一筋の光、降り注ぐ光。

人生はなかなかに試練が多くて。7回転んでも8回起き上がるために、私に力をくれたモノたちを記録します。

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プラタナス星の王女を見送った日

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春まだ浅い、3月。
大安の日を選んで、彼は長女を迎えに来た。

 

遠距離恋愛だった。
当初、長女は大学生、彼は大学院生で、仕事を始めたらどうなるのかなと心配していたが、杞憂だったようだ。

 

「多分、結婚することになると思う」

 

と娘に言われたときは、ああ良かった、と思った。一方で、関西に行ってしまうことになるの?と、実はうろたえた私。今度は、私たちと遠距離になるの?

 

それからが、早かった。
薔薇の花束のプロポーズに始まり、彼が家に挨拶に来てくれて、先方の御両親と顔合わせの食事会をして、引越しの荷造りやら送別会やら、あれこれ忙しくしているうちに、ついにその日が来てしまった。

 

✻薔薇の花のプロポーズについては、ここでも書いています↓

tsukikana.hatenablog.com

 


もちろん、心から娘の幸せを願っていた。
4人で暮らせる残された時間の、日常の、どんなにささやかなことでも覚えていたいと、一日、一日を大切に過ごした。

 

でも私、なかなか思うように覚悟ができなかったのだ。自分は大丈夫だと思っていたのに。

 

家族が寝静まってから、毎晩のように泣いた。お風呂でも、声を殺して泣いた。

 

本当は、手放したくない・・・その気持ちを一生懸命、飲み込む毎日だったけど、誰にも見つからないところでひとり泣くことだけは、自分に許したのだった。

 


娘が生まれた日のこと。
この子は天からの授かりものであると同時に、預かりものなのだと、自分に言い聞かせた。

 

宝ものには違いないけど、私や夫の所有物ではない。娘の人生は娘のもの。
縁あって、わたしたちのところに生まれてきてくれたこの小さな命を、大事に育てさせていただこう、と。

 


娘が二つか三つの頃、私と彼女はふたりでよく「プラタナス星の王女さま」ごっこをして遊んでいた。(星の王子さまとかぐや姫を混ぜたようなお話です・笑)

 

あなたはプラタナス星から地球に遊びに来た王女さまなのよ、と私は言った。でも、地球が気に入ったら、いつまでもいてくれていいのよ、なんて。
かぐや姫みたいに帰られたら困るなあと、ふと思ってしまい、小さな体を抱きしめたっけ。

 


下の子がお腹にできて、私がツワリに苦しんでいる頃、娘に電話に出てもらうことが時々あった。

 

「ママは今、気分が悪くて出られませんが、どちらさまですか?」と言うつもりが、
「ママは今、機嫌が悪くて出られません」と言ってしまった娘。慌てて私、ベッドから飛び起きて・・・。


そんな出来事も懐かしい思い出だ。

 

同じ頃のある日のこと、娘が長々と電話をしていた。「誰からかな?」と電話を代わると、品のいいご婦人からだった。知らない方。

 

「ごめんなさいね、お具合悪いのに。実は私ね、間違い電話をしてしまいまして。そしたらあんまり可愛い応対をしてくれるから、つい、嬉しくなってしまって、おしゃべりをしておりましたの。ああ、楽しかったわ。〇〇ちゃん、優しくて素敵なお嬢ちゃまですね」

 

間違い電話をしてきた人さえ、楽しい気持ちにさせてしまったのかと、私は娘に笑いかけた。こちらを真っ直ぐ見上げてくる、澄んだ明るい瞳。

 


わかっていたのだ。この天使といつまでも一緒にいられるわけではないこと。たくさんの幸せな思い出を残してくれたと、ただ感謝して、いつの日か送り出さなくてはいけないことを。生まれたときから、私はちゃんとわかっていたのに・・・。

 


娘のフィアンセは、誠実で笑顔が素敵な好青年だった。娘のことを、本当に大切にしてくれているのがよくわかり、親としてはそれが一番嬉しかった。

 

彼となら、娘はきっと、幸せな楽しい家庭を築けるだろう。彼で良かった。だから、もっと喜ぶべきだよ、と、私は自分に言い続けた。

 


その日、3月7日。
彼らと私、夫と次女の5人で、半日行動を共にした。娘の荷物はもう、関西の彼の部屋に送ってある。皆で昼食をとり、熱田神宮にお参りした。

 

そしてその後、新幹線・名古屋駅のホームに向かった。
彼らは行ってしまうのだ。新しい家族としてふたりでスタートするために。

 

泣き虫の長女が・・・あの子が、プラットホームで見せた顔は、一生忘れないだろう。幼かったあの頃と少しも変わっていない、黒目がちのキラキラの瞳。愛おしく心に刻まれた。

 

家族の最後のひとときのために、少しの間、席を外してくれた彼も本当にいいヤツ、優しい人だ。そっと娘を抱き寄せた夫は、もしかしたら私以上に切なかったかもしれない。お姉ちゃんが大好き過ぎる次女も、この瞬間をどんな思いで受け止めただろう。

 

でも。
私はあのとき、自分を律することで手一杯、余裕がなかった。

 

本当は手放したくない・・・
まだ胸に残るその思いをなだめ、抑え、娘の幸せな旅立ちを笑顔で飾ろうと努めた。終わりではない、始まりなんだよ、と。

 

彼らが乗車する。発車のベルが鳴る・・・

 

小さくなっていく新幹線を見送った私たちは、静かに帰路についた。
口数が少なかった。・・・雨が降り出した。

 


長女たちはこの日のうちに、彼の住む町で入籍。結婚式は、彼の仕事の都合で7月になったが、夫婦としての実際のスタートはこの日となる。夫と次女と私の三人にとっても、この日が新しい生活の始まりだった。

 

2015年3月7日。
私の記憶に刻まれた、とても大切な日。

 


そんな風にスタートを切った長女夫婦には、今は3人の娘がいる。4歳児と、9月で2歳になる双子だ。双子出産のときは、長い里帰りもあった。

 

✻双子プロジェクトの記録はこちら↓

tsukikana.hatenablog.com

 

 

長女が結婚した年の暮れ、私たちも転居をした。そして一昨年には次女も、私たちの元を巣立った。

 

✻次女が巣立ったときの記事です↓

tsukikana.hatenablog.com

 


時は流れ、人も生活も、世の中も変わっていく。
でも、記憶に刻まれた大切な思い出はずっとそこにあり、決して色褪せないよね。

 

生まれたばかりの長女も、3歳のおしゃまな長女も、恋をした美しい長女も、母となった頼もしい長女も、みんな私の中で変わらずキラキラ輝く宝ものだ。

 

そう。王女はプラタナス星にも、帰っていない。ほんの4時間ほどで、会いに行けるよ!

 

✻今回は、はてなインターネット文学賞「記憶に残っている、あの日」への投稿文として書いてみました。いくつになってもおセンチな母親です。笑
写真は、長女が2歳のときに作ったドレスです。私の従妹の結婚式で着せました。

ほんの4時間ほどで会いに行けるのに、なかなかそれがかなわない、もどかしく悩ましいご時世ですね。早く穏やかな日常が戻ってきますように。
暑い日が続きますが、皆様、どうぞご自愛を。

 

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父とスマートフォン―88歳のトライ&エラー

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もしかすると7、8年くらい前から、実はスマートフォンに興味があったのかもしれない。父の話、である。

 

あの頃は、両親の住む清水に、年に1度か2度訪れるくらいだったが、行く度に父は、私のスマホをちょっと手に取った。

 

「買い替える?」

 

と訊ねれば、苦笑して首を横に振っていたが。

 

母の、何度かの手術と入院で、あの家にしばらく滞在することもあった。父と一緒にバスに乗って、毎日病院へお見舞いに行っていた、あれは何年前だろう。

 

バス停の後ろの新聞販売店の軒先に、ツバメが巣を作って出入りしていた。6月くらい、だったのかな。

 

バスを待ちながら話をしていて、何か、言葉の意味をふたりで思い出そうとしていた。私がおもむろにスマホのマイクに向かって言葉をしゃべり、その意味を即、導き出したとき、父は心底、感心したような顔をして見つめた。私でなく、スマホを。

 

スマホの画面を、2本の指で拡大したときも、ほっほう!と驚き、やっぱりガラケーとは違うな、と言って、ちょっと試させてくれと手を出してきた。

 

2年前に、そのガラケーを水没させて買い替えに行ったとき、「スマホを勧められちゃったよ」と苦笑したので、このときも「いっそ、そうしたら?」と言ったのだが、父は結局、これまでと同じような老人向けの携帯電話を選んだ。

 

あの声。迷ってる風に、ちょっと聞こえたんだけどな。

 


そして、去年。

 

母が急性期病院からいったん退院し、数日間の自宅療養を経て、療養型病院に転院した4月のこと。

 

✻当時のお話はこちらです↓

tsukikana.hatenablog.com

 


COVID-19の感染拡大対策のため、病院では一切の面会が禁止されていた。それでもあの時は、そのうち下火になれば、面会もすぐ許されるようになるだろうと思っていた。また、それまで母は待っていてくれるだろうと、希望を込めて思っていた。

 

5月になると、タブレット端末を使って、病室の母と病院ロビーまで来た父が、お互いの顔を見ることが可能になった。しかし、タブレット面会は予約が必要だし、ほんの10分程度しか許されない。

 

このときも、スマホがあればビデオ通話ができるから、母と自分に2台買おうか、と父は迷ったようだった。しかし、あの病状の母にはスマホなんてとても無理だと、私は思った。父だって、そんなすぐには扱えるようにならないだろう、とも。

 

結局、母はスマホを覚えさせられることもなく、あっけなく、本当にあっけなく、天国に旅立ってしまった。

 

医師の計らいで、父は亡くなる9日前と前日、短時間の面会を許されたが、私は会えずじまい。6月になったらすぐ、弟と私とで病院に面会に行こうと、ちゃんと手筈を整えたのだけどね。母は待っていてくれず、5月28日に逝ってしまった。

 

もしも、もっと早く両親がスマホを持つようになっていたら?

