようなのだ。ひとつの解釈ではあるけれど、それを読み心が痛んだ。歌の生まれた時代背景と地域について、小学生の自分に教えてやりたい。

 

のんきだなんて言って、ごめんなさい!

 

遠き恋人の君を想う―西城秀樹さんとクリスマス

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冬の花火大会(花火劇場と言うらしい)を見てきた。アンデルセンの「マッチ売りの少女」のストーリーに、音楽と花火を連動させたイベントだった。

 

最初のうちは、ナレーションの語り口に乗れなかったり、パラパラと上がる花火を少し物足りなく感じたりしながら見上げていたが、物語の節目でドドドドッと大輪の花々が打ち上げられることが繰り返され、だんだん陶酔していった。

 

華麗でカラフル。迫力もあるけどロマンティックで、さながら天空のイルミネーションといった風情。クライマックスのゴージャスな演出には思わず「おお!」と声が出てしまった。

 

周囲を見渡すと、当然ながらカップルが多い。今年のクリスマスイブは平日なので、一番近いこの週末にクリスマスデートする人たちが多いんだろうね。

 

来場者数見込み約8万人と聞いたが、どうだったんだろう。確かにすごい人数だった。

 

真冬の大空を彩る美しい花火のショー。見上げていた大勢の人たちは、皆それぞれ、どんな風にこの夜のことを記憶に刻んでいくのだろう。幸せそうな笑顔が、あちらにもこちらにも見えたけれど・・・

 


 君に贈りたかった
 銀の指輪のように、
 約束も果たせずに
 その若さが目映いほど
 今でも君は笑っている

 

西城秀樹さんの『遠き恋人の君』のメロディーが、心に流れてきた。2008年にプライベートで制作された未発表曲で、幻の名曲と言われていたものだ。今年5月に発売された『HIDEKI UNFORGETTABLE-HIDEKI SAIJO ALL TIME SINGLES SINCE1972』(CD+DVD BOX)に収録されたことが話題になり、この春、私も初めて聴いた。

 

そしてクリスマスシーズンが近づいてくる中、この曲を度々耳にするようになり、柔らかく切ない歌詞とメロディーラインが、頭の中で繰り返し再生されるようになった。好きなクリスマスソングは山ほどあるのだけど、何故かこの曲ばかり。

 

クリスマスの恋人たち・・・自分や友人たちの体験だけでなく、小説や映画、ドラマなどでも数えきれないほど見てきたが、幸せ一色、というものはほとんどない。迷いや悩みもエッセンスにして、冬の恋は輝くのかもしれない。

 

遠い日に別れてしまった恋人を、クリスマスの華やぎや、あるいは聖なる雰囲気の中で、ふと思い出す人も多いんじゃないかな。出会いから別れまでの出来事を、星座のように辿ることもあるかもしれない。若かったなあと、懐かしさに少しの悔いを混ぜ込みながら。

 

この曲は、HIDEKIの遠い昔の恋を歌ったものだと聞いた。作詞はかねてから交流のあった歌手の沢田知可子さんで、HIDEKIがクリスマスソングを作りたいと依頼したそうだ。そのお話の中で、若い日の恋のことを、大切な思い出として打ち明けたのだろうか。

 

 あれはまだ世の中に
 携帯電話がなかった頃のクリスマス
 人目に触れぬ隠れ家をみつけて
 僕ら 待ち合わせた

 

そんな出だしを聴くと、あの美しき若ヒデキを知っているファンとしては複雑な思いになるが(マアイワユルシットデスカネ)、

 

 離れ離れに生きて・・
 心の奥 生き続けて
 遠き恋人の君
 美しく蘇らせて
 Merry X'mas

 

と優しく穏やかな声で歌われると、綺麗で上質な物語を聞かせてもらえたように、うっとり夢見心地になる。

 

そして、人気絶頂のアイドルだった頃、どんな思いで恋人と別れたのだろうか、大病をして壮絶なリハビリをして復帰した彼が、どんな思いで遠い日の恋人を語り、歌ったのだろうかと、何度聴いても泣きそうな気分になる。

 

ドラマティックなこの歌を、病に倒れる前の、あの猛烈に歌が上手かった頃のHIDEKIの声で聴けたらどうだったろう。そう思ったこともあった。

 

でも、思い直した。言葉に尽くせぬほどの大変な経験をした、50代の、本物の大人のHIDEKIが歌うからこそ、きっとこんなに優しく、ストレートに心に響いてくるんだよね。

 

そして彼は、本当に私たちの「遠き恋人の君」になってしまった。辛いけど、このタイトルがもうすでにドラマティック、なのだった。ああ!

 


最近、昔の夢をよく見る。年賀状に、古くからの友人たちへ一言コメントを書いていたので、さまざまな思い出がよみがえったせいだと思う。

 

10代、20代、30代、40代・・・
ドラマティックではないが、私にもそれなりの出会いと別れの歴史があるらしい。小さいけれど美しい花火も、何度か上がった気がする。

 

残念ながら、古い恋はまだ夢に出てこないが、私の場合はその方がいいかな。お馬鹿さんだったからね、痛い痛い。笑

 

恋人たちにはクリスマスがよく似合う。失恋中でも絵になるし、ひとりもまた楽しいよね。もちろん、家族や友だちと過ごすクリスマスも素敵。

 

これまでのご縁に感謝して、出会ってきた人たちの幸せを改めて祈る季節。心から平和を願う季節。

 

遠き恋人のHIDEKIに、そして全ての人たちに・・・Merry X'mas

 

 

※ちなみに『遠き恋人の君』の作曲は、ミュージシャンの宅見将典さん(西城さんの甥だそうです)で、西城さんのコーラスを20年以上勤めてきたMILKのRieさんとのデュエットとして完成されています。