 

そんなことを考えないでもなかったが、あの母は、元気な頃から携帯電話にすら全く興味のない人だったから、スマホなどまず持とうとは思わなかっただろう。

 

母亡き後、役所や金融機関などのさまざまな手続きを手伝うため、また、母の新盆の来客対応などのため、私は頻繁に清水に通った。数日間の滞在後、父を残して帰るとき、寂しげな父に見送られるのが、いつも本当に辛かった。

 

毎日のように、父は電話をしてくる。重要度の高いものもあるが、多くが食事づくりの相談や、掃除や洗濯についての質問だ。とにかく、人と話がしたいのだ。

 

頑張ってこんなものを作ったぞ、みたいな話題だと、私も安心するし嬉しいのだが、眠れない、寂しい、不便だ、辛い、みたいな愚痴や不満を訴えることが続くと、こちらのメンタルもおかしくなってくる。

 

父はよく頑張っているし、ひとりで寂しいのもわかるので、私はうんうんと受け止めて聞いているのだけど、電話魔よろしく1日に5度くらいかかってくる日もあり、どうしたものかと頭を抱えたことも。

 


そんな父が、今月に入ってスマホデビューした。

 


「近くに住む親戚も友達も、みんなスマホに疎く、周囲に誰も教えてくれる人がいない。子どもも孫も遠くに住んでいる自分は恵まれない境遇。スマホは無理だ。悔しいけど、ひとりでマスターできるとは思えない。自信がない」

 

もう数か月前から何度も、そんなふうに聞かされてきて、励ましつつも同じボヤキにちょっと辟易していた私は、この急展開に驚いた。

 

私が最後に清水に行ったのは3月の終わり頃だ。第4波が来て移動を控え、もう4か月になろうとしている。父の寂しさも限界か?

 

ビデオ通話。
なかなか家族と会えない今、もうこれが唯一の希望の光と思い、頼りだと思ったようだ。

 

子どもたちと、孫たちと、顔を見ながらしゃべりたい。ひ孫たちの顔も見せてほしい。自分の暮らす家の様子も見てもらいたい、相談に乗ってほしい。

 

そんな気持ちが高まって、スマホに替えることを決意したのだろう。

 

父はひとりで携帯ショップに行き、シニア向けレッスンの申し込みをしてきた。最初はグループレッスンだけだったが、周囲の人は既にスマホを持っていて、それを使って学習しているので、ついていけない。それではと、有料の個人レッスンを申し込んだ。

 

お金を払って教えてもらっているのだ、もう後には引けない。だから、マスターするまで待つことなく、思い切ってスマホを購入。それが、7月9日のことだった。

 

面白いことに、それまで連日のようにかかってきた、(時に文句をつけるかのような)愚痴混じりの長電話が、パタッと止まった。かけてくるのもテスト送信的なもの。とても短い。

 

そうか。夢中になって覚えようとしているんだね。夢中になれるものが、見つかったんだね、と私は嬉しくなった。しかし・・・

 

非常に、非常に、悪戦苦闘しているようだ。いろいろ触って、おかしな設定にしてしまって、自分で直せないから慌てて携帯ショップに自転車で走ったり。確認で、何度も私に電話したり。

 

「メール着いた?着かないか。もうすぐ着くかも。着いたら電話してくれ」

 

って、メールはそんなに時間かかって届くものじゃないから、操作を間違えてるか、アドレスが間違ってるか、だと思うよ。。。(アドレスが間違っていたようです)

 

携帯ショップまで、自転車で15分くらいかかるんじゃないかな。熱中症が心配だから、涼しい時間になってから行ってね、と言ったのに、昼日中にショップから確認の電話をしてくる。店員さんをつかまえて、設定を直してもらっているのだ。店員さん、スミマセン!

 

しかし、お父さん、すごい根性だな。そもそも、昭和一桁生まれの人たちって、ガッツがあるよね。コンチクショウ!って、よく言うし。母もよくナニクソッって言ってた。二人とも、スポーツマンだったから?

 

そんな、父のど根性を見せられると、ちょっと安堵する。だって、毎日のように聞かされてきたセリフは、これだもの。

 

「体は動かなくなっていくし、理解力もなくなっていく」
「ほんと、虚しい。毎日何のために生きているのかと思う」
「もう、お父さんはギリギリだよ」

 

それは、今も変わらない本音だと思うし、スマホが扱えるようになっても老化が止まるわけではないだろう。父の習得のスピードが、老化のスピードより少しでも速いことを願うばかりだ。そして、父の根性に火をつけてくれたスマホに、感謝しかない。

 


実は6月に、父の住む町の地域包括支援センターとつながり、担当の人が父の元を訪れてくれ、私とも電話で話してくれた。とても感じの良い方で優しくて、私は心強い味方を得たような気持ちになった。

 

その方が、しっかりした家事代行サービスの業者を紹介してくれて、父の元へ定期的に家政婦さんがお掃除に来てくれることになった。

 

これは本当に嬉しい。父が清潔に暮らせることももちろんだが、定期的に誰かの見守りが入ること、社交好きの父に話し相手ができることが、何より助かる。

 

同時に進められた要介護認定・要支援認定の申請、その後の訪問調査。私も弟も立ち会えなかったので、母の時のケアマネージャーさんに立ち会ってもらった。彼女が父のケアマネも担当してくれることになり、私にはそれも心強い。(父の性格ももう御存知だし)

 

まあ、前述のように父は自転車にも乗るし、通院も買い物もひとりでちゃんと行っている。私には大袈裟なくらいぼやくくせに、人前だとカッコつける。特に女性には。(調査員さんは女性だった)

 

だから、調査の結果はまだだけど、「要支援も1がつくかどうか、微妙ですねえ」とケアマネさんに言われてしまった。

 

しかし、彼女には申し訳ないが、私はそれで上等だと思った。気を張る父が目に見えるようで。そんな姿が好ましく感じられて。

 

サービスが自費でも、割引にならなくても、父を助けようという目や手が入ってくれるのなら、それで恩の字だ。今は大丈夫でも、これからできないことが増えていくのはわかっている。もうすぐ89歳なんだもの。時が来たら、再調査をお願いすればいい。

 

家族がいなかったり、いても皆遠方、というひとり暮らしの高齢者。この時代、世の中にたくさんいることだろう。

 

やっかいな疫病が流行り、いつ緊急事態宣言になるかハラハラしているような今は特に、遠くの親戚より近くの他人。老親の暮らす地域の、行政や介護のプロに気に留めてもらえてるということが、非常に重要になってくるはずだ。

 


父は、自分を不遇と思っているかもしれないが、温暖な生まれ故郷に家があり、親戚も友人も親切な隣人もいて、幸せな人だと思う。

 

あちこち不調はあるものの、まだ頑張れる体力と気力も、本当はある。失敗もトライのうちだとばかり、スマホの習得にひとり正面から向き合っている。

 

もちろん、最愛の妻を亡くし、生まれて初めてのひとり暮らしを経験しているのだから、辛いにきまっているのだけど。

 

父は思いきり愚痴を言った後、ときどきは私に謝ってくれる。そして、聞いてくれてありがとうな、と言ってくれる。そんなときは、私の心に何か、切なさ混じりの温かなギフトが届いたような気持ちになる。

 

やれやれと思うことも多い。でも、私はこの忍耐をいつかきっと、懐かしく思い出すんだろうね。残された人生があとどれくらいあるのか、神のみぞ知るだけど、余生をできるだけ明るく、楽しい気持ちで過ごしてほしい。できるだけ、幸せな気持ちでいてほしい。

 

父の元に来た、新しいスマートフォンさん。トライ&エラーで苦労をかけるけど、どうか父の、良き相棒になってやってね。

 

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色合わせが素敵な「ABT」の6色セットで、短冊とポストカードを

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絵を描くことは、ずっと好きだった。でも、ここ数年は、刺しゅうのデザインのためにちょっと描くくらいで、絵を描くことを楽しむ、というのを、もうずっとやっていない。

 

忙しかったり、他にもやることがたくさんあって、優先順位がそこまで高くなかった、のかもしれない。それでも、「絵を描きたいな」と、時々呪文のように口にしていた。

 

描くなら、何を?どんなスケール感で?画材は?
うすぼんやりと考え、気持ちが乗ってくるのをなんとなく待っていた。
(今時はイラストやお絵描きといったらデジタルなのかもしれないけど、私は手描き)

 

そんな折、ほぼ日さんのあるページを目にして、ドキン!とした。

www.1101.com


これ、楽しそう♪
こういうペンを使って、思いつくままに、子どもがお絵描きするように遊んでみたい!

 

トンボのグラフィックマーカー「ABT」。
金曜日に注文し、土曜日に届き、日曜日にはお絵描きをしていた私。前日までの嫌なことを忘れた。笑

 

ホント、楽しい。面白い。描きやすいし、何より色が素敵なのだ。

 

全108色ある中で、サイトで紹介されていた6色セットの「ノルディック」と「ファンシー」を入手したのだが、その色合わせが素晴らしい。

 

ぴったりの配色でセットされているので、どれとどれを合わせても、とにかくきれいにまとまる。例えば「ノルディック」で草花を描けば、北欧風にきまるのだ。

 

ABTは筆と細芯を持つデュアルブラッシュペン。(ABTとは『Art Brush Twin』の頭文字で、1本の軸に筆芯と細芯の2本のペン先を持つアートペンというプロダクトの特徴を表現している、とのことだそう)

 

ドロップテクニックなどを使って、さまざまな表現ができる。水を含ませた筆を使えば、グラデーションも簡単。細ペンで輪郭線を重ねれば、ピシッとする。レタリングもカッコよく決まりそう。

 

Webサイトでは、基本の使い方からプロのテクニックまで紹介されており、表現の可能性にテンションが上がる。

www.tombow.com

 

FUN ART STUDIOというサイトでは、もっと楽しめるコンテンツも。

tombow-funart.com

 

私は、ここで紹介されていた「スプラッシュアレンジで作る七夕の短冊」というのにトライしてみた。「ファンシー」の中から数色を選び、クリアファイルに色を載せ水をスプレー。それを厚紙に置いて指でこするだけ。簡単にマーブル模様を作ることができた。

 

・・・短冊、かあ。
笹はないけど、久し振りに願い事でも書いてみようかな♪

 

「ノルディック」の6色も、お洒落で綺麗な配色で、確かに北欧柄みたいに描ける。コピー用紙で練習してみたが、何を描いても気分が上がりニコニコ。

 

よーし、とばかりに小花を散らしたポストカードを作ってみたら、あっという間にそれっぽく仕上がった。暑中見舞いに使えそう? お年玉を入れるポチ袋、なんかも手作りしたら可愛いだろうな。

 

数回の練習で、技術がなくてもそれなりにサマになるのだけど、ここは是非、技術も身につけたいものだ。

 

私は毎日、手帳に日記をつけているので、これからはABTを使った絵をちょこっと加えてみようと思う。絵の具出して筆と水入れ出して・・・と場所を広げずにすむから、気軽に日常に取り入れられそうだ。

 


ぼんやりやりたかったことが、何かの刺激で、俄然「今、始めよう!」となることがある。きっかけって大事だね。

 

私の場合、道具を揃えるなどで最初にまとまったお金がかかるのだと、非常に難しいのだが。ABTは気軽に取り掛かれるところが良かった。テーマ別配色セットって、ホント、よくできてる。

 

ほぼ日さんには申し訳ないが、Amazonで買ってしまった。テーマ別配色は、他に「ボタニカル」と「ナチュラル」があり、これも魅力的。


トンボ鉛筆 筆ペン デュアルブラッシュペン ABT 6色セット ボタニカル AB-T6CBT

 


今、淡いグレーも買い足したいな、と思い始めていて。モノトーンだけで14色のラインナップだそうだけど!そうなるとやはり、大きな画材屋さんを訪れたくなる。

 

画材屋さん、ずいぶん行っていないなあ。昔はよく行っていたのに。私は紙を見るのも好き。いろいろ眺めると楽しいんだよね。

 

何か必要なものがあれば、ネットで買えばいいや。そんな時代になってしまっているけれど、現物の色とか、触った感じとか、本物を確かめたくなる買い物が実際には結構ある。

 

引きこもることがさほど苦にならない私だが、そろそろ街に出掛けたい。

 


✻明日は七夕ですね。スーパーなどでよく笹と短冊の七夕飾りを見掛けます。「コロナがおさまって早くみんなとあそべますように」とか「みんなが元気でいられますように」とか、可愛い文字を読んでいると胸が熱くなります。もうずっと、みんな、我慢しているんだね、と。雨による災害にも心が痛みます。もうこれ以上被害が増えないことを祈るばかりです。本当に、みんなが元気でいられますように、笑顔でいられますように・・・

 

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初々しい歌唱に涙―西城秀樹さんのデビュー時からのアルバム復刻

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デスクに置いたハンディ扇風機を付けると「恋の暴走」のイントロが脳内再生される。ドライヤーをスイッチオンすると「若き獅子たち」だ。いつからか、動作音がそう聞こえてしまうようになっている。

 

この3年間、どれだけ西城秀樹さんの歌を聴いてきたことだろう。すっかり耳がHIDEKI受信機になってる?我ながら可笑しいけど、悪くない気分である。

 

訃報の後、ファンに戻ったことを自覚して、その後、動揺と混乱の時期を乗り越え、今は気持ちが落ち着いている。時々は、不意打ちのように歌が沁みてきて、視界がにじむこともあるけれど・・・

 

人の言動に惑わされず自分のペースで「推し」を推すことも、できるようになってきた。つまり、お金や時間のかけ方だとか、SNS時代のファン同士の繋がり加減だとか、そういうことで無理しない、悩まないでいられるようになってきた、ということ。

 

どの世界にも難しいことはあるね。作法もある。同じ人が好きだからみんな仲良し、って訳にはいかないことくらいはわかっていたが、トラブルを見ると嫌な気持ちになったし、ヒエラルキーの匂いには近づきたくなかった。

 

私、「推し」ってこれまで長いことなかったから、どうしていいかわからなかったのだ。しかも推したい彼は、空の上の住人になってしまっているし。混乱するよ。

 

でも、いろいろ思って考えて、今はもう大丈夫。勉強させてもらった。笑

 


さて。西城秀樹さんについてはこれまで何度かここに書いてきて、もう自分の気持ちは安定して整理もできてきたから、これ以上は書くこともないかな、と思っていたのだが、またひとつ記録しておきたいことができ、こうして書いている。

 

1972年3月25日にシングル「恋する季節」でデビューした西城さん。当時まだ16歳。今年はデビュー50周年の記念すべき年となる。さまざまな企画があるようで、HIDEKI喜んでるかな?と思うと、私も嬉しくなる。

 

先々月のこととなるが、彼のお誕生日、4月13日には、2時間を超えるライヴ映像配信、HIDEKI SAIJO CONCERT 2005「Second Birthday」を視聴した。一度も彼のコンサートに行けなかった私には、これがお初となる。感慨もひとしお。PCの前に張り付いて、50歳の彼をしっかり見せていただいた。

 

そしてその後、西城さんのデビュー時からのオリジナルアルバム、ライブアルバム、カバーアルバムが復刻発売されることになったと聞いたときは、小躍りした。

 

www.110107.com

 

オリジナルマスターテープを最新デジタルマスタリング。総数50枚以上を2年間にわたり発売していくという。

 

第1弾の発売は6月18日。1972年から1975年までの名盤、5タイトルだ。私がファンだった頃と重なるので、どうしても手元に置きたいと願った。思春期の自分が「買って!」と叫んだよ。笑

 

世は、サブスク高音質配信の時代になってきているというのに、半世紀前のLPレコードの復刻CDを、まとめて5枚、私は一瞬の迷いもなく予約したのだ。

 

 ・・・なるべくモノは持ちたくない、
 なんて、どの口が言う?
 でも、これは特別だから!
 多分、この後は2,3枚買うだけだから・・・
 多分・・・

 

とにかく、予約しておいて良かった。ソニー・ミュージックでは発売日の翌日に、5枚セット(限定特典付き)はSOLD OUTになったらしい。(1枚づつなら買えるようだ)

 

◆ファーストアルバム「ワイルドな17才」(1972年11月)
◆「青春に賭けよう」(1973年3月)
◆「エキサイティング秀樹」(1973年10月)
◆「傷だらけのローラ」(1974年9月)
◆「恋の暴走/この愛のときめき~エキサイティング秀樹Vol.5」(1975年6月)

 

オリジナルをミニチュアにしたような、紙製のジャケットが泣かせる。その脇のポケットから半透明の袋に入ったCDが出てくるのだ。

 

そうそう、レコードってこんな風に取り出したんだよねと、すっかりプラのCDケースに慣れてしまっていた私は、懐かしさにやられた。

 

3年前の訃報後に、HIDEKIのCDやDVDはBOXも含めいろいろ購入してきたけど、当時のオリジナルアルバムの復刻というのは、また別物なのだった。あの頃、擦り切れるほど聴いたLPには、思い入れのある曲がいくつもある。

 

お小遣いを貯めて、あるいはお年玉を握りしめて、レコード屋さんに向かった中学生の私には、欲しくてもHIDEKIのアルバム全部は買えなかった。こんな風に、5枚まとめて大人買いするウン十年後の自分がいることを、あの子は知らない。待っててね、そのうちあの「西城秀樹ロックの世界」も発売されたら買うから!(このLPは一番のお気に入りだったのに、友達に貸したら返ってこなかったの。中学卒業後、音信不通で)

 


そして、である。
HIDEKIのデビュー当時の声と歌唱に、まあ、なんで私が照れるのか。笑
あの大スターにも、こんな時期があった。本当に初々しくて、とにかく一生懸命で、ひたすら可愛いのだ。

 

研ぎ澄まされた歌唱の技を自由自在に使い分け、聴く人を魅了してきた西城秀樹さん。その素晴らしい歌唱力の、ここが原型なのかと、ダイヤモンドの原石を見る思いだ。

 

「美・ブラート」と誰かが言っていた、あの綺麗なビブラート唱法はまだ完成されていないが、そこここに片鱗をうかがうことができる。(特に5枚目。「さよならの宿命」「夕やけ雲」「悲しき誕生日」など。20歳になるかならないかの時期だけど、声の抜き方、ファルセットの入れ方にも、馴染みあるヒデキ節が見え隠れ)

 

デビュー前、厳しい歌のレッスンも必死に頑張ったと聞いた。「ア・イ・ウ・エ・オ」がはっきり通る、大きく口を開けた発声が、いかにも正統で好ましい。そこにロックの素養が入るから、ちょっとこなれて洒落た感じになる。巻き舌になるラ行が楽しい。

 

HIDEKIは初期の頃、絶叫型とよく言われていたけど、囁くような歌い方も印象的。一語一語、繊細に優しく、気持ちを込めて感情に訴えてくる。そして一転、叩きつけるように嘆き悲しむ。水泳をしていて肺活量がすごかったそうなので、迫力が違う。

 

強弱をつけてドラマティックに歌い上げるのが、HIDEKIのスタイルだった。今なら「エモイ」というのかな、エモーショナルとはまさに、当時の彼の歌唱法のためにあるような言葉だと思う。

 

ただ、アルバムにはとてもライトでポップな楽曲も多く入っていて、少年らしい明るさのある、軽快でコミカルな歌声も、充分楽しませてくれる。

 

HIDEKIはそもそも、声がいい。

 

単純に「ハスキー」と言ってしまうには、魅力的すぎる声。温かみがあり、カラーで言えば寒色でなく暖色。ザラッとした手触りを感じる、癒しのある親しめる声。シャウトにも、濁しただみ声的な表現にも、しゃくりにも親和性があり、無理がなく自然。HIDEKIが歌うと、歌が複雑味を帯びカラフルになる。

 

ここからどんどん磨きがかかって、日本が誇る素晴らしいトップ・ヴォーカリストになっていくんだね。その成長過程を、アルバムを通して感じ取っていくのも、楽しみ方のひとつだろう。

 

歌声や歌唱法について全く不案内な私なので、専門的な用語も知らずもどかしいけど、この3年間ずっと彼の歌を聴きながら、なぜこんなに惹きつけられるんだろう、この声のどういうところに魔力があるんだろうと、何度も言葉を探してきた。それで、この機会に文字にしてみたのだが、素人の考察・感想なのでそこは悪しからず。

 

今回購入したのは、一番好きだった頃のアルバム。だから、当時の西城さんのルックスやTVで見たアクションも、思い浮かべながら聴くことは容易だった。でもそれは頭の中のこと。音源だけだと、映像を伴うものと違って彼の見た目に惑わされず(笑)、耳に全集中でき、しっかり歌が聴けるという良さもある。

 

ただ意外だったのは、懐かしく楽しい気持ちになるんだろうなと思いきや、徐々に切なく苦しくなってしまったことだ。

 

「こんなに可愛かったんだ」と、いかにも少年な声に愛おしさが募って、悲しくなってきた。ひたむきさが伝わってくるほどに、ずっと応援し続けられなかったことが後ろめたく思えて。

 

数年で離れてしまった申し訳なさ。あの頃だって、なんで親を説得してでもコンサートに行かなかったんだろうとか、彼が天国に旅立ってからノコノコと戻ってくるなんてどうなのとか、自分を責め始める。

 

でも。
そんなさまざまな、数々の、どうしようもない気持ちは、やがて「ありがとう」という一言に収束していった。

 

後に偉大なシンガーとなるひとりの男性の、歌手としての始まりを見せてもらえた感謝。歌で幸せな気持ちにさせてもらえたことへの感謝。10代からの各年代の彼の歌唱を、今もこれからも好きなときに聴くことができる、そんな贅沢過ぎるほどの宝物を、残してくれたことへの感謝。

 

私はこれからもきっと、ずっと西城秀樹さんの歌を聴いていくんだろうな。

 


✻西城秀樹さんについてこれまでに書いたものはこちらです↓

tsukikana.hatenablog.com

 


✻西城秀樹さんのオフィシャルサイト↓

www.earth-corp.co.jp

✻とってもカッコいいサイトを見つけました↓

https://www.hidekisaijo.com/

 

 

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野鳥に会える森へ行きたい

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梅雨の晴れ間もあるけれど、今日は曇天。これから雨になるらしい。空の暗さに気分も重く沈みがちになる。

 

日常の心配事は、ひとつ減ったらふたつ増える。そんな感じで、ちっとも心が晴れ渡らない。

 

でも外を見れば、こんな日にも小鳥は飛び、さえずっていて・・・
なんだかすごい。彼らはすごい。一生懸命、当たり前のこととして生きている。

 

小さく感心して、やがてリスペクト。
不思議なんだけど、ただそれだけのことで、少し心に日が差す。

 

先日、県内にある森林公園に出掛けた。野鳥が見たいし、森の空気が吸いたかったから。本当は標高の高い山とか丘陵地帯の自然公園などに行けたらいいのだが、まだ緊急事態宣言中。県をまたいでの外出は控えるべきかなと、クルマで20分くらいの公園へ。

 

夫がレンタカーをパパッと手配してくれた。行き先があまりに近いので、6時間のレンタルで充分。近所にレンタカー屋さんがあって、本当に助かっている。

 


我が家がマイカーを手放してから四半世紀くらいになるのかな。当時、CO2削減が叫ばれていて、クルマを所有することにちょっと罪悪感を感じ始めていた。ちょうどその頃、運転中に故障して怖い目にあったことも重なり、買い直すにしてもランニングコストやメンテナンスも大変に思えてきて、「一度手放してみよう」ということにしたのだった。

 

「持たない暮らし」は不安もあったが、バス停近いし、もうすぐ地下鉄の駅もすぐそばにできるし、なんとかなるかな、と。代わりにマウンテンバイクを買って。

 

いつまで続けられるかと思ったけど・・・続いてるじゃん!
(もちろんママ友始め友人知人のお世話にも。皆様のおかげと感謝しています!)

 

5年半前に今の場所に引越して、駅は遠くなってしまった。でもバス停はまあまあ近い。必要な時はタクシーやレンタカーを活用しているので、自家用車がないことで不便を感じたのは、数回程度かな。

 

が。クルマなんていらないよ、と大見得は切らないでおこう。
環境が変われば必要になるかもしれないし、単純に自分のクルマが欲しいって思う日がくるかもしれないものね。ドライブ、好きだし♪ まあでも、お金がかかるからなあ・・・

 


話を戻して。
ショートドライブで森林公園へ。昔、何度か訪れたことのある懐かしい公園だ。

 

かなり広いけど、場所を絞って無理なく歩こうと思った。前日までのカンカン照りから少し暑さも弱まり、薄曇りの空は外歩きに好ましい。

 

とは言え、紫外線対策と熱中症対策は大事。同時に虫よけ対策が必要な季節だ。クルマから降りる際、防虫スプレーを忘れずに。

 

ハッカ油を使って作るのもいいが、今年は市販品を購入した私。天然成分だけで作られたものを選んだ。ハーブの香りが心地よくて、爽やか。買って良かったと思う。

 

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まずは軽く昼食。駅前のパン屋さんで買ったサンドイッチはなかなか素敵で。遊具のある児童公園は2組くらいの親子がいただけで、のどかそのもの。ベンチで風に吹かれて、気持ちの良いランチタイムだった。でも、あまり鳥の鳴き声は聞こえてこない。

 

早く鳥に会いたくて、すぐに歩き始めた。
広い芝生が美しい。木陰でヨガをしている人がいたが、他に人影はふたつみっつ。平日だからだろうけど、こんな良い公園なのにこんなに人がいないなんて、と驚いた。

 

澄んだ池のほとりのベンチで休憩。護岸工事もされていない。雲間から少し日が差して、水面がきらめいている。

 

広々とした景色、木立の緑が本当にきれい。こんなに清々とした気分になるのは、いつ以来だろう。

 

急に、森の方から小鳥が2羽、水際に飛んできた。おなかのあたりが黄色い。でも、普段見かけるキセキレイとは違う。もっとずっと小さい。マヒワ?キビタキ? 何という小鳥だったのかな、とっても可愛らしかった。

 

公園内にある植物園に入ると、森はいっそう深くなる。鳥の声は聞こえるが、この季節になると葉が生い茂り、なかなか姿を見つけられない。

 

上を見上げ、枝から枝へ渡る小鳥の影を何度も見たけれど、とにかくすばしっこい!

 

でもいいのだ。双眼鏡もないし、今回は野鳥観察というよりも、野鳥の暮らす森に身を置きたい、という気持ちで来たので、彼らの声が聞けるだけで、いるんだなーと思えるだけで、とても嬉しい。

 

ホーホケキョと、お馴染みのウグイスの声が響き渡る。それから、シジュウカラの声も。

 


鳥の聞きなし。
今、ちょっと興味を持っている言葉だ。

 

 鳥の鳴き声の聞こえ方を、人が使う言葉に置き換えること。
 覚えやすくなる。
 ウグイスの「法法華経(ほうほっけきょう)」や
 ホオジロの「一筆啓上仕り候(いっぴつけいじょう
 つかまつりそうろう)」など。
 (『ぱっと見わけ観察を楽しむ野鳥図鑑』ナツメ社
 から抜粋)

 


ぱっと見わけ観察を楽しむ 野鳥図鑑

 


ホトトギスの「特許許可局(とっきょきょかきょく)」、センダイムシクイの「焼酎いっぱいぐいー(しょうちゅういっぱいぐいー)」も割と有名みたい。

 

馴染みのあるツバメは、ちょっと複雑な可愛い鳴き方が魅力だけど、「土食って虫食って渋い(つちくってむしくってしぶい)」なんて、聞きなしされているらしい。

 

シジュウカラは「ツピ、ツピ、ツピ」かと思ったら、「土地、金、欲しいよ(とち、かね、ほしいよ)という聞きなしがあるようで、身も蓋もなくて笑っちゃう。

 

カッコウは、「カッコー、カッコー」という鳴き声から付いた和名で、なんと英名《Common cuckoo》もこの鳴き声に由来するそう。類似種のツツドリは、「ポポ、ポポ」と筒を叩く音のような鳴き声から、筒鳥(つつどり)と名づけられたそうな。

 


カッコウの鳴き声を思い出すと、山や高原に行きたくなる。夏の朝の、緑色の、澄んだ冷たい空気が吸いたい。大木に抱きついて、耳を当て、水を吸い上げる音を聞きたい!

 

それでも、近くにたっぷりと自然を感じられる、森林浴もできる大きな公園があるだけで、感謝しなくてはね。フィトンチッド、しっかりいただいたよ。心に風を通すことができたし、いろいろ浄化された気がする。

 

自由に旅に出られるようになったら、やっぱり私、たくさんの種類の野鳥に会える森に行きたいなあ。まだ見たことのない小鳥を見つけたり、鳴き声を聞いたり。そんなことを夢みている。夢みていると、何かが少し軽くなる。

 

とりあえず、深呼吸しよう。
安心してどこにでも行ける日が、早く訪れますように・・・

 

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物語を読むということ、書くということ

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本を、あまり読まなくなってきたな・・・
そう感じ始めたのは、いつからだろう。

 

もちろん、全く読まないわけではない。本は今も大好きだし。
けれども、かつてのように履歴書の趣味の項目のトップに「読書」と書けるかと自分に問えば、今はもうできない気がする。残念ながら。

 

40代の頃はまだ、通勤電車の中で文庫本の小説を読んでいた。降りる駅に気がつかず、乗り越して遅刻してしまったこともあった。鞄には常に、本が入っていたあの頃。

 

転職をして、読む本は仕事の資料優先になって、それがきっかけで楽しみとしての本から少しずつ離れていったのかもしれない。仕事上の悩みも多く、忙しさもあって。

 

いや。単純に、視力の低下で細かい字にうんざりしてきたからかな、とも思う。老眼鏡をいちいち出したりしまったりは、なかなかに面倒くさい。電車での時間つぶしはスマートフォンに替わっていた。

 

現在は家にいるのだけど、多分、年に10冊も読んでないんじゃないかな。それもほぼ電子書籍。物語ではない趣味の本、実用書的なものは、結構買っているが。

 


さて。
そんな私が、久しぶりに、本当に久しぶりに、ミステリー小説を読んだ。

 

私の大切な友人が送ってくれた本。彼女の義妹さんが書いたミステリー小説だ。タイトルは『風よ僕らの前髪を』(東京創元社)。第30回鮎川哲也賞優秀賞受賞作で、これが著者、弥生小夜子さんのデビュー作となる。

 


風よ僕らの前髪を

 


261ページの長編。立派なハードカバーの本で、装丁も美しい。電子書籍も手軽で良いけど、こういう、いかにも「本!」という感じの手触りには、宝物感があって気分が上がる。

 

実は、ミステリーって昔からそんなに読んでこなかった。最後に読んだのは、東野圭吾さんの『白夜行』あたり?

 


白夜行 (集英社文庫)

 


サラ・パレツキーの、女探偵 V・I・ウォーショースキーシリーズは、2000年くらいまで読んでいたのかな。

 

当時、近所の友人がお連れ合いの転勤で米・テキサス州に引越すとき、「お餞別は何がいい?」と聞いたら「向こうで私でも楽しんで読める本を何か、本好きのつきかなさんのお下がりでちょうだい」と返答されたので、全部差し上げたのだった。

 

主人公が胸のすくカッコいい女性で勇気がもらえるし、アメリカの雰囲気が存分に楽しめると思って。「V・I」はテキサスじゃなくイリノイ州・シカゴの探偵だけどね。あれは好きなシリーズだったなあ。全部買い直すか?笑

 

✻シリーズ第1作は『サマータイム・ブルース』。懐かしい。

 

それ以降で、何かミステリーって読んだかしら。思い出せない・・・

 

ああ。こんな私なのに、友は高価な本を贈ってくれた。ご縁だと思って読んであげて、と。なんだか申し訳ない。昔、出版社にいたけど文芸は担当していないし、ミステリーファンですらない。最近は「本好き」を自称するのもはばかられる。いただいてしまって良いのかしら。

 

でも、読み始めたら・・・
すごくすごーく、楽しかった!

 

物語の世界に没頭することが、謎に引き込まれていくことが、とても気持ち良かった。そんな楽しさを思い出させてくれたということだけで、友にも弥生小夜子さんにも、大感謝である。

 

本のカバーの折り込まれた箇所に、あらすじがあり、その末尾に「圧倒的な筆力で選考委員を感嘆させた第30回鮎川哲也賞優秀賞受賞作」と書かれていた。圧倒的な筆力。すごい賛辞だ。

 

ミステリーに明るくない私には、ミステリーとしての構成やストーリーなどがどう優れていて非凡なのか、お恥ずかしいがよくわからない。ただ、登場人物や風景の詩的な描写をはじめ、端正で美しい文章が心地よく、吸い寄せられるような魅力を感じた。

 

東京・山の手を舞台とした現代劇で、少年たち青年たちが繰り広げる物語だが、全体に古風な趣きで落ち着きを感じる。暴かれた真実。殺人や虐待などの酷いシーンも、繊細でファンタジーめいた世界観が淡く包み、衝撃的ではあるけれど、目を背けずにいられる。

 

友人の義妹さんが書いたんだと、最初のうちは誇らしさのお裾分けをいただいた気分で読み始めたが、あっという間に我が心は、お話の行方に持って行かれた。夢中になって物語を読む、のめり込んでいく、という楽しさを思い出させてもらった。

 


こんな風に読まれる物語をつくれるのは、すごいことだし、素晴らしいね。才能も努力もあっての快挙だと思うけど、とても素敵だ。ご苦労も多かっただろうが、ずっと物語をつくり続けてこられたことを尊敬するし、そう、ちょっと羨ましくもある。

 

物語をつくるって、本来とっても楽しいことなんだと思う。私もまた、何か物語を書いてみようかな、なんて刺激もいただいてしまった。賞を目指すとか、そういうのは無理だけど、お話をつくる楽しさを、誰かに読んでもらうくすぐったさを、もう一度味わえたらいいな、と。

 

つきかな、という名前。
これは、20年くらい前にショートストーリーを書いてた頃の、ペンネームの一部の並べ替え、アナグラムだ。私の中にまだ「お話をつくる人」でいたい部分が残っていたから、ブログネームを付けるとき、なんとなくそうしてしまったのかな。よく覚えていないけど。

 

少女の頃は、童話やファンタジーを書くのが好きで、何度か雑誌やラジオに投稿もしていたっけ。オリジナルのつもりでも、意図せずストーリーの一部が既存の何かに似ていたりして、難しかった。たくさん、挫折もしたなあ。

 

もともと空想癖のある子どもだったから、字が書けるようになる頃には、何かお話を書いていた。もっとさかのぼれば、幼い弟にせがまれて、お話をその場でつくった子ども部屋に行き着く。

 

並べた布団。4つ違いの弟の頭をのせた小さな枕を、今も思い出せる。枕カバーはウサギの柄で、弟はその枕を「ぴょん吉」と呼んでいて。そこで『ぴょん吉の大冒険』シリーズが生まれたのだった。笑

 

眠りにつく前の、素敵な別世界。それが私のお話づくりの原点で、幼い時分の我が娘たちにも子守歌のようにお話を聞かせていた。

 

とってもいい加減だけどとっても優しい、愛情たっぷりのおとぎ話。弟も、娘たちも、もう誰も覚えていないけど、私自身も内容は忘れてしまったけど、それでいいんだよね。可愛い寝顔が思い出せるだけで。

 

物語を読むこと、物語をつくり、書くということ。
どちらもシンプルに楽しめれば幸せなのだ、と思ったりする、今の私。想像の翼を広げることこそが、私には気持ち良いのだから。

 

読むことも書くことも、あまりハードルを上げずに、好きな世界に手を伸ばしていきたいな。

 

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12歳の私へ―回想と戯れた日

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早い入梅のために、大好きな5月が半分奪われてしまったような、ちょっとやるせない気分でここ数日を過ごしている。

 

ひょんなことからメルカリを始めることになり、出品できそうなものを探していた先日のこと。あっちの引き出し、こっちの引き出しと開けていくうちに、ふと手が止まった。

 

40年前、いやいやもう半世紀近く前の、古い“生徒手帳”を発見。

 

へええ、懐かしい。
生徒手帳って、中学、高校で毎年学校から配布されていたんだっけ。だとしたら何故、これひとつだけだけ残しておいたのかな、過去の私。

 

中学1年生。12歳。
あの頃の自分を、こんなに年月がたった今もまだ思い出せる。照れて薄笑いを浮かべながら、ページをめくった私。はた目にはきっと、不気味だね。

 


11㎝×7㎝、厚さ6㎜ほどの小さな手帳なのに、驚くほどの情報量。まず、そこに感心した。

 

学区地図、生徒手帳取扱い心得、校歌、生徒心得、服装規定、生徒会会則、生徒会の機構、クラブ規定、週番規定、日直規定、図書館利用に関する規定、学級文庫について、校外生徒会会則、地区別編成表、日課時間表。

 

その後は書き込み欄。
私たちの先生(校長、担任、各教科の先生)、私たちのホームルーム(役員)。

 

本年度のおもな行事予定、中学生体位平均表の後に、再び書き込み欄。
健康診断表、健康相談と治療の記録、体力テスト成績表、テストの記録、保険証、諸届欄(欠席や見学、遅刻など)、私と家庭(住所や家族構成など)。

 

次にフリースペースがあり、マンスリースケジュール欄、交通時刻表に書き込めるようになっている。度量衡換算早見表がはさまって、住所録、日課表、時間割、年間カレンダーと続く。最後の見開きは、道路標識一覧だった。

 


セーラー服を着て、学生カバンを持って、この手帳を胸ポケットに入れて。
私、きっとすごく嬉しかったんだろうな。手帳にある書き込みやいたずら書きを見て、俯瞰するように遠い日の自分を眺めた。

 

小学5年生の3学期にこの地に引越してきて4つ目の小学校に転入した私は、翌年の春、中学生になって・・・変わった。

 

それまではずっと転校生で、よそ者もしくはお客さんみたいな目で見られていると感じてきたから、目立たないように、いじめられないように、気を付けている子どもだった。

 

しかし、中学でみんなとりあえず同じ“新人”になり、同じ緊張感の中にいることが、肌でわかった。もう、よそ者意識はいらない。毎日が自由で、新しい友達もでき、どんどん楽しくなった。

 

思春期に入り、それまでぼんやり空想の世界で遊んでばかりだった少女が、自分という存在をはっきり意識しだしたようにも思う。何もかもが変わっていったことを、鮮やかに思い出す。

 

目覚めたのだ。

 

勉強のやり方が、初めてわかった。どうすれば速く走れるのかも、初めてわかった。頭を使うことも体を動かすことも楽しくなって、成績は急激に伸びた。

 

自分に自信がついてきたからだろうか、人前で手を挙げることなんてできなかった私が、よく発表するようになった。クラスのみんなが声を掛けてくれて頼ってくれたりもして、まるで違う自分に生まれ変わったような気がしていた。

 

生徒手帳のいたずら書きには、私以外の子の字や絵もたくさんあった。マンスリースケジュール欄には、みんな勝手に自分の誕生日を書き込んでいる。笑

 

テストの記録欄には、点数が暗号数字?で書かれていた。人に見られてもわからないように(見られること前提というのもどうかと思うけど)、自分で考えた数字だ。そんなこと、そういえば面白がってやってたなあ。

 

かと思えば、「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず。 ・・・」なんて、徳川家康の遺訓も書き込んでいて。変な子。笑

 


図書室が好きだった。動物ものやSFの本にはまっていたっけ。四次元とかエスパーとか、当時、流行っていたのかもしれない。自分でお話も作ってノートに書いていた。

 

テレビでも「タイム・トラベラー」が面白くて。アニメでは、三つのしもべを従える超能力少年のお話、「バビル2世」が大好きだった。

 

あの頃、テレビは元気だったな。歌番組も盛んで、西城秀樹さんのファンになったのも、中1だった。けれど、当時は家にテレビは1台しかなく、チャンネル権は父。見たい番組もなかなか見せてもらえず、悔しい思いもしたものだ。

 

もっとHIDEKIが見たかった。涙

 

それでもまだ素直だったよ、私。親に反抗もせず、勉強も、部活のテニスも、よく頑張っていたと思う。美術も音楽も大好きになり、先生方とも良い関係が築けて、小さな恋のようなものも生まれて、毎日が輝いていた。

 

中学2年になり、また少し暗い私にトーンダウンしてしまうのだけど・・・そうか。だから生徒手帳でこれだけが残してあったんだ。いろいろ花開いて、希望にあふれ、未来に広がりを感じられた日々が、ここに詰まっていたから。

 


そして、家族欄の母の年齢、38歳におののく。父も母も、いやはや、若かったのね。

 

私が38歳のときって、何してたっけ。子どもたちはまだ小学生と幼稚園児。私は当時SOHO(ソーホー)と呼ばれていたスタイルで、家でライティングや編集の仕事を細々とやっていたかな。

 

インターネットが普及してきて、携帯電話を持つ人も増えてきて、面白い時代だった。

 

東京や広島など、遠方の会社から個人に仕事が依頼され、家で書いて送信する。そんなことができるようになったんだと、当時はとても嬉しくて、仕事環境はこれからどれだけ素敵なことになるんだろうと、ワクワクしていた。便利さは罠も多く、必ずしも幸せとは繋がらないのに、まだわからなかったのだ。

 


時代の変化を見るとき、人生って長いんだな、と気付く。

 

戦前、戦中、戦後も知っていて、高度経済成長もオイルショックも、バブルもその崩壊も経験している、父母たちの世代って、なんだかすごい。時代に踊らされ、時代に振り回され、大変な人生だよね。

 

そして、コロナだ。母はこれに罹患はしなかったが、面会が禁止されている中、病院で家族に会えないまま息を引き取った。波乱万丈の人生。本当におつかれさま、と言ってあげたい。

 

今日は、その母の命日で。
あれから1年がたった。

 

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実は先日、弟の住む町で納骨と一周忌の法要があったのだけど、緊急事態宣言などのため、私も父も参列できなかった。

 

まさか自分の親の一周忌に出られなくなるとはね。
仕方ないこととは言え、切なかった・・・

 


それはともかく。
母たちも大変な時代を生きてきたけれど、受験戦争や長い不景気にさらされた私たち世代も結構大変だと思う。また、就職氷河期に見舞われたロスジェネ世代も、ゆとり世代とくくられた娘たち世代も大変だ。もちろん、それぞれ楽しいこともたくさんあったはずだけどね。

 

人生って、なんなのかな。
明るい未来が、本当にほしいね。時代が良くなってきたと、実感してみたい。

 


12歳の私は、ノストラダムスの大予言を信じて自分は40歳までは生きられないと思っていたようだけど、こうして生き延びている。そう、30代の自分すら想像しようがなかった、あの頃の私。

 

母だって、30代のあの頃、自分に死が訪れる日のことなど想像できなかっただろう。笑顔が、ただ笑顔だけが、懐かしく思い出される。今の私よりずっと若かった母の。

 

不思議な気分だ。

 

手の中にある小さな生徒手帳が、何かを語りかけたくて今、現れたような気さえする。人生のハイライトがあるとすれば、この頃が私の、最初のハイライトだろうと思う。今なら、わかる。

 

思い出したのだけど、小学生のとき、

 ♪わたしは、おとな、なの。
 ♪いいえわたしは、12歳。

というフレーズのコマーシャルがあったと思う。チョコレートだったかな。長いサラサラ髪の少女がとても素敵だった。それで、私は多分「12歳」に憧れていたのだった。

 


ふと思いついて、12歳の私に伝えてみた。どうか今をもっと楽しんで、と。あなたは、今もずっとこの手帳の中に、私の中に、生きている。同じ輝きを持ったままで。

 

そして、あれから40年以上生きてきた私だけど、この先もまだ人生のハイライトがやってくると、信じて諦めずにいるよ、とも伝えた。前向きな思いつき。笑

 

この生徒手帳は、まだ手元に残しておき、時々、12歳の私に話し掛けてみようと思う。

 


今年は長梅雨らしい。もう「雨季」と呼びたくなるような、日本の梅雨。

 

イメージ通りの、紫陽花に光る雨粒、新緑を濡らす細い雨、の梅雨であってくれたなら、それも好きなのだけど、現実は厳しい。豪雨などによる災害が心配だ。

 

母の日があり、結婚記念日があり、薔薇が咲き、風が香る大好きな5月が、もうすぐ終わってしまうのは寂しい。でも、仕方ないね。来年はもっと、たっぷりと楽しめますように。

 

さあ、意識して、梅雨どきでも腐らずに過ごそう。機嫌よく暮らそう。
ああ、本当に、朗らかに生きていきたいなあ!

 


✻ところで、冒頭のメルカリデビュー、なかなか刺激的でした。5つ出品してすぐ、1つに買い手が付き、心の準備もできていなかったので妙に焦って。こんなにすぐに売れるものなの?と驚きましたが、他の4つはまだ売れず。笑 そんなに甘いものじゃないですよね。でも、包装して発送してコメントでお礼を言って、などという一連の作業まで含めて、結構楽しかったです(*^-^*)

 

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5月の薔薇とカーネーション

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子どもたちが幼かった頃。
幼稚園のスクールバスを待つ場所は、近所のお宅の玄関先だった。

 

そのお宅のフェンスには、蔓薔薇が絡ませてあり、このくらいの季節になるとたくさんの赤い花が咲いた。バスを待つ間、甘く清潔なその香りに包まれるのが毎朝の楽しみだったことを思い出す。

 

当時、私は赤いミニ薔薇を2鉢、ベランダに置いていた。大した世話もしていないのに、薔薇は何年もの間、春と秋に可愛い花を咲かせてくれた。小さな花だったけど、顔を近づけるととても良い香りがした。

 

昔から薔薇が好き。でも、本格的なものを自分で管理するのは難しそうで、ずっと手が出せず今に至る。病害虫の対策も勉強して、いつか素敵な香りのする薔薇を、この手で育ててみたいな。

 

ここ数年は、もっぱら切り花で薔薇を楽しんでいる。ただ、薔薇を買うのはもう少し先にしようかな、と今は思う。この時期のお花屋さんで一番目立つのは・・・カーネーション。

 

もうすぐ「母の日」だ。

 


昔は、亡くなったお母さんには白いカーネーション、と言われていたように思う。12年前の秋に義母が他界し、翌年「母の日」が近づいた頃、遺影の傍に飾って義母に捧げようと白いカーネーションを探した。

 

あの年から毎年、5月になると探しているけれど、年々見つけるのが難しくなってきた気がする。カーネーションの花色は、とても増えているようなのに。

 

需要がないのか?
故人には「白」、というのはあまり一般的ではなくなってきたのかな?

 

我が家では、「母の日」のカーネーションを、今年からは二つの遺影に飾ることになった。

 

比較的大きな園芸店に行ったのだけど「白」は見つけられず、白い花びらに紫色の縁取りがある大輪のカーネーションに、アルストロメリア・パールという白い可憐な花を添えて、義母に捧げた。

 

実の母には、薄いピンクのスプレーカーネーションを。アルストロメリアも少し分けてもらって、ベランダのローズゼラニウムも加えて小さなフラワーベースに生けてみた。華やかで可愛い雰囲気の好きな人だから、白よりも喜んでいるんじゃないかな、なんて。

 


二人の母と、二人の父に、毎年「母の日」と「父の日」の贈り物を選ぶのは、頭を悩ませることであり、楽しみでもあった。二人の母と、一人の父を亡くした今は、それが温かな回想につながること、幸せをいただいていたのだということが、やっとわかる。

 

優しい人たちのあの笑顔はもう、思い出の中でしか見られない。瞳の輝きも、目尻のしわも、笑い声も、涙が出るくらい懐かしい。この世界に、それは確かに存在していたのに。

 


若葉が風に揺れて光っている。5月は一番好きな月。

 

去年に続き今年もコロナ禍で、ゴールデンウイークも今ひとつ盛り上がりに欠けたまま過ぎて行った。もっとも我が家はこれまでだって、そんなに派手に遊べたことはなかったのだけど。まあ、気分的なことでね。

 

それでも先日は夫が、元気のない私をふいにドライブに誘ってくれた。県をまたがず、密を避けて、近隣の市のフラワーガーデンへ。

 

久々に“あっちもこっちもお花だらけ”の、夢のような景色を楽しむことができた。お昼時で驚くほど人も少なく、安心して散策できたのはありがたかった。

 

短時間ではあったけれど、花や木々のアロマを胸いっぱいに吸って、自然の色、造形美をこの目にしっかり焼き付けて、パワーチャージ!

 

やはり、花園は素敵だ。

 

✻心の中には、私も「秘密の花園」を持っているのです↓

tsukikana.hatenablog.com


誰もいなかったローズガーデンのコーナーでは、そっとマスクをはずし、その香りをいただいた。まさに“いただく”という感じ。自然に「ありがとう」と言葉にしていた。

 


 Rose de Mai

 

フランス語で「5月の薔薇」という意味の、香料製造用の薔薇があるそうだ。香水の町、南仏グラース産が有名で、収穫は5月の早朝。最高級品のオイルが抽出される。

 

グラースでローズ・ドゥ・メの花を摘むのが、私の夢のひとつだと、以前も書いていた。やはり、5月は薔薇だよねと、意を強くする。

 

母の日が通り過ぎて、カーネーションとお別れするときがきたら、この小さな我が家のあちらこちらに、薔薇を飾ろうと思う。そして、緊急事態宣言やまん延防止等重点措置が解除されたら、またローズガーデンに出掛けたい。

 

✻2年前にローズガーデンの記事を書きました。グラースに行きたい!↓

tsukikana.hatenablog.com

 

✻私は、薔薇は香り重視↓

tsukikana.hatenablog.com

 

✻でも、薔薇の香りを嗅ぎ分ける自信はありません・・・↓

tsukikana.hatenablog.com

 


遠くに旅行したいとか、大勢で会食したいとか、大層なことはこのご時世に私、望んではいないのだ。でも・・・

 

美しい5月を、短いこの輝きの時間を、ほんのささやかでもいい、リモートでなくリアルに味わいたいと、今、切に願う。でも、現実は厳しいなと、昨夜からのニュースにため息をついている。
(緊急事態宣言は5月末まで延期され、愛知県と福岡県が追加。まん延防止等重点措置は8道県に拡大されるようですね・・・悲)

 


気を取り直して。
ところで、紀元前から栽培されていたという薔薇だけど、「ベルサイユのばら」の時代(フランス革命前後)にはまだ、あの美しい剣弁高芯咲きの真紅の薔薇はなかったと、今朝の「あさイチ」で聞いて驚いている。

 

ちょ、ちょっと待って。オスカルと赤い薔薇はセットでは?
も、もちろん漫画だからね、と言われればそうなんだけど、少しショック。

 

薔薇といえば、ずっとピンク色だったのだ。そういえば、薔薇色の頬、とか、薔薇色の人生、とかは、薄紅色だからこそ成立する例えか。ワインのロゼも、ピンクだし。

 

でも、15世紀の薔薇戦争は、赤薔薇対白薔薇だよね。
あれ?私の聞き違いだろうか。品種改良がここ200年ほど、という話だったのかな。薔薇の色は、いったいいつからピンクだけでなくなったの?

 

 

・・・そんな訳で私、奥深い薔薇の歴史にもはまりそうな気配である。

ステイホームで。

 

 

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体と心に声を掛けよう―私のセルフケア

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数日前、ツバメの姿を見た。
我が家の前の電線にも、一昨日から2羽のツバメがよく羽を休めている。マンション1階店舗の軒先に、また巣を作るのかな。今年も来てくれたんだね。「おかえり」と言いたくなる。

 

家に居ながらにして、間近に野鳥の姿を見られるのは、嬉しいものだ。特にこのツバメたちは、私の顔を見る。逃げない。話し掛ければ聞いている風にさえずりを返す。

 

この先の毎日の楽しみが、ひとつ、できた。

 


左膝の調子が良くなってきたと思ったら、今度は右膝が。痛みが消えたと喜んでいたら、再び左膝が。好きな散歩にもなかなか出られず、家にこもる時間が増えてしまった私。

 

どうも1万歩を超えて歩くと悪くなる気がする。健脚だった頃が恋しい。でも、ストレッチをしておとなしくしていれば痛みは退いていくので、今年は整形外科にも行っていない。

 

喉元過ぎれば熱さを忘れる、じゃないけど、痛みが去れば「あれは何だったの?」みたいにケロっとしてしまう。椅子から立ち上がろうとして小さく叫ぶほど痛かったときには、「自由に動けるって何て素晴らしいことだったんだろう」と、あんなに強く思ったくせに。

 

指先のほんの小さな傷でも痛みがあれば、情けないくらい生きづらさを感じる。私は本当に弱虫だ。それでも治る傷ならいい。しばらく我慢すればいいのだから。

 


長い年月を、私の器として働いてきてくれたこの体。この頃は、意識して語り掛けるようにしている。ご苦労様、ありがとうね、疲れさせちゃってごめんね、と。

 

気のせいかもしれないが、体はその声掛けに反応する。痛みはやわらぎ、動きが戻ってくる。

 

単なる自然治癒?
そうじゃない気がするのだ。調子悪いのに酷使して放ったらかしにしてた頃、大きな病気になったし。ドクターに「もうこれは治らないよ」と言われたけど、声掛けをしていたら症状が消えたことが複数回あるし。

 

体は、持ち主に大事にされたがっている。愛されたがっている。

 

体だけじゃない。きっと心もだ。心のことも、この心の持ち主として、忘れずに癒してあげたいものだ。

 


大小の心配事がいつも目の前にあって、ひとつ解決してもまた新しく浮上してくる。モグラ叩きのゲームのように。

 

それは、コロナ禍以前からずっとそうだったのだけど、この流行り病はかなりタチが悪く、通常の不安をさらに増幅させるような重低音として、生活に響き続けている。それももうずっと、長期間にわたって。みんな、そうかな。くたびれるよね。

 

私は、ホ・オポノポノをライフワークとして日常で実践しているが、クリーニングをしてもしても間に合わないくらい、次々に問題が立ち現われ、ひるみそうになることもしばしばだ。

 

それでも、実践しなければ問題は増え続ける。弱虫の私はすぐに潰れてしまうから、ひたすら「I love you.」と心の中で繰り返す。

 

そうすると少し、何かが変わり、何かが解決する。ありがたいことに。

 

でも、忙しかったり、目の前のことで夢中になっているとつい、自分の心をケアするのを忘れてしまう。ホ・オポノポノでいう「ウニヒピリ」のケアだ。

 

こんなに大事にされたがっているのに、見ないふりしてしまってた。あるいは、存在をすっかり忘れてた。そんな時は、だいたい何かよくない小事件が起こる。頻繁にあるのが、寂しさの経験だ。それは、ウニヒピリが寂しがっているからだろう。

 

「ごめんごめん。さあ、楽しいことしようか。あなたは何がしたい?」

 

自分の内面に向かって声を掛ける。変な人みたい?笑
答えは聞こえてこないけど、オードリー・ヘプバーンの映画が観たいなあとか、HIDEKIの歌が聴きたいよとか、チョコレートが食べたい!とか、自分の声掛けに対して自分が反応する。笑

 

体に対しても、心に対しても「どうしてほしい?」と第三者になって訊ねてみると、意外とこうしてほしいのだとわかる。それを出来る限り実行してあげることで、体も心も打ち解けて快復に向かい、本来の力を取り戻していくようだ。

 

今こそ、忘れずにセルフケアを続けたい。そう思う。

 


マスクが苦痛になっている。息苦しい。
でも私は、買い出しなどで外に出るときにだけ、つけているのだ。仕事や学校で一日中マスク生活を強いられている人が大勢いるんだよね。本当に、大変だと思う。みんながマスクなしでいられる生活に早く戻りますように!

 

県外の長女一家のところへ行く計画も、県内の次女の誕生日祝いをする計画さえ、コロナで飛んでしまって気落ちしているが、私などよりずっとずっと辛い思いをしている人がいるので、泣き言を口にすることさえ申し訳ない気分になる。

 

きっとそんな風に、みんな、我慢しているんだろうね。

 

4都府県にまた、緊急事態宣言発令が決定。感染への恐怖とともに、終わりの見えない自粛生活への不満、自粛しない人たちへの苛立ち、経済的不安、諸々の鬱屈がたまっていく。

 

強そうに見えていても、心が弱ってしまっている人もたくさんいるんじゃないかな。私はホ・オポノポノをお勧めする立場ではないけど、スピリチュアルが苦手な人も(実は私、苦手でした)“自分の体と心に声掛けをする”というセルフケアをやってみることを、今、提案したいと思う。

 

ちなみに、さっき私の体に「今、どうしたい?」と聞いたら「PCから離れてベランダに出て、外の空気を吸いたい」とのこと。笑

 

深呼吸して、ついでにローズマリーやレモンバームに触れたら、良い香りで気分も爽やかに。

 

そうそう、昨日は、私の心(潜在意識・ウニヒピリ)に声を掛けたところ、もっと野鳥のことを知りたいと希望を述べたので(まあ、私がね)、コンパクトな野鳥図鑑を注文。さっき届いて心が喜んでいる。

 


ぱっと見わけ観察を楽しむ 野鳥図鑑

 


今朝は、「最近、お洒落をしていないなあ。お洒落って、どうやってするんだっけ」なんてウニヒピリと話していたら、なんと、NHKの「あさイチ」のゲストにスタイリストの西ゆり子さん(70)が登場。お仕事柄もあるけれど、年齢を超越したその素敵な着こなしに目が釘付け。やっぱりお洒落って楽しいよね!と心がワクワクしてきた。

 

www.nhk.jp


「10年後に自分がどうなっていたいか、を考えると、今、何をどう着ようかというのが明確になってくる」

 

というようなお話もされていた。ファッションだけでなく、生き方のヒントにもなると思った。

 

西ゆり子さん。とても魅力的だったなあ。いろいろ素敵だったけど、偉ぶらない優しい語り口と、包み込むような笑顔が、何より素晴らしかった。

 

少し自分より年上の女性で、憧れる人を見つけると嬉しくなる。とてもその人のようには生きられなくても、「この部分は真似できそう」とか「この考え方を取り入れよう」とか思えることで、前向きになり、気持ちがパーッと明るくなる。

 

良い刺激を受けて、今日を楽しくスタートできた。西ゆり子さんをゲストに呼んでくれて、「あさイチ」さん、ありがとう!

 

✻西ゆり子さんのオフィシャルブログ

ameblo.jp

 

まあ、だからと言ってすぐにお洒落ができるわけではないのだけどね。笑
今度どこかへ行くときに、何を着ようか考えるのがメンドクサイ、とはきっと思わないだろうな、という自分の感想が好ましくてニコニコしている。

 

今日の「素敵」を見つけて上機嫌になった私は、ウニヒピリに「ありがとうね」とまた声を掛ける。後で、野鳥図鑑を見ながら、もう一度声を掛けてみよう。

 

今日は私、少しはケアできているかな?
(顔は笑っていますね *^-^*)

 

✻ホ・オポノポノについて過去に書いた記事はこちらです↓

tsukikana.hatenablog.com

 

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動力は「憧れ」だった―桜の季節に思い出すこと

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憧れ。
ただそれだけが、前進するエネルギー源だったんだろうと思う。あの頃の私。20歳だった。

 

4月になり、桜の花びらが舞う中を歩いていると、これまでの人生で経験した、さまざまな節目のシーンを思い出す。私自身の入学・卒業式だったり、娘たちのそれだったり。

 

そして何故か今年は、20歳の自分を何度も思い出している。社会人になって上京した、小舟のように危なっかしい自分を。

 


短大を卒業し、私は神戸市に本社のあるアパレルの会社に入社した。勤務は東京本社だったので、最初は井の頭線の三鷹台駅に近い女子寮に入居することになった。

 

親元を離れて、初めてひとりで暮らす。東京も住むのは初めてだし、寮も初めて。でも、どこか全能感(万能感)があったのか、あの頃の私は怖いもの知らずで、新しい世界に飛び出せることが嬉しくて仕方なかった。

 

まだ20歳の娘をひとりで東京になんて、よく出したなあと、父は同僚から散々言われたそうだ。それでも、私の気持ちを優先させてくれた。苦虫を嚙み潰したような顔をしながらだったが。

 


父の友人のガクちゃんが運転するトラックで、引越しをした日のことは、よく覚えている。

 

両親も一緒だった。荷物はステレオとレコード、ギターと服と布団くらい。近所の商店街で引越し蕎麦を食べ、時計屋さんでガクちゃんに目覚まし時計を買ってもらった。

 

両親からは10万円が入った封筒を渡された。給料日まで、これで生活しなさいと。心配そうな母の目。大丈夫だよ、と笑う私。

 

けれども。
3人が帰った後、積まれた段ボールにもたれて、私は急に心細くなったのだった。

 

・・・あれ。大変なことになってしまった?

 

と、それまでの強気はどこへやら。気がつけば頬を涙が伝っていた。そんなおっちょこちょいなところもある娘だった。

 


被服科で服を作ったり意匠を学ぶようになって、服に関わる仕事がしたいと思うようになった。同時に「ここでないどこか」へ行きたい気持ちが膨らんだ。神戸でも東京でも。

 

好きな仕事ができるんだ!
自分の暮らしを自分で作る「自由」を手に入れるんだ!

 

まさに巣立つ鳥。まだ見ぬ世界への憧れは、桜の花びらよりもキラキラしていた。不安や心細さも淡く霞ませてしまうくらい。

 


激変した環境に、私は順応していった。
仕事は厳しかったけど、素敵な仲間に出会い元気に働いていた。そして、いつも傍には音楽があった。

 

当時はまだ、CDもなかったんじゃないかな。私は毎日、持ってきたレコードを聴いていた。中でも、高3の終わりに買った、佐藤奈々子さんのアルバム「Pillow Talk」がお気に入りだった。

 

これ、1978年リリース。40年以上前なのに、今聴いても全然古さを感じない。というか、発売当時からノスタルジックな世界観だったから、普遍的な、名画的な存在感なのかな。

 

全部の曲が好きだけど、今もふと口ずさんでしまうのが「悲しきセクレタリー」。タイプライターを打つイントロが印象的。

 

この歌詞の中の ♬ハッカの香る熱い風に~ のところが大好きで、私のその後のハーブ熱にもつながる。ミントを窓辺に置くことを夢見た。

 

ちょっと物憂くアンニュイ、コケティッシュな声と歌唱が魅力の佐藤奈々子さん。「Pillow Talk」は、往年のパリやニューヨークで働く若い女性の日常を切り取ったようなイメージ(主観です)で、20歳前後の私の思い描く「憧れの都会でのひとり暮らし」像の、ひとつだった。

 

✻こちらで試聴ができますね。最初の45秒だけですけど。

tower.jp

 

✻2017年にリマスター盤が発売されていたのですね。


Pillow Talk(+2)

 


会社の女子寮にいたのは半年ほどで、私は目黒本町にアパートを借りた。私の仕事は一般職ではなく連日残業が付いて回り、寮の門限に合わせて帰るのが難しかったからだ。

 

というのは言い訳で、やはり、本当のひとり暮らしへの「憧れ」が動機だった。

 

自分のお城が欲しい。好きな家具を置いて、いつも花を飾っていたい。例えば、一抱えのカスミ草をガラスのフラワーベースにどさっと。

 

疲れて帰った夜、好きなものばかりが待つ自分の部屋が、どれほど明日への活力になったか。生活を自分好みに、素敵にデザインしていくことが嬉しくて、大変な仕事も頑張れた気がする。

 

まあ、その仕事は結局、3年で辞めてしまったのだけど。その次にライターの仕事を始め、東京には6年半ほど暮らしたことになる。

 

桜はかの地で7回、見たんだね。散歩コースにあった桜並木は、本当に見事だった。

 

目黒のあの部屋の様子だって、今も鮮やかに思い出せる。懐かしくくすぐったく、恋しくさえある。あんなに小さな部屋なのに。きっと、夢や憧れが満ちていたからだろう。

 

幼稚でお馬鹿さんだったけど、大胆で繊細だった若き日の自分が見えるようだ。ちょっとまぶしい。nanaco世界みたいにコケティッシュにはなれなかったけど。笑

 


新年度、なんだね。スタートの季節。新しい旅立ちのとき。
大変なご時世になってしまったが、桜は今年も律儀に咲き誇ってくれて、スタートラインに立つ人々を応援しているかのよう。

 

入社式もリモートで、という所も多かったそうで、残念なことだろうと胸が痛む。でも、私は入社式のことってほとんど覚えていないんだよね。新社会人になったときの胸のときめきは、この先いつまででも、思い出せそうなのに。

 

あの日「憧れ」を乗せた小舟は、なんとか大河に漕ぎ出して、荒波も凪も経験し、今も転覆せずになんとか浮かんでいる。実は相変わらず危なっかしいけれど、新旧の「憧れ」を動力に、まだ先へ進もうとしている。

 

絶望の淵にあった年でも、桜は見事に咲いて慰めてくれた。
「世界はこんなに美しい」
と、心が震えた。もっとたくさん、美しいものが見たい、と思わせてくれた。

 

今は辛くても、きっとこの先に心が震えるような美しいものがたくさんある!
価値観も移り変わった世の中ではあるが、「新しい船出に幸あれ!」と、祈らずにはいられない。

 

